クリスマスの喜びを
園長 小野寺達
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。」(ルカによる福音書第2章10~11節)
神さまは、神さまがお創りになったこの世界を愛し、いつも気にかけておられました。神さまはこの世界のいろいろな出来事をご覧になりました。ことに、この世界に尊い命を受けたにもかかわらずはじき出されたり抑圧されたりして貧しく孤独に生きる人々をご覧になって、神さまはこの世界を深く憐れみ、そのような人々の弱さや貧しさにまで降りてきてくださいました。ただ天上であがめられていることに満足なさらず、敢えて弱く、貧しく、小さな姿を取って、神さまはこの世界に来てくださったのです。ヨセフとマリアとの間に生まれた幼子は神の子であるにもかかわらず、産着も揺りかごもなく、家畜小屋の中の飼い葉桶に寝かされたのでした。
このように救い主を理解するところから、「馬小屋での救い主誕生」の物語や「貧しい羊飼いへの救い主誕生の知らせ」の物語が生まれてきたのでしょう。
今から二千年近く前、イスラエルの片隅の馬小屋で生まれたイエスは、神の御心を実現しようと生き抜いた末に十字架に架けられて死んでいきました。そのイエスの生と死を目の当たりにした人々の中に、やがて「イエスは救い主(メシア)である」という信仰が生まれます。
実は、このイエスの誕生日が12月25日であったかどうかは定かではありませんし、イエスの誕生の場所が馬小屋であったかどうかも事実とは言い難いのです。聖書が伝えているのは、イエスの歴史的事実の記録ではなく、イエスの生涯をとおして多くの人が初めて神とは何であるのかを知り神の望んでおられることが何であるのかを理解することができたことと、そこからイエスこそ神の子であるという信仰が生まれたことです。
わたしたちは、イエスをとおしてこの世に示された神の愛の働きを知ることができ、それを受け入れることによって本当の自分を取り戻すことができます。わたしたちは自分が神に愛されている事を受け入れるとき、自分と隣人を本当に愛することができるようになりますが、神を忘れると自分をこの世の優劣の基準で判断して思い上がったり逆に無価値だと思ったりしてしまうこともあります。
わたしたちは、「我」は強くても中身は臆病であるようなところはないでしょうか。イエスは馬小屋に命を宿してくださいましたが、それはわたしたちの心の奥深くにひそむ貧しく弱いところに宿ろうとするためでした。わたしたちは、自分を神の子イエスの住まいとしているのですから、神さまと人々との交わりの中で喜んで自分と隣人を大切にして生きていくことができます。その喜びを分かち合うのがクリスマスです。
クリスマスの喜びが、わたしたち一人ひとりの心の奥底からの喜びとなり、そしてまたわたしたちの幼稚園の枠を越えて拡がっていくようにと祈りたいと思います。
もし、わたしたちが神のように全能であり万能であったら、その中から何をすることを選び取るでしょうか。神は「貧しさ」と「弱さ」を選び取りました。最も小さく弱く貧しい姿になってこの世に来てくださったイエスさまは、その誕生の出来事をとおして「さあ、神の愛を受けて、大切なあなた自身として生きなさい」と促しておられます。わたしは、キリスト教保育の基盤もここにあると思います。
(あいりんだより2008年12月)