「ぶどう園の労働者」のたとえ マタイによる福音書20:1-16 聖霊降臨後第19主日(特定20) 2023.09.24
今日の聖書日課福音書には、「ぶどう園の労働者」の例え話が取り上げられています。この例え話の中で、朝早くから雇われた人も夕方5時になってから雇われた人も、皆同じように主人から1デナリオンを受けとっています。
この例え話は、聞く側の私たちがどのようなところに身を置いてこの話を受け止めるのか、例え話の中の誰に自分を重ね合わせて受け止めるのかによって、この例え話が厳しい問いかけのメッセージにもなれば、神の恵みを豊かに与えられていることへの喜びと感謝のメッセージにもなるでしょう。
夜が明けようとする頃、沢山の人が広場に集まってきます。今日一日働く事に意欲を示す人、どんなことでも良いから仕事にありつきたい人など、沢山の人がこの広場に集まります。
ぶどう園の主人は朝早くから広場に集まる人々に声をかけ、ぶどう園に送ります。一斉に実をつけたぶどうを収穫する時期は長くはありません。おまけにパレスチナでは、収穫が終わる頃から雨期に入ります。収穫のために働く時間は短く多くの働き人を必要とします。
その働きのために先ず雇われるのは、見るからに元気そうな人であり、年老いた人や体の不自由な人などはいつも決まって残されてしまいます。
朝の9時頃、お昼頃、ぶどう園の主人は広場にやってきました。そして未だそこにいる人の中から幾人かをぶどう園に雇いました。そればかりか午後3時にもまだぶどう園に雇われていく人がいます。この広場で自分を雇ってくれる人を待ちながら、半ばあきらめてそこに立ち尽くすのはいつも決まって体が弱く、その働きに相応しくないと見られる人たちでした。やがて日も傾き、自分が必要とされないことに失望し落胆する人たちがいます。
その時、ぶどう園の主人がまたこの広場に現れて彼らに言いました。「なぜあなた方は何もしないで立っているのか。」
彼らが「誰も雇ってくれないのです」と答えると、ぶどう園の主人は思いがけずこう言ったのでした。「あなたたちもぶどう園に行きなさい」。
それから1時間もしないうちに夕暮れになりました。主人はこの日の労賃の支払いについて僕にこう命じたのでした。
「最後の者からはじめて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい。」
この言葉の通り、夕方5時に招かれた人から始まり、支払われる賃金は誰もみな1デナリオンずつです。1デナリオンは当時の一日の仕事についての報酬額です。夕方雇われた者は、「自分の労働は午後5時からだったのに、主人は私にも丸一日分の賃金を支払ってくれたのだ。こんな私を一人前に扱ってくれたのだ。」と、感謝と喜びに満たされ、家族や仲間とその喜びを共にすることでしょう。
その一方、朝から丸一日働いた者は「私たちはもっと多くもらえるだろう」と思いました。でも、彼らが手にしたのもやはり1デナリオンでした。彼らは「私たちを午後5時に来た奴らと同じ扱いにするのか。」と不平を言いました。
すると主人は彼らに答えました。「友よ、私がはじめにあなたと約束したとおりではないか。私は自分のものを自分のしたいようにするのがいけないのか。それとも私に気前の良さをねたむのか。」
この例え話で「ぶどう園の主人の気前の良さ」とは、神が自由に惜しみなくご自分の愛を人々にお与えになることです。
私たちはこの「神の気前よさ」をどのように受け取るべきでしょうか。私たちは、朝早くから神の恵みを自分だけのものにして、その恵みを独り占めするのでしょうか。自分だけが神の恩恵を受けられればそれで満足なのでしょうか。また、他の人より自分の方が恩恵を多く受けなければ、遅く来て同じ恩恵にあずかる他人を妬ましく思うのでしょうか。
主人は「私の気前の良さを妬むのか」と早朝から働いた人に問いかけますが、この部分を直訳すると「私が善良なので、あなたの目が悪いのか」と訳せます。つまり、神の正しさが現れ出ているのに、その神の御心を否定して神のお働きの本質を見る目が悪くなっている、と主イエスは指摘しておられるのです。
私たちが自分を、早朝に雇われた人の側に身を置くのか、夕暮れにやっと雇われた人の側に身を置くのかによって、この主人の言葉の受け止め方も違ってくるでしょう。
もし、私たちが何の仕事も得られずに夕方まで広場に立ちつくす者であったら、私たちはぶどう園の主人の招きをどのように受け入れたでしょうか。自分が必要とされてないと思って、人生に失望し、気力も失せ、ただ虚しくポツンと立っている姿が思い描かれます。そんな人が夕方5時に雇われれば「主人はこんな私のことも召してくださった。本来招かれる資格も値打ちもない私のことさえ、主は救ってくださった」と、感謝の思いで一杯になるに違いありません。もしかしたら午後5時に招かれた人は、「いえ、私はもう雇われる資格も値打ちもありません」と尻込みする思いになるかもしれません。
でも、ぶどう園の主人はこう言うでしょう。
「あなたも私のぶどう園に来なさい。あなたは自分で自分を役に立たないとか価値がないなどと言ってはならない。私があなたを選んで招いているのだ。それなのになぜ自分で自分を小さくするのか。あなたは精一杯私の仕事をすればそれでよい。もし腕が動かずぶどうの収穫作業が出来ないのなら、ぶどう園に来てあなたは働く人たちのために祈りなさい。私の労働者たちは、みな、昔の預言者たちも、弟子たちも、そうして働いたのだ。」
私たちは主イエスがそう呼びかけてくださる御声をこの聖書日課福音書から聞き取りたいのです。
そして、私たちは、誰でもその様にして主の教会に招かれているのです。私たちも本当は夕方の5時に主イエスによって救い出された者ではないでしょうか。しかしそのことを忘れると「自分は朝早くから夕暮れまで、汗を流して疲れるほど働いた。それなのに私が受ける報酬は、あの役立たずの働きのない者と同じなのか。」と呟き、神の御心を見失い、朝早くからぶどう園で働く恵みを与えられていたことを忘れてしまうのです。朝の6時に招かれて平安の中で働いていたはずなのに、そしてその喜びと感謝があったはずなのに、他の人が夕方にやってきて自分と同じ祝福を与えられることが赦せなくなってしまうのです。自分には、早朝から天の喜びに与り、その一日をぶどう園で質の高い生活を送っている恵みがあったのにその感謝を忘れ、神の御心が何かを見失い、「自分より無価値な者が自分と同じ恵みを受けている」と考えて傲慢になり、妬む過ちに誘われるのです。
マタイによる福音書は、「神に選ばれた民」と自負するイスラエルの民に向けて記した福音書です。そのような視点から今日の聖書日課福音書に目を向けると、「自分だけが救いに与る資格がある」と考えるユダヤ教の指導者たちの思い上がりに対して、主イエスが厳しい挑戦をなさっておられることが分かります。
ぶどう園の主人の正しさの前にあって、本来私たちは誰もが罪人であり1デナリオンを受けるのには相応しくない者です。それにもかかわらず、主は私たち一人ひとりをぶどう園に招き入れて下さいました。招かれるのに相応しくなかったはずの私たちがぶどう園に招かれるのは、主イエスを仲立ちとして一方的にその恵みが与えられているからなのです。
私たちは、その感謝と喜びを新たにして、主の働きに与り励んで参りましょう。