2023年07月03日

60.水 υδωρ(ヒュドール)

水 υδωρ(ヒュドール)

 聖書には、「水」が多くの箇所で出てきます。人間のみならず命を与えられたすべての生物にとって水は不可欠のものであり貴重なものであると言えます。

 日本は緑豊かで水が豊富です。それが当たり前の私たちが聖書を理解するには、パレスチナの気候や風土のことなどもしっかりと把握しておく必要があることを痛感しました。

 エジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野で水を求めて互いに争い、また他国人とも争いました。水は、生活水としてだけでなく、象徴としてまた比喩として聖書の中に沢山出てきます。

 例えば、羊飼いと羊と水の関係。羊飼いは羊を養う上で地勢のことや水場のことを知っていなければなりませんが、その情報は安易に他の羊飼いに教えることはありません。他人の真似をしているだけでは羊飼いは羊を養えず、いつも他人とは違う独自の判断が必要になります。そのような生活は、水を共有して同じ時期に同じ作業をしながら生きる稲作文化とは全く違う生活であり、そこで育まれる精神性も稲作文化で養われる精神性とは全く異なることが想像されます。彼らには遊牧民として養われる神への思い(信仰)、聖霊、生け贄を捧げることなど、「水」を切り口として考えることは四方八方に広がります。

 「水」は、命の養い、洗い、浄めなどに関連して用いられるだけではなく、洪水やそれに発する神の罰や裁きに関する語としても用いられています。

 ヨハネによる福音書では、「水」は色々な意味を含んで用いられているように思えますが、ことにヨハネ福音書第4章の「サマリアの女」の物語でイエスが「私が与える水を飲む者は決して渇かない(4:14)」と言っている箇所などは、イエスご自身とイエスのお与えになる永遠の命のこととして「水」が用いられているように思われます。水は命にとって必要不可欠のもの。私たちが羊に例えられるなら、主なる神は私たちを水辺へと導く羊飼い。その水は飲んでもまた渇くことのない永遠の生ける水です。神にひとり子イエスこそ私たちのために命を捨てて下さったまことの羊飼いであることを聖書は伝えています。「水」は詩編第23編とも深い関わりがある言葉です。

 余談ですが、イザヤ書第124節に「あなたがたは喜びのうちに救いの泉から水を汲む」という言葉を調べていたら、ヘブライ語で「水」は「マイム」という言葉であり、フォークダンスの「マイム・マイム」はイスラエルの民が井戸を掘り当てた喜びの踊りであることを思い出しました。この踊りの「マイム(×4)、マイム、ベッサッソン」というかけ声は「水だ、水だ、喜べ!」という意味です。

 私は、もし高校生の頃にこの「マイム、マイム」の言葉の意味を知っていたら、あのフォークダンスをどのような思いで踊っただろう、と空想しました。


posted by 聖ルカ住人 at 16:14| Comment(0) | 聖書のキーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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