信じること、信じてもらうこと
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
(ヨハネによる福音書第20章29節)
上記の言葉は主イエスが、甦りを信じられない弟子トマスに現れて、告げた言葉です。他の弟子たちは復活した主イエスに出会ったにもかかわらず、トマスはその場にいませんでした。トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言いました。その後トマスも他の弟子たちと一緒にいる時、主イエスは復活の姿を現しトマスに上記の言葉を告げたのです。
この言葉は、「信じる」ということを思い巡らせるとき、沢山のことを教えられる言葉です。わたしは、「信じる」ことは子育ての中でもとても大切なことだと思います。
かつて、わたしは次のような事例に出会いました。
ある園児が登園しても落ち着かず、自分の家のことや母親のことをしきりに気にして、そわそわとして家に帰りたがっています。次第に明らかになってきたのは、ご両親が子どもの前で激しい口論をし、怒った母親は実家に戻ってしまったということでした。それも今回が初めてではなく、時々あることで、そのたびに子どもは小さな胸を痛めていたようでした。子どもにすれば、自分の母親が目の届かないところにいると、「またわたしを置いて、どこかへ行ってしまうのではないか。今度はもう戻ってこないのではないか。」と思って胸が一杯になり、いてもたってもいられなかったのでしょう。
これは、人間関係の中で、ことに幼い子どもと大人の関係において、信頼関係がしっかり保たれることの大切さを思わされる事例です。この事例から、わたしたち大人が、いつも子どもに信頼されるに足る存在になっていることがいかに大切であるかを学ぶことができるでしょう。
「信じる」とは、現状を見ないでただ闇雲に何かを思い込むことではありません。「信じる」とは、目で見て確認しなくても本当のことや正しいことに基づいて、そこにしっかりと立てると言うことです。子どもの成長を信じる人は、子どもを悲しませたり不安がらせたりはしないはずです。
ある心理学者は、人が精神的に発達していく上で最初の課題となるのが「基本的信頼関係」を築くことと言いました。人の成長には信じ合える関係が必要なのです。落ち着いた暖かい関係の中で、大人が子どもの存在を認め、受け入れ、支えていくところに、自分と身近な他者を「信じる」力が生まれます。自分が自分であることに自信を持ち、その自分をしっかりと相手に関わらせていくベースには、自分を信じることと相手を信じることが必要不可欠なのです。
そうであれば、「子どもが信じる対象として自分はふさわしいか」と絶えず自分に問い返しそうなれるように努めることが、子育てに関わる人にとって大切なことであると言えるでしょう。
わたしたちは、子どもの信頼の対象として全てのことが完璧ではありませんし、その必要もないでしょう。でも、まず神がそのようなわたしたちを愛し、赦し、信頼してくださっていることを心に留めたいと思います。わたしたちは子どもの信頼の対象として不十分かもしれませんが、そのようなわたしたちでも、神に信頼されていることを基盤として子どもたちに関わり、信頼される大人となれるよう努めて参りましょう。子育ての具体的なテクニックなどは、こうした「信じること、信じてもらうこと」を前提としていることを心に留めたいと思います。
(「あいりんだより」2009年2月号)