「空の墓 -イエスの復活-」のこと
昨日(2023.04.09)は復活日だった。それぞれの教会で主イエス・キリストの復活を祝う礼拝が行われたことと思う。
聖餐式聖書日課(A年)は、復活日にはヨハネによる福音書第20章1-10節が配当(旧祈祷書(1959年改定祈祷書)ではこの箇所が固定)されている。
この聖書日課箇所では、マグダラのマリア、ペトロともう一人の若い弟子(ヨハネであろう)が、イエスの墓を訪ねて、墓が空であったことを確認したところで終わっている。しかも、ヨハネによる福音書第20章9節には、「イエスは必ず死者の中から復活することになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」と記されており、私にとって、この箇所から復活日の説教をすることはとても重荷であった。
この箇所に向き合って「空虚な墓」ということを中心に据えて説教をしたことがあったのだろうかと自分を振り返ってみると、聖職として35年以上復活日の説教をしているのに、その確かな記憶はなく、思い出すことが出来なかった。
思い出したのは、私が神学生だった時の定期試験の問題のことだった。
おそらく、2年生の「教理学」の前期試験の問題の中にだったと思うが、語句や人物を「簡単に説明しなさい」という小問題があり、何が出題されたか覚えていないのだが、例えば、カルケドン公会議とかマルキオンとか6つぐらいの語句があって、解答用紙に2.3行でその項目の要点を記す問題があった。私は、出題されている項目の中に「空虚な墓」があったことを、なぜか印象深く覚えている。
「T先生の教理学の問題の中に〈空虚の墓〉!? 新約聖書のしけんじゃないだろう!」と思った。
採点されて戻ってきた私のこの解答部分には三角が記してあったこともハッキリと覚えている。その後、これまでの自分を振り返ってみると、私は復活日の説教の準備をするときに「空虚な墓」の箇所について深く向き合うことを避けてきたような気がする。「空の墓」をテーマにして復活日の喜びを語ることはとても難しいことのように思えたのである。
定年を迎えても、復活日は来る。今年は聖書日課福音書がヨハネによる福音書から「空虚な墓」の箇所。説教の準備をする段階で色々思い巡らせていると、「空虚な墓」について35年越しの宿題が残っているような気がしてきて、しかもその思いは次第に強くなってくる。
でも、復活日に教会に集う人々に,この箇所からどのように福音を取り次げばよいのか、この箇所から自分自身がどのような喜びのメッセージを受けているのか、筆は進まず、ある程度説教原稿が整ったのは深夜(というより当日)の午前2時をまわった頃だった。
復活日の礼拝でこの箇所を朗読し説教壇に立つと、いつにない緊張感に襲われた。まるで、神学生の説教実習で説教壇に立ったときのような思いだった。震えたり声に詰まりながらとにかく語りきった。
説教が終わると、自分の中に湧いてきたのは、まだ復活への確信の持てない自分がいつか復活のイエスに出会うこと、あるいは主イエスに迎えられることへの希望を持って歩み続けさせていただくことへの感謝と喜びであった。涙が出そうになった。それに続いて洗礼式と聖餐式の司式をさせていただく中でも感謝と喜びが時々大波のように押し寄せてきた。
私は、ふとT先生は「空虚な墓について説明しなさい」という設問に対してこの説教(解答)にどのようなコメントをくださるのだろうかと思った。
(1) 2023年 4月 9日( A年) 復活日説教 ヨハネによる福音書 第20章 1節-10節(11節-18節) - YouTube