2023年10月29日

古い契約を超越する愛 マタイによる福音書22:34~46 A年特定25 2023.10.29

古い契約を超越する愛  マタイによる福音書223446 2023.10.29

(1) 2023年10月29日聖霊降臨後第22主日 - YouTube


 私たちは、主なる神がお造りくださったこの世界の長い歴史の中で、ほんの僅かな時を生きています。この世界は私たちが生まれる遙か昔から存在し、またやがて私たちがこの世界にいなくなっても、その遙か先にまでこの世界は存在していくでしょう。そのことを思う時、自分の存在を遙かに超えて働く神に自分を覚えていただき、祝福された者でありたいという信仰が生まれます。

 ことにイスラエルの民の場合、その思いはとても強く、民族として命が繋がれていくことを大切な事と考えていました。

 イスラエルの民にはエジプトで奴隷になっていた時代があります。「自分たちがなぜ異国人に支配されて苦しまなければならないのか。先祖たちがエジプトから抜け出す事ができたのはなぜなのか」を考えると、人の力では動かせない大きな力が何かの目的をもって初めから終わりまで働いていると考えざるを得ませんでした。

 モーセの時代に、奴隷状態にあったエジプトから奇跡的に脱出したイスラエルの民は、その出来事に働いた不思議な力を「主なる神」の働きであると信じます。彼らは、幾度も神を疑い、神に背きますが、度重なる奇跡の経験を通して、自分たちは「神に選ばれた特別な民族」であると自覚するようになっていきます。

 そして、イスラエルの民は自分たちを守り導く神といつも正しい関係を保つことの必要性、重要性を思い、神から十戒を賜り、その十戒を中心とした律法の体系の中に生きるようになります。神との契約である律法をしっかり守り、神との関係を正しく保って生きることが、永遠から永遠にまでお働きになる神とつながることで、自分も永遠の命に与ることができると考えるようになっていったのでしょう。

 それがイスラエルの民にとって「神に選ばれた民」として生きるということでした。

 しかし、時代と共に、この「選民意識(自分たちは神に選ばれた者であるという自己認識)」は、神に選ばれた者の特権を享受する事に移り変わり、その枠の外にある人々を差別することにつながっていきます。

 今日の聖書日課福音書で、ファリサイ派の律法の専門家は主イエスに次のように尋ねています。

 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」

 ユダヤ教の先生(ラビ)によれば、律法の掟は613であり、その613のうちの365が「してはならない」という禁止命令、248が「しなければならない」という実行命令でした。禁止命令の項目数「365」が一年間を示す数字ですが、実行命令の項目数「248」は人体の骨の総数であると考えられていました。まさに人の骨格が人の体を支えているように、律の掟がイスラエル民族の骨格を支え、1年の全ての日365日をしっかりと生きることを目論んで、掟の条項がこの数になって律法が構成されていたと想像されます。

 ファリサイ派の人が主イエスに「律法の中でどの掟が最も重要でしょうか」と質問をしていますが、その質問には35節に記されているとおり「イエスを試そう」という意図が隠されいました。

 因みに、この「試す」という言葉は、主イエスが宣教の始めに荒れ野で40日40夜断食して過ごしたときに悪魔がやってきてイエスを試そうとした場面で「試す、誘惑する」と用いられている言葉と同じ言葉であり、この場面でもファリサイ派は、イエスが答える言葉からイエスの落ち度や矛盾を探し出そうとする下心をもって主イエスに質問したのでしょう。

 この質問に対して、主イエスは、二つのことをお答えになりました。

 その一つ目は37節の「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」という事、二つ目は39節の「隣人を自分のように愛しなさい。」という事であり、更に「律法全体と預言者(旧約聖書の全体)は、この二つの掟に基づいている。」と言っておられます。

 この「基づいている」という言葉は、聖書協会共同訳では「この二つの戒めに、律法全体と預言者とがかかっている」と訳されています。この言葉は元々は「吊す、ぶら下がる」という意味であり、613の掟は皆「神を愛すること」と「自分を愛するように隣人を愛すること」にぶら下がっているようなイメージで捕らえてみると興味深いかと思います。

 主イエスは、神を愛する事と人を愛する事の二つが「律法全体と預言者」であると言っておられますが、この二つのことが旧約聖書全体の要である、と言っておられるのです。

 旧約の全体は、神の愛に基づいており、人が神の愛から離れてしまえば、仮に表面的には掟を完全に行っているようであっても、613の各律法の言葉は意味を失います。仮に表面では律法の文言を守っているように見えても、その行いが愛に裏打ちされていないのなら、神とあなたがたとの関係は十分ではないと、主イエスは質問してきたファリサイ派の人々を批判しておられるのです。

 主イエスと論争する律法の専門家たちは、律法を守っている自分を見せることに拘り、生き方も形式化し、上辺を装って保身を謀り、権力を保とうとしていたのです。

 主イエスは、そのようなユダヤ教の担い手たちに対して、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の二つの掟が神の教えであると教え、その内実を失っているユダヤ教の権力者たちを鋭く批判したのでした。

 神の愛は、民族によらず誰にでも同じように代価無く注がれています。神の愛を受け、愛をお与え下さる神を愛し、自分と同じように神に愛されている隣人を愛し、神への愛と隣人への愛を一つのこととして実行することが神の御心にお答えすることなのです。そして掟の各項目の実践は、二つの重要な掟の具体的な表現となるのです。すべてのことは律法の細かな文言に発するのではなく、全てのことが神と人々への愛に裏打ちされるべきであることを主イエスは教えておられます。

 主イエスは、こうしてすべての人が、永遠から永遠へと働く神と一つとされることを願い、人々に関わり続けてくださいました。

 このような理解に基づいて今日の聖書日課福音書の後半(41節以下)を読めば、その意味することも自ずと明らかになってきます。

 当時、イスラエルの人々は、救い主(キリスト)はダビデの末裔として現れると考えていました。でも、主イエスはご自身が単に血筋の上でダビデ家の子孫であるということに留まるお方ではありません。言葉を換えれば、福音書記者マタイは、主イエスは旧約聖書の内容(律法と預言)を身をもって完成するお方であり、血筋の上でのダビデの子孫であることを超える救い主(つまり民族の枠を超える救い主)であり、神の子であることを伝えているのです。

 福音記者マタイは、この出来事の終わりに「これには誰一人、言葉を返すことができず、その日からは、もはや敢えて質問する者はなかった」と記します。ユダヤ教の指導者、権力者たちは、イエスを殺すことへと具体的な相談を始めるのです。

 主イエスはこの火曜日の直後の木曜日の深夜に捕らえられ、十字架につけられることになります。人間の罪の極みがこの十字架に現れ出てきますが、この罪の極みに対して、主イエスは自分を殺害する人たちのことをも赦し抜き、主なる神との関係を少しも崩すことなく、救いの道を示し続けてくださいます。

 主イエスは、ご自分の十字架を通して、神を愛することと人を愛することを、身をもって示して下さいました。この出来事を目の当たりにした人は、このイエスこそ、神がその永遠の歴史の中でただ一度具体的に神の愛をこの世に示してくださったお方であったことを理解し、主イエスを救い主として受け容れ信じるようになりました。

 その信仰者の群れによって、神のみ業は語り継がれ、たとえ小さな私たちでもイエスを救い主として受け入れる者は、神の永遠の愛の働きに生かされる希望と喜びを得ているのです。

 私たちは、主イエスによって示された神と人への愛に生かされています。

 ことに今日は、ことにこの教会に関わりながら主にあって逝去された人々を覚えて、礼拝をしております。信仰に生きたこの教会の諸先輩方を思い起こして感謝すると共に、私たち一人ひとりも、神の愛に生かされ、神の愛にお応えして神と隣人を愛する信仰の共同体を造り上げていくことへと歩んで参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 23:09| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください