鶏(雄鶏) αλεκτωρ アレクトール
鶏 αλεκτωρアレクトールという言葉は、「聖書のキーワード」として取り上げるには相応しくないかもしれません。聖書の中でキー概念となる言葉ではないからです。でも、聖書にある言葉として興味深いものがあり、取り上げてみました。
教会の建物のてっぺんに風見鶏が立てられていて、「教会なのに十字架ではなくて、なぜ鶏なの?」と思った方はいますか。風見鶏は、「聖霊」の表現でもある「風」に反応するものの象徴として聖堂の屋根の高いところに立てられていることがあります。
さて、聖書の中で鶏(αλεκτωρアレクトール)が出てくるのは、弟子のペトロがイエスのことを否認する場面であり、4福音書ともにこの場面で鶏が鳴いています。
イエスは、最後の晩餐のあとに、ご自分の十字架の死を予告しますが、その予告を受け入れられないペトロにイエスはこう言いました。
「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは3度、私を知らないと言うだろう(マルコ14:30)。」
やがて捕縛されたイエスは大祭司の館の外で取り調べを受けますが、その場にそっと潜り込んだペトロは、その館の女から「この人はあのイエスの仲間だ」と言われて、イエスを否定し呪いの言葉さえ用いて「知らない」と言ってしまいますが、その時、鶏が鳴き、ペトロはイエスの言葉を思い出して泣き崩れたのでした。
鶏は、人を寝床から起き上がらせる存在であり、人を我に返らせる存在の象徴とされます。
αλεκτωρアレクトール(鶏)とφωνηフォーネー(声)を合わせてαλεκτροφωια(アレクトロフォニア:鶏の鳴く時刻)という言葉が、たった一度だけ(マルコ13:35に)出てきます。この鶏が鳴く時刻とはローマ式の時間区分によれば「第3の見張り時(夜中の12時から午前3時」であり、ペトロがイエスのことを「知らない」と言い、鶏が鳴いたのは午前3時頃のことだったと思われます。
ここからは聖書物語のジョークです。
天国の鍵を授かったペトロは、この世の生涯を終えた人々がそこに入るに相応しいかどうか判定するために、天国の門で番をしています。そこにかつてイエスを売り渡したイスカリオテのユダがやってきました。ペトロはユダを追い返しますが、しばらくすると再びやって来てユダは追い返そうとするペトロの耳元で何かをそっと囁きました。するとペトロは急に表情を変えてユダが天国のを門を通ることを許したのでした。
この様子を見ていた他の弟子たちはユダに「お前、ペトロに何を言ったんだ?」と尋ねると、ユダはニヤリと笑って言いました。
「俺は一言コケコッコーって言ってみたのさ。」