2023年01月15日

イエスは「神の小羊」  ヨハネによる福音書第1章29~41節

イエスは「神の小羊」     ヨハネによる福音書第1章2941節  A年(顕現後第2主日) 2023.1.15

 始めに、このふた月ほどの教会暦について振り返ってみましょう。

 教会暦の一年は、クリスマス前の4つの主日から始まりました。主イエスの御降誕を待ち望みつつ始まった暦は、神の御子イエス・キリストがこの世界においでくださったことを喜び祝うクリスマスの時期を経て、主イエスが公に宣教の働きを始められた顕現節に入っています。先主日は、主イエスが宣教のお働きを始めるに当たり、私たち(罪ある人間)の一人となって共に生きてくださるしるしとして洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼をお受けになったことを記念しました。

 私はこうした教会暦と教会暦に相応しい聖書の言葉に生かされて信仰生活を送っています。

 今日の聖書日課福音書には、先週の聖書日課福音書に引き続き、洗礼者ヨハネが出てきます。洗礼者ヨハネは、救い主の先駆けとして主イエスを指し示す働きをした人として位置づけられるために、降臨節の時に、登場していたことを思い起こされる方も多いことでしょう。

 降臨節では、洗礼者ヨハネが「荒れ野で叫ぶ者の声」また「主の道を整える者」として登場していました。ヨハネは、自分の後から来る救い主イエスを指し示していましたが、今日の聖書日課福音書では、洗礼者ヨハネが宣教の働きを開始された主イエスにお会いした時に、ヨハネが反応したした様子が描かれています。洗礼者ヨハネは救い主イエスの働きを見て、主イエスのことを大きな声で人々に伝えて証言しているのです。

 今日の聖書日課福音書から、ヨハネが主イエスのことを人々にどのように伝えているか、その内容に目を向けてみましょう。

 洗礼者ヨハネは、主イエスのことを「わたしはこの方を知らなかった」と言っています。しかも、31節と33節にあるようにヨハネは2度「わたしはこの方を知らなかった」と言っていますが、ヨハネはそれに「しかし」と続けてかつては主イエスをしらなかった自分が、主イエスの何を見て、何を経験して、このお方をどのように考えているのかを語ります。

 洗礼者ヨハネは、第1章29節で「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言い、また第1章36節でも「見よ、神の小羊だ」と言っています。

 洗礼者ヨハネのこの証言を理解するために、「小羊」という言葉について触れておきましょう。

 「羊」はイスラエルの人々の生活に深く関わって、「羊」という言葉は、旧約、新約聖書をとおして沢山出てきます。主イエスもご自身を良い羊飼いに例えて、「私は良い羊飼いである」と言い、主イエスに従う人々を「羊の群れ」に例えています。羊という言葉は一般的には「プロバトン(pροßatον:sheep)」が用いられますが、洗礼者ヨハネがここで用いている「神の小羊」では「アムノス(aµνοs)」という特別な言葉が用いられています。この「アムノス」は、生け贄として捧げられる汚れのない羊を意味する言葉で、英語ではlabm(生まれて一年経たない仔羊)に近いのかもしれません。そして、このアムノス(aµνοs)は、新約聖書の中では、洗礼者ヨハネが主イエスを指し示しているこの箇所で2度出てくる他には、次の2箇所でのみ用いられている特別な言葉なのなのです。

 その一箇所は使徒言行録第8章32節です。そこにはこう記されています。

「彼は、羊(プロバトン:sheep)のように屠り場に引かれていった。毛を刈る者の前に黙している小羊(アムノス:aµνοs)のように、口を開かない。」

 この箇所は、旧約聖書イザヤ書第53章の「主の苦難の僕の歌」と言われている箇所からの引用です。使徒言行録の中では、異邦人エチオピアの宦官がこの箇所を理解できないままに読んでいたのをフィリポがこの箇所を説き起こしてこの「小羊」はイエスであると知らせました。そして、この異邦人が洗礼を受けることへと導かれています。押し黙って人々の苦難を負う主の僕の姿は「神の小羊」のようで主イエスこそ私たちの苦難を負い贖ってくださる「小羊」だと表現する場面でこの「アムノス:aµνοs」が用いられています。

 「小羊(アムノス)」が用いられているもう一つの箇所はペトロの手紙一第1章19節です。そこには以下のように記されています。

 「・・・あなたがたが・・・贖われたのは、・・・きずや汚れのない小羊(アムノス)のようなキリストの尊い血によるのです。」

 この小羊(アムノス)という言葉は、出エジプト記の出来事を思い起こさせます。イスラエルの民がエジプトで奴隷であった時に主なる神によって救い出され、イスラエルの民はエジプトを出発することになります。その場面で、神はモーセを通してイスラエルの民にある命令(指示)を出しました。その命令とは、イスラエルの民がエジプトを脱出しようとする前夜、闇の中で、主なる神はその地に住む人の中から人間であれ動物であれ長子(雄の初子)の命を取り上げることにするから、イスラエルの家の者はその神の行いを避けることが出来るように、それぞれに目印として自分の家の柱と鴨居に小羊の血を塗っておくようにということでした。そして、この徴のないエジプト人の家の長子が、神に討たれて混乱する中、イスラエルの民はエジプトを脱出することが出来たのです。やがてイスラエルの民はこの小羊の血を目印として、神はそれを信じて行う者には罰を与えずに過ぎ越してくださったことを記念するようになります。彼らは、自分たちの先祖が救い出された日を覚え、春分の日に近い満月の日に過越祭を祝うようになります。そして、主イエスの十字架の死が、人々の罪をご自身が引き受けて神の罰を逃れさせて下さった「過ぎ越の小羊(アムノス)」であったことに気付く時が来るのです。

 洗礼者ヨハネは主イエスこそ真の「過ぎ越の小羊」であると証言しています。

 洗礼者ヨハネはこのように特別な意味をもつ「小羊(アムノス)」という言葉を用いて、自分が出会った主イエスを「見よ、神の小羊だ」と人々に告げているのです。

 主イエスは、ヨハネが授けていた罪の赦しと悔い改めの洗礼をお受けになりました。主イエスはきずや汚れのないお方であったにもかかわらず、罪人の一人に数えられる側に立って下さいました。そして、ご自身が本来負う必要のない苦難を自分の身に負い、やがて屠り場に連れて行かれる小羊のように十字架にお架かりになるのです。洗礼者ヨハネは自分がこの主イエスを指し示すために生かされる者であることに徹して生きた人でした。洗礼者ヨハネは、主イエスがご自分の苦しみと犠牲によってすべての人を罪から救い出してくださる神の子であることを大声で伝えています。

 今日は、この説教の冒頭に教会暦のことを申し上げました。私たちも教会暦の中で、洗礼者ヨハネに促されて主イエスにお会いする備えをする降臨節を過ごし、クリスマスにはこの世に来られた主イエス・キリストを受け入れて祝い、そして先主日には主イエスが公生涯の始めに洗礼をお受けになって私たち罪ある者の側に立って共に生きて下さることを覚えて感謝しました。そしてこの主日に、洗礼者ヨハネから主イエスが私たちの罪を贖い清めて下さる「神の小羊」であることを証しされています。

 この世に顕現した主イエスは、他ならぬあなたの苦難を担ってくださる「神の小羊」であり、ご自分の血によって神の怒りと罰を赦し浄める「神の小羊」であると今日の福音書を通して教えているのです。

 教会暦の中で公の宣教の働きを続けて行かれる主イエスに私たちも従いながら、私たちも「神の小羊」主イエスを自分の主、また救い主として証ししていくことが出来ますように。


*YouTube配信(試行)しています

https://www.youtube.com/watch?v=EdsJDFGrogM

posted by 聖ルカ住人 at 16:14| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください