読書の秋 -「本が好き」の土台作り-
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネによる福音書第1章1節)
既に秋分の日も過ぎ、日中より夜の方が長い季節になりました。「読書の秋」です。子どもが童話や絵本の名作に触れながら、やがては読書好きで知的センスの高い人間に育ってくれたら、と多くの人が思います。わたしもそう思います。でも、不思議なもので、大人が子どもを「読書好きの人に育てよう」などと意気込むと、子どもはかえってそれに反発したり本嫌いになったりすることも多いようです。子どもが本好きになる前提とは何でしょうか。
近年、子どもの成長を阻害するメディア環境が問題になっています。この問題は子どもの読書環境をも駆逐していますので、少しその点に触れておきたいと思います。
本来、人間の声は小さく柔らかです。一方、テレビやテレビゲームなどのメディアから流れ出る音声は、人間(ことに赤ちゃん)の聴覚にとって鋭く刺激的です。私たち人間の聴覚は、幼い頃から母親をはじめとする人間の声と結びつき、その音声(声やことば)を聞き取れるようにその神経回路を強化してきました。ところが、現代の溢れ出るメディアの音声は幼子が本来強化されるはずの人間の声や自然の音(風や水の流れ)をキャッチする能力を育むことを阻害しているのではないかと考えられています。人が人の声を聞き分けて選び取る能力の素晴らしさについては、一度録音テープにとった音声を聞き直すと、周囲の物音がいかに多くまた大きいかという事などを手掛かりに分かります。人は小さいときから、人の声を選択して聞き分ける能力に磨きをかけていることが想像できます。またこうした能力は聴覚ばかりでなく、視覚や触覚をはじめ味覚にまで言えることであり、現代はこうした人間の感覚が危機にさらされていることを指摘する人も増えています。
こうした環境の中で、母子を中心とした柔らかで穏やかな感覚刺激を得られないままメディアに犯されて乳幼児期を過ごした子どもたちは、その中で脳にたたき込まれた破壊的な擬音語や場にそぐわない乱暴な言葉遣いをその意味もよく分からないまま用いて他者とのつながりをつくろうとすることになります。でも、一生懸命に生きる子どもであっても、もし成長していく上での土台(母子を基本とした信頼関係)がつくられないままであったとしたら、子どもたちは多くの人々の集まる場で建設的な社会関係を作っていくことがどんなに難しいことになるのかは容易に想像できます。
さて、本好きの土台も上記のことと関連しています。家庭でも日頃から、テレビ、ビデオ、テレビゲームなどのメディアに頼らず、親の肉声により語り聞かせや絵本の読み聞かせを親子で楽しめているか、子どもが自分の経験を落ち着いて話せるように子どもの心に寄り添って話しを聴いて受け止めているか、メディアのペースに拠ってではなく親子のペースで絵本を読み進められているか等々が、子どもが本好きになることの土台と言えるでしょう。
ある著名な童話作家は、「子どもが10歳になるまでは、親が名作を沢山読み聞かせてあげてください。ただし本の感想など子どもに求めないでください。本当の感動は子どもの言葉の域よりずっと深いから言葉にならないのです」と言っていました。
絵本や童話の名作は、わたしたちを心の深い領域に案内してくれます。読書は実際に経験できないことを追体験させてくれますが、そのときに信頼できる大人が傍らにいて物語を共有してくれることで、子どもは読書での体験を自分のものにしていくのです。その事は、子どもたちが勇気や正義感を獲得したり、感情の幅を広げたりしていくことにも繋がるのです。
こうした土台ができてくれば、読み書きの練習開始が遅くても、もっと物語の世界に触れたい子どもは時間を惜しんで本を読むようになるでしょう。そのような本好きこそ根っからの本好きと言えるのではないでしょうか。
頭と体を育て鍛える秋にしたいですね。その基本はしっかりとした親子の心のつながりです。(あいりんだより2009年10月号)