その人を通して主の業が ヨハネによる福音書9:1-38 大斎節第4主日 2023.03.19
大斎節第4主日を迎え、大斎節も後半に入っています。
今日の聖餐式の聖書日課福音書は、先々週はニコデモ、先週はサマリアの女、そしてこの主日は生まれつき目が見えなかった人の物語を取り上げ、それぞれ主イエスとの出会いを通して主イエスを救い主と信じるに至る事例を学んでいます。
それぞれの人が主イエスが救い主であることを公に言い表すに至るのですが、当時のイスラエルの状況を考えると、そのように主イエスを救い主(メシア)であると告白することは、とても厳しい状況に立たされる可能性のある中でのことであったことを先ず心を止めておきたいと思います。
今日の聖書日課福音書では、生まれつきの盲人が主イエスによって目が開かれたことで、当時のイスラエルの権力者たち罪人と決めつけられ、会堂から追放される様子を描き出しています。
生まれつき目の見えない人が道端で物乞いをしていました。この人の前を主イエスと弟子たちが通り過ぎようとしています。この盲人に、イエスと弟子たちが話している声が聞こえてきたことでしょう。
「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
そう考えるのが当たり前の時代でした。この盲人は当然のように自分を罪人であると思い、罪の結果が、あるいは自分の先祖の罪が、自分の身に現れ出ているのだと考えていました。ところが、主イエスは弟子たちに、誰も予想していなかった事を教えておられるのです。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
この盲人は、これまで「神の業が現れる」ことは神殿で働く位の高い人や学者たちが教えを説くことで起こると思っていたことでしょう。自分のように目が見えないのは罪の結果が体に現れ、神から受けた罰がこのような徴になっていると考えたことでしょう。盲人は自分でも自分を「罪人」とし、誰も見向きもしないような人間に「神の業が現れる」ことなど関係ないことだと思って生きてきたことでしょう。
主イエスはこの盲人に近付き、唾でこねた泥をこの人の目に塗り、「シロアムの池に行って洗うよう」にと言ってくださいました。唾でこねた泥を目に塗ることはその当時の目を癒す方法として行われていたようです。また、シロアムの池は、エルサレムの南端にある歴史的な人工の池です。ユダヤ教のしきたりに拠れば汚れからの回復を祭司が認定してその宣言を受けた人が清めの式を行う場所でした。しかし、この物乞いをする盲人は、主イエスに言われたとおり、直接シロアムの池に行って洗うと、見えるようになって帰っていきました。
この物乞いをしていた元盲人にとっては、それで十分でした。
ところが、イスラエルの権力者たち-ユダヤ教の指導者たち-は、目が見えるようになったこの人のことを喜びませんでした。彼らは、見えない人の目が開けてもそれを神の業とは捉えようとせず、目が開けた喜びを分かち合おうともしませんでした。なぜなら、主イエスがこの盲人の目を開いたのは安息日であり(14節)、またこの盲人の目が開かれたのは、先ほど少し触れたように、ユダヤ教の細則や習慣に相応しいプロセスを経ていなかったのです。
そのために、権力者たちやファリサイ派は、見えるようになったこの人を調べます。イスラエルの権力者たちは、神の救いに関する営みは自分たちの手の中にあり、その外にあってはならないと考えて、この人に関わります。目が開けたこの人には、イスラエルの権力者たちが主イエスの働きを理解しようとせず、起こった出来事を認めようとしないことがよく分かりました。自分の身に起きた救いの業の事実を曲げて彼らの言いなりにならない限り、権力者たちの追求は止まないことも、彼にはよく分かりました。そして事実とは違う権力者たちの言い分に「あなた方の言うとおりです」と言わなければ、この人を追求と糾弾が終わらないことも、この目の開かれた人にはよく分かりました。こうした関わりの中で、誰が目の見えない自分を憐れんで目を開けてくれたのかが一層はっきりしてきます。
イスラエルの権力者たちにとり調べられている間、目を開かれたこの人は妥協せず、ただ率直に自分の身に起こった事実をありのままに話しました。しかし、権力者たちはこの人に向かって、イエスが律法に違反してこの汚れた男に関わったことに同意を迫り、イエスがこの人の目を開いた業は違法行為であると言わせるために様々な圧力をかけてきます。この人がそうした圧力に屈することなく、自分の身に起こった事実のみを語ることに苛立ちます。
そして、目を開かれたこの人が「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです(33節)」と答えたのをきっかけに、神殿の指導者たちはこの人を律法に相応しくない者と決めつけて、神殿から追放してしまうのです。
「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか。(36節)」
追放された後、この人は、主イエスにお会いし、自分の目で主イエスを見る時が与えられました。この人は自分の目で主イエスを見て、次第に自分を通して神の業を現してくださった主イエスを人の子(つまり救い主)であると信じるようになり、主イエスの前に跪く事へと導かれていきました。
今日の福音書の物語をよく見ていくと、かつて盲人であったこの人が主イエスどのように理解していったのか、その変化を読み取ることができます。
この人は、自分がどのようにして目が見えるようになったかを説明する時、11節で「イエスという方が・・・」と言っている事からも分かるように、この人にとってのイエスはまだ関係の薄い存在でした。それが、権力者たちに答えたりしていくうちに、17節では「あの方は預言者です」と言い、神の言葉を与る人でなければこうした働きはできないと言っています。
こうした言葉にユダヤ教の指導者たちは次第に苛立ち始め、「我々はモーセの弟子だ。あのイエスという男はどこから来てどんな権威によってそのような働きをしているのか」と怒るように言います。しかし、目を開かれたこの人は、生まれつき目の見えなかった自分の目が開かれたのは本当のことであってこれまで誰もそのようにしてはくれなかったが、あのイエスという男は私の目を開いてくださったのであり、そうであれば「あの方は神のもとから来られた(9・33)」と言うのです。
これによって、この男はユダヤ教の指導者たちからモーセの権威を蔑んだものとして神殿から追放されることになります。34節の「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」というユダヤ教指導者たちの言葉は彼らが自分たちの面目を保つのに躍起になって、この人の目が開かれたことを認めようとしない高慢な姿がみられます。また、この男を「外に追い出した」とは、単に建物の外で追い出したと言うことではなく、彼を神殿の交わりから追放したことであり、イエスによって目を開けられたこの人が迫害され、当時の社会での交わりを絶たれたことを意味する言葉なのです。
主イエスは、目を開いたこの人が神殿から追い出されたことをお聞きになり、この人にお会いしました。この男は、耳でその声を聞いて自分の目に触れてくださったことでしか知らなかった主イエスを見て、その声を確かめます。
そして主イエスの人の子(メシア)を信じるかという問いに、36節で「主よ、信じます」と信仰を告白し、主イエスの前に跪くことへと導かれています。
今日の福音書の箇所は、目の見えなかったこの人が主イエスの前に跪く場面で終わっていますが、更に41節まで読み進めると、主イエスはファリサイ派の人々にこう言っておられます。
「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
主イエスが「見える」と言う時、視力があるかどうかを問題にしているのではく、神の御心を見る目があるか、霊的に見えているかを問うておられることは明らかです。そのような視点で権力者たちの言動を見てみると、彼らは、自分を正しい者の側、救われている者の側に置いて、物乞いをする盲人の目が開かれたことを喜びとせず、その人の目が見えるようになった事実さえ認めようとしていません。
ユダヤ教の指導者たちは、その民を導き神の道を説く立場にありながら、自分を守ることに拘り続け、それ以外に「神の働きのしるし」を見ようとしませんでした。彼らは律法の細則に照らして人々を評価するだけで、盲人が見えるようになった事実を認めようとせず、目が開かれたその人を神殿から追放してしまいました。
主イエスは、そうしたユダヤ教指導者たちの在り方を「『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と厳しく指摘しておられるのです。
福音記者ヨハネは、主イエスが盲目の物乞いであった人を通して現わした神の業を伝えています。私たちも、この世の無理解や偏見、時には嫌がらせや迫害などに遭いながらも、主イエスに伴われ導かれて、本当のこと、正しいことへ向かい、そこから「主よ、あなたを救い主と信じます」と告白することへと招かれています。
教会暦は、大斎節も後半に入り、主イエスの十字架へ、復活へと向かいます。私たちは主イエスによって信仰の目を開かれ、また「神の業」が自分を通して現れる器とされるように祈り求めて参りましょう。
(1) 2023.03.19 大斎節第4主日説教 ヨハネによる福音書第9章1節〜13節(小野寺司祭による) - YouTube