「終わりの時」のために ルカによる福音書21:5-19 聖霊降臨後第25主日(特定28) 2022.11.13
教会暦における一年の終わりが近付いています。この主日の聖餐式聖書日課は、旧約聖書、使徒書、福音書のいずれも「終わりの時」言い方を変えれば「神の子の来臨の時」について触れています。
「終わりの時」とは、地球が破滅するというような意味ではなく、この世の全てに神の御心が成し遂げられる事を意味しており、それは「神の意志が行われ、正義と愛が実現し、神が神として真にあがめられること」であるとも言えるでしょう。
今日の聖書日課では、旧約聖書のマラキ書で、終わりの時に主なる神が正しい者と神に逆らう者を選り分けるために預言者エリヤを遣わすと言い、その時に備えて私たちの心を神に向けるように促しています。使徒書のテサロニケの信徒の手紙Ⅱでは、パウロが当時の人々に向かって「終わりの時」が直ぐにでも来ると考えて日々の生活を放り出して救い主の再来を待つようになる人がいる中で、「落ち着いて仕事をし、たゆまず善いことをしなさい」と教え、日々の生活を着実に営むように勧めています。また、福音書では、主イエスが「この世の栄華に心を奪われるのではなく、色々な社会現象や自然現象その他の動きに惑わされることなく、忍耐して神の御心にかなう歩みをして、命を勝ち取るように」と教えておられます。
ルカによる福音書は、紀元80年を過ぎた頃に編集されたと考えられています。主イエスが十字架につけられて殺され、復活して天に昇ったのは紀元30年頃であったと考えられています。当時、人々はこう考えました。
「主イエスは地上での生涯を通して神の御心がどれほど尊く人を生かして下さるものであるかを示して下さった。天にお帰りになった主イエスはまた直ぐに来て下さる。主イエスが再びこの世界に来て下さる時、この世界は神の御心によって支配され、神のお働きも完成されるのだ。」
しかし、ルカによる福音書がまとめられた時代は、主イエスが天に昇られて既に50年の時が過ぎています。主イエスの再臨を待ち望む人々の中には、「主イエスが天にお帰りになってもう50年も経った。主イエスの再臨がこれ以上遅くなることはない。この世の終わりはもう直ぐにでも来る。」と考える人がいました。しかしその一方で「もう50年経ってしまった。救い主の再臨など直ぐにはないだろう。」と考える人も増えてきていたのです。そのような中で、心ある人々は、このような時代に「世の終わり」「終わりの時」をどう待ち望んで生きることを神は求めておられるのだろうか、と考え始めるのです。
私たちも、今、この時代の中で、「終わりの時」をどのように捕らえ、どのように生きるべきか、神から問われているのです。
もし、私たちがいつ訪ねてくるか分からない大切な客人を家に迎えるとしたら、その準備として私たちは何をするでしょうか。その客人がいつ来るのか予め分かっていれば、例えば3日後の午前中にお迎えするとなれば、その日その時に備えていつも以上にきれいに掃除をしたり特別な料理を作って入念な準備をして客人を歓迎する準備をすることでしょう。でも、その大切な客人は今すぐ来るかも知れないし、自分の生きている間には来ないかも知れないとしたらどうでしょう。もし、自分がその方を迎えるのではなく、自分が一生の終わりにそのお方に迎えられるのだとしたら、私たちは何をすべきなのでしょう。私たちがすべき事は、いつかその客人にお会いする希望を持って、自分の今の人生を大切に生きることになるのではないでしょうか。
今日の使徒書で、パウロは「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。(テサロニケⅡ3:12-13)」と勧めています。
先ほども少し触れたように、テサロニケの人々の中には「世の終わりは近い」と浮き足だって自分の仕事を放棄し、再臨のキリストを迎えることに取りつかれたように祈ることしかしない人もいたのです。パウロはそのような人々を念頭に置きつつ、「落ち着いて自分の日々の生活を通して善い業に励みなさい。」と教えています。初代教会の時代は、クリスチャンに対する迫害がユダヤ教の側からもローマ皇帝の側からも強まってくる時代でした。クリスチャンが日々の生活の中で神の御心を思い善い業に励む中でも思わぬ迫害を受ける事も増えてきた時でした。そのような時代の中でも、信仰をもって生きようとする人に対して、福音記者ルカは「忍耐をもって神の御心を歩み、命を獲得しなさい。」と主イエスの御言葉を伝えているのです。
ルカによる福音書第21章18節にある「忍耐する」という言葉は、元のギリシャ語ではυπομονη(ヒュポモネー)という言葉で、υπο(もとに)とμονη(留まる)の合成語あり、辛抱強く神の許に留まることや自分の重荷を担いとおして留まることを意味しています。この言葉の意味に表されるように、私たちが生きる世界の状況が良くても悪くても、神が最終的に御心を完成させて下さる希望をもって、それぞれが神から与えられた自分の命を精一杯に生きることを神は私たちに求めておられるのです。
主イエスの時代に当然のことと考えられていた「終わりの時」についての考えは時代と共にその受け止め方が変わり、当時の考え方については今ではなかなか理解出来なくなっている面があります。また、「終わりの時」がいつどのように来るのかは私たち人間が前もって知ることは出来ないし、まして決めることなど出来ないのです。もし私たちが「終わりの時はこれこれの日に来る」などと言うとすれば、それは私たち人間が神の働きを支配したり規定する傲慢に陥ることになります。私たちは、主なる神ご自身がこの世界に御心を完成させて下さる時を思って「御国が来ますように」と祈るのです。そして私たちは、神から与えられた自分の人生の重荷を投げ出すことなく、そこから逃げ出すことなく留まって生きていくことを神から求められているのです。そのように生きることは、自分を押し殺してただ神の考えに自分を当てはめて生きることを意味するのではなく、先ほども触れたとおり、それぞれの人が神から与えられた自分の命を十分に生きることを意味しているのではないでしょうか。
つまり、私たちは仮に自分が生きている今が最良の今ではなくても、今の状況の中での最善の時にすることは出来るのであり、その一瞬一瞬が終わりの時を生きる者の生き方であると言えるのです。
私たちは未来の「終わりの時」に向かって生きていますが、その基盤には主イエスが十字架の上で完成して下さった救いのお働きがあります。私たちは、主イエスが示してくださった「終わりの時」の姿を自分を通して実現するために、主イエスさまの愛の力によって生かされているのであり、その一瞬一瞬が「終わりの時」を生きることになるとも言えるのです。
私たちは、主イエスが示してくださった神の恵みを受け入れた、その感謝の中に日々を生かされています。その信仰を持つ者の集まりである教会は、この世界に神の求めておられる姿を現すことが出来るように願い、「終わりの時」を先取りして今を生きています。そして、「終わりの時」を先取りしたしるしとして、私たちはこの聖餐式を行っています。
「終わりの時」について思い巡らせることは、私たちが主なる神にお会いする用意を調え、毎日の生活を御心にふさわしく歩み直すことにつながります。主なる神がお与え下さる「終わりの時」の希望に導かれて、私たちは日々自分を通して神の御心が顕されるように歩んで参りましょう。
教会暦における一年の終わりが近付いています。この主日の聖餐式聖書日課は、旧約聖書、使徒書、福音書のいずれも「終わりの時」言い方を変えれば「神の子の来臨の時」について触れています。
「終わりの時」とは、地球が破滅するというような意味ではなく、この世の全てに神の御心が成し遂げられる事を意味しており、それは「神の意志が行われ、正義と愛が実現し、神が神として真にあがめられること」であるとも言えるでしょう。
今日の聖書日課では、旧約聖書のマラキ書で、終わりの時に主なる神が正しい者と神に逆らう者を選り分けるために預言者エリヤを遣わすと言い、その時に備えて私たちの心を神に向けるように促しています。使徒書のテサロニケの信徒の手紙Ⅱでは、パウロが当時の人々に向かって「終わりの時」が直ぐにでも来ると考えて日々の生活を放り出して救い主の再来を待つようになる人がいる中で、「落ち着いて仕事をし、たゆまず善いことをしなさい」と教え、日々の生活を着実に営むように勧めています。また、福音書では、主イエスが「この世の栄華に心を奪われるのではなく、色々な社会現象や自然現象その他の動きに惑わされることなく、忍耐して神の御心にかなう歩みをして、命を勝ち取るように」と教えておられます。
ルカによる福音書は、紀元80年を過ぎた頃に編集されたと考えられています。主イエスが十字架につけられて殺され、復活して天に昇ったのは紀元30年頃であったと考えられています。当時、人々はこう考えました。
「主イエスは地上での生涯を通して神の御心がどれほど尊く人を生かして下さるものであるかを示して下さった。天にお帰りになった主イエスはまた直ぐに来て下さる。主イエスが再びこの世界に来て下さる時、この世界は神の御心によって支配され、神のお働きも完成されるのだ。」
しかし、ルカによる福音書がまとめられた時代は、主イエスが天に昇られて既に50年の時が過ぎています。主イエスの再臨を待ち望む人々の中には、「主イエスが天にお帰りになってもう50年も経った。主イエスの再臨がこれ以上遅くなることはない。この世の終わりはもう直ぐにでも来る。」と考える人がいました。しかしその一方で「もう50年経ってしまった。救い主の再臨など直ぐにはないだろう。」と考える人も増えてきていたのです。そのような中で、心ある人々は、このような時代に「世の終わり」「終わりの時」をどう待ち望んで生きることを神は求めておられるのだろうか、と考え始めるのです。
私たちも、今、この時代の中で、「終わりの時」をどのように捕らえ、どのように生きるべきか、神から問われているのです。
もし、私たちがいつ訪ねてくるか分からない大切な客人を家に迎えるとしたら、その準備として私たちは何をするでしょうか。その客人がいつ来るのか予め分かっていれば、例えば3日後の午前中にお迎えするとなれば、その日その時に備えていつも以上にきれいに掃除をしたり特別な料理を作って入念な準備をして客人を歓迎する準備をすることでしょう。でも、その大切な客人は今すぐ来るかも知れないし、自分の生きている間には来ないかも知れないとしたらどうでしょう。もし、自分がその方を迎えるのではなく、自分が一生の終わりにそのお方に迎えられるのだとしたら、私たちは何をすべきなのでしょう。私たちがすべき事は、いつかその客人にお会いする希望を持って、自分の今の人生を大切に生きることになるのではないでしょうか。
今日の使徒書で、パウロは「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。(テサロニケⅡ3:12-13)」と勧めています。
先ほども少し触れたように、テサロニケの人々の中には「世の終わりは近い」と浮き足だって自分の仕事を放棄し、再臨のキリストを迎えることに取りつかれたように祈ることしかしない人もいたのです。パウロはそのような人々を念頭に置きつつ、「落ち着いて自分の日々の生活を通して善い業に励みなさい。」と教えています。初代教会の時代は、クリスチャンに対する迫害がユダヤ教の側からもローマ皇帝の側からも強まってくる時代でした。クリスチャンが日々の生活の中で神の御心を思い善い業に励む中でも思わぬ迫害を受ける事も増えてきた時でした。そのような時代の中でも、信仰をもって生きようとする人に対して、福音記者ルカは「忍耐をもって神の御心を歩み、命を獲得しなさい。」と主イエスの御言葉を伝えているのです。
ルカによる福音書第21章18節にある「忍耐する」という言葉は、元のギリシャ語ではυπομονη(ヒュポモネー)という言葉で、υπο(もとに)とμονη(留まる)の合成語あり、辛抱強く神の許に留まることや自分の重荷を担いとおして留まることを意味しています。この言葉の意味に表されるように、私たちが生きる世界の状況が良くても悪くても、神が最終的に御心を完成させて下さる希望をもって、それぞれが神から与えられた自分の命を精一杯に生きることを神は私たちに求めておられるのです。
主イエスの時代に当然のことと考えられていた「終わりの時」についての考えは時代と共にその受け止め方が変わり、当時の考え方については今ではなかなか理解出来なくなっている面があります。また、「終わりの時」がいつどのように来るのかは私たち人間が前もって知ることは出来ないし、まして決めることなど出来ないのです。もし私たちが「終わりの時はこれこれの日に来る」などと言うとすれば、それは私たち人間が神の働きを支配したり規定する傲慢に陥ることになります。私たちは、主なる神ご自身がこの世界に御心を完成させて下さる時を思って「御国が来ますように」と祈るのです。そして私たちは、神から与えられた自分の人生の重荷を投げ出すことなく、そこから逃げ出すことなく留まって生きていくことを神から求められているのです。そのように生きることは、自分を押し殺してただ神の考えに自分を当てはめて生きることを意味するのではなく、先ほども触れたとおり、それぞれの人が神から与えられた自分の命を十分に生きることを意味しているのではないでしょうか。
つまり、私たちは仮に自分が生きている今が最良の今ではなくても、今の状況の中での最善の時にすることは出来るのであり、その一瞬一瞬が終わりの時を生きる者の生き方であると言えるのです。
私たちは未来の「終わりの時」に向かって生きていますが、その基盤には主イエスが十字架の上で完成して下さった救いのお働きがあります。私たちは、主イエスが示してくださった「終わりの時」の姿を自分を通して実現するために、主イエスさまの愛の力によって生かされているのであり、その一瞬一瞬が「終わりの時」を生きることになるとも言えるのです。
私たちは、主イエスが示してくださった神の恵みを受け入れた、その感謝の中に日々を生かされています。その信仰を持つ者の集まりである教会は、この世界に神の求めておられる姿を現すことが出来るように願い、「終わりの時」を先取りして今を生きています。そして、「終わりの時」を先取りしたしるしとして、私たちはこの聖餐式を行っています。
「終わりの時」について思い巡らせることは、私たちが主なる神にお会いする用意を調え、毎日の生活を御心にふさわしく歩み直すことにつながります。主なる神がお与え下さる「終わりの時」の希望に導かれて、私たちは日々自分を通して神の御心が顕されるように歩んで参りましょう。