神さまのくださる特別賞
皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。(マルコによる福音書第12章44節)
上記の聖書の言葉は、神殿で人々が献金している様子を見ておられたイエスさまが、弟子たちに教えて言われた言葉です。
多くの人が他人に見せつけるように献金箱にお金を投げ入れる中、貧しい女の人が小さなコイン2枚を献金しました。それは彼女の持っていた全部でした。イエスは「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は乏しい中なら自分の持っているすべてを入れたのだから。」と言って弟子たちを教えました。
さて、秋の長雨が去って、やっと秋の空が見られるようになりました。高い秋の空は、子どもたちが体を動かして元気に遊ぶ姿が似合います。
多くの子どもたちは運動会が大好きです。でも、中には、競走してもなかなか一番にはなれないし、競技も負けばかりで、運動会はあんまり好きではないという子もいます。競走して勝てないことは悪いことでも恥ずかしいことでもないのですが、わたしたち大人でもついつい我が子を他人と較べて、一つの競技の中での勝敗に気持ちが向いてしまい、その結果に一喜一憂してしまうこともあるのではないでしょうか。
運動会が近づく頃、わたしは毎年のように「神さまがくださる一等賞」についてお話しします。
みんな誰でも生まれた日が違い、顔も声もそれぞれに違っていて、一人ひとりは取り替えられないのだから、体の大きな子と小さい子がいて、足の速い子がいれば遅い子がいて当然なのです。そしてその人たちが競走すれば、誰かが先にゴールに着くし誰かが後からゴールに着くのも当たり前なのです。
神さまはその到着順で人を評価なさるのでしょうか。いいえ、そうではありません。みんな誰でも神さまにかけがえのない人としてこの世界に命を受けているのですから、神さまは一人ひとりが自分の最高のプレイが出来たら、その人みんなに特別な一等賞をくださるのです。その時に精一杯取り組むことに対して、神さまは、「祝福」という特別賞をくださいます。
敢えて競い合う場面を設定するのは、わたしたちは他の人と競い合うことによって、自分を更に成長させることができることを知っているからです。子どもたちも、神さまから与えられた様々な力をのびのびと活き活きと表現し合って、その中で互いに成長していくことが望まれます。
わたしたちは、他人と比較して優越感や劣等感を持ちながら生きるのではなく、子どもも大人も神さまから与えられた命を自分でしっかりと育てていく権利と責任があります。そして、親として、保育者として、教師として、子どもたちが自分の能力を自分でしっかりと伸ばしていけるように支えて関わっていくことが大切なことなのではないでしょうか。
神さまは「あなたに与えた人生をあなたらしく存分に生きていますか?」と尋ねておられます。結果として失敗することがあっても良いし、負けることがあっても良いでしょう。
神さまはそれぞれの人の能力を「可能性」としてプレゼントしてくださっており、その能力の「可能性」を開くには、その能力を良いことのために存分に用いることが必要なのです。スポーツ選手や音楽家が繰り返して練習するのもそのためです。
目先の結果にこだわるのではなく、子どもたちが、神さまからいただいた体も心ものびのびと精一杯つかって、いろんな面で自分にチャレンジして可能性を開き、神さまから特別な祝福をいただくことを目指す秋にしましょう。