死者の復活についての論争 ルカによる福音書20:27-38
今日の福音書は、主イエスが「死者の復活」についてサドカイ派の人々と論じている箇所が取り上げられています。
サドカイ派の人々が主イエスのところにきて質問をした場面から今日の福音書は始まっています。はじめにサドカイ派について触れておきましょう。
サドカイ派はおもに祭司をはじめエルサレム神殿に係わる上流階級の人々によって構成されるユダヤ教のグループであり、その体制を維持する立場にありました。そのため、彼らはその社会体制を維持してその利益を自分のものにしようとするため、その理論武装も保守的であったと考えられます。例えば、サドカイ派は、現実の社会を超越するような天使の存在を認めず、人の復活も否定していました。この点については、ファリサイ派が実際の生活に律法をどう適用させることが相応しい事かを事細かに論じるファリサイ派と対立する一面がありました。
今日の福音書の個所では、サドカイ派の人々が、復活を信じるファリサイ派を否定する思いを込めて主イエスに語りかけてきました。サドカイ派は旧約聖書の「モーセ五書」の律法を重んじ、その他の書は神との関係を保つ正典には含めないという立場でした。サドカイ派は律法の書の中には復活を示す教えはないと考えていたのでしょう。
今日の聖書日課福音書の箇所で、サドカイ派は、旧約聖書の律法を前提にして、結婚した女性が次々に夫に先立たれてその兄弟と次々に結婚することを7度繰り返したら、復活の時にいったいその女性は誰と結婚することになるのかと、主イエスに尋ねたのでした。
この質問の裏には、「もし復活があれば、人が死んで復活したときにこんなバカげたことが起きることになる。だから復活などあり得ない」という批判が含まれていました。
当時、ファリサイ派の考える復活とは、人は死んでも再びこの世で夫婦で生活できる状態になることであり、復活した女性はまた子どもを産むことが出来るとさえ考えたようでした。サドカイ派はこのようなファリサイ派の復活信仰を批判し、サドカイ派はフィリサイ派としばしば論争していたようですが、ここでサドカイ派はファリサイ派に議論を持ちかけるような論調で主イエスにファリサイ派を批判する内容で、「三日目に甦る」と予告するイエスに議論を仕掛けてきたのでした。
その当時、イスラエルの人々の結婚はその夫婦から子を生むこと、つまり子孫を残すという意味合いが強く、結婚した夫婦に子どもが生まれないと、その女性は「産まず女」「石の女」と呼ばれて蔑まれました。聖書の中にも子どもを与えられないことに悩む夫婦や女性の物語は(例えば、旧約聖書ではサムエルの妻ハンナ、福音書ではザカリアの妻エリザベトの例のように)数多く見られます。そのような思想は、子孫を残せずに死んでいく人間にとっては救われるかどうかの大問題であり大きな悩みであったと考えられます。
でも、主イエスご自身の復活も、主イエスが教える復活も、ここでサドカイ派が言うような意味での復活ではありませんでした。主イエスは、サドカイ派やファリサイ派が議論し合う時の復活の前提を否定し、サドカイ派が持ちかけてきた議論そのものが無意味であることを指摘しておられます。
主イエスは、34節以下でサドカイ派の質問に答えながら、当時のイスラエルの民の復活観と結婚観を否定しておられます。主イエスは、私たち人間が死んで新しい命に甦ったのなら、それは生物的な意味での生死はもう問題ではなくなるのだから、復活したらその人が誰と結婚すべきかなどと考えることは必要ないし、そのように考えては復活のことは理解できないのです。
復活して神の子とされた者は、主なる神を父のようにして「天使に等しい者」となって生きるのだから、血筋の上での親子、家族、親族であるかどうかを問題とはしないと主イエスは言っておられるのです。復活して生きると言うことは、生物体として男か女か、老衰で死んだのか子供のときに死んだのかが問題となるのではなく、神とその人との関係がどのようであるのかが大切になるのです。
主イエスは、復活とはこの世で死んだ時の姿でこの世界に生き返るようなことではないことを教え、更に、主イエスご自身が復活なさる意味を説き、主イエスを救い主と信じる者が「終わりに日」に甦るとはどのようなことなのかを教えて、サドカイ派の人々の誤った復活理解を正されたのでした。
私たち日本人の間でしばしば耳にする「あんな奴とは同じ墓に入りたくない」という言葉があります。その考えはに人が死んだ後も現世の姿をそのまま墓の中にまで持ち込み、私たちの罪も汚れも死の先にまで先送りされるかのような、日本人の死生観が映し出されています。でも、私たちはすべてが主イエスを救い主であると信じる信仰によって自分の罪が赦されていることを知っており、その信仰によって神の御許に召されることを約束されています。そうであれば、私たちは復活の世界にまでこの世での感情的な対立を引きずることはないのです。
主イエスは、出エジプト記の言葉を取り上げてサドカイ派の人々に教えます。出エジプト記はサドカイ派の人々が重要視するモーセ5書、律法書の中の一つです。主イエスは『柴』の書と呼ばれていた出エジプト記第3章2節から15節(2節が「柴の間で燃え上がる炎の中に、主の使いが現れた。柴は燃えているのに燃え尽きることはなかった」から始まるので、『柴』の書と呼ばれる)個所から、6節で主なる神がモーセに「私はあなたの先祖の神、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と呼んでご自身を示されたことを取り上げて、モーセより遙か以前に生きたイスラエルの先祖たちが既に過去の人物になったのではなく今もこれからも『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』であると告げたとおり、神の御許でアルラハムもイサクもヤコブも生きている、死者が復活するとはこういうことなのだ」と言っておられます。
同じ事を繰り返しますが、出エジプト記第3章2節で、主なる神はモーセに「私は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言っておられ、これは文法的に「かつてアブラハム、イサク、ヤコブが生きていた時に私は彼らそれぞれの神であった」ということではなく、「私は今、アブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神である」と言っておられるのであり、復活とはサドカイ派がイエスに質問しているような兄弟の序列関係やその年齢の肉体を持って再生することではないと、主イエスは言っておられるのです。
つまり、主なる神はこの柴の箇所で、神は時を超え所を超えて信仰を持つ人の全人格を支えて生かし続けていることを教えておられるのです。主イエスは、モーセがモーセより遙か以前にこの世に生きて神の許に召されたアブラハム、イサク、ヤコブなども神の御許で生きていると信じていたことを指摘し、世々限りなくお働きになる神を信じて生きた先祖たちも今は神の御許で神と共に生きているではないかとお教えになりました。そのような信仰はモーセやその時代の人々だけの信仰なのではありません。イスラエルの父祖と呼ばれた人々も、モーセも、預言者たちも、主イエスの時代の人々も、そして主イエスの弟子たちも、永遠の初めから終わりまでお働きになる神に生かされており、また、その様に生きることがいかに大切なことかを信じました。
主なる神が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であるように、主イエスは、弟子たちにとってだけの救い主なのではなく、私たちにとっても救い主です。私たちは、主イエスに導かれ、主イエスをとおして復活して死の先にまで生かされる希望を与えられ、天使と等しい者とされるのです。私たちは復活する時に、全ての人が神の御前に天使のようになって神を賛美する存在になるのだと主イエスは教えておられるのです。
今日の福音書から、その時代を考えてみると、ユダヤ教の指導者たちがキリスト者の復活信仰について無理解であったり批判的であった事も想像されます。権力者によってキリスト教信仰が否定されたりキリスト者が迫害される困難の中で、甦りの主イエスを救い主とする信仰は更に深まり練り上げられていきました。周りの無理解の中でも、復活の主イエスが生きておられます。主イエスが教えてくださったように、私たちは死によって神との関係が途切れることはなくなりました。私たちは主イエスによって神の永遠の働きの中に甦って生きる約束を与えられています。
主イエスに導かれ、復活の喜びと希望に日々生かされて参りましょう。
サドカイ派の人々が主イエスのところにきて質問をした場面から今日の福音書は始まっています。はじめにサドカイ派について触れておきましょう。
サドカイ派はおもに祭司をはじめエルサレム神殿に係わる上流階級の人々によって構成されるユダヤ教のグループであり、その体制を維持する立場にありました。そのため、彼らはその社会体制を維持してその利益を自分のものにしようとするため、その理論武装も保守的であったと考えられます。例えば、サドカイ派は、現実の社会を超越するような天使の存在を認めず、人の復活も否定していました。この点については、ファリサイ派が実際の生活に律法をどう適用させることが相応しい事かを事細かに論じるファリサイ派と対立する一面がありました。
今日の福音書の個所では、サドカイ派の人々が、復活を信じるファリサイ派を否定する思いを込めて主イエスに語りかけてきました。サドカイ派は旧約聖書の「モーセ五書」の律法を重んじ、その他の書は神との関係を保つ正典には含めないという立場でした。サドカイ派は律法の書の中には復活を示す教えはないと考えていたのでしょう。
今日の聖書日課福音書の箇所で、サドカイ派は、旧約聖書の律法を前提にして、結婚した女性が次々に夫に先立たれてその兄弟と次々に結婚することを7度繰り返したら、復活の時にいったいその女性は誰と結婚することになるのかと、主イエスに尋ねたのでした。
この質問の裏には、「もし復活があれば、人が死んで復活したときにこんなバカげたことが起きることになる。だから復活などあり得ない」という批判が含まれていました。
当時、ファリサイ派の考える復活とは、人は死んでも再びこの世で夫婦で生活できる状態になることであり、復活した女性はまた子どもを産むことが出来るとさえ考えたようでした。サドカイ派はこのようなファリサイ派の復活信仰を批判し、サドカイ派はフィリサイ派としばしば論争していたようですが、ここでサドカイ派はファリサイ派に議論を持ちかけるような論調で主イエスにファリサイ派を批判する内容で、「三日目に甦る」と予告するイエスに議論を仕掛けてきたのでした。
その当時、イスラエルの人々の結婚はその夫婦から子を生むこと、つまり子孫を残すという意味合いが強く、結婚した夫婦に子どもが生まれないと、その女性は「産まず女」「石の女」と呼ばれて蔑まれました。聖書の中にも子どもを与えられないことに悩む夫婦や女性の物語は(例えば、旧約聖書ではサムエルの妻ハンナ、福音書ではザカリアの妻エリザベトの例のように)数多く見られます。そのような思想は、子孫を残せずに死んでいく人間にとっては救われるかどうかの大問題であり大きな悩みであったと考えられます。
でも、主イエスご自身の復活も、主イエスが教える復活も、ここでサドカイ派が言うような意味での復活ではありませんでした。主イエスは、サドカイ派やファリサイ派が議論し合う時の復活の前提を否定し、サドカイ派が持ちかけてきた議論そのものが無意味であることを指摘しておられます。
主イエスは、34節以下でサドカイ派の質問に答えながら、当時のイスラエルの民の復活観と結婚観を否定しておられます。主イエスは、私たち人間が死んで新しい命に甦ったのなら、それは生物的な意味での生死はもう問題ではなくなるのだから、復活したらその人が誰と結婚すべきかなどと考えることは必要ないし、そのように考えては復活のことは理解できないのです。
復活して神の子とされた者は、主なる神を父のようにして「天使に等しい者」となって生きるのだから、血筋の上での親子、家族、親族であるかどうかを問題とはしないと主イエスは言っておられるのです。復活して生きると言うことは、生物体として男か女か、老衰で死んだのか子供のときに死んだのかが問題となるのではなく、神とその人との関係がどのようであるのかが大切になるのです。
主イエスは、復活とはこの世で死んだ時の姿でこの世界に生き返るようなことではないことを教え、更に、主イエスご自身が復活なさる意味を説き、主イエスを救い主と信じる者が「終わりに日」に甦るとはどのようなことなのかを教えて、サドカイ派の人々の誤った復活理解を正されたのでした。
私たち日本人の間でしばしば耳にする「あんな奴とは同じ墓に入りたくない」という言葉があります。その考えはに人が死んだ後も現世の姿をそのまま墓の中にまで持ち込み、私たちの罪も汚れも死の先にまで先送りされるかのような、日本人の死生観が映し出されています。でも、私たちはすべてが主イエスを救い主であると信じる信仰によって自分の罪が赦されていることを知っており、その信仰によって神の御許に召されることを約束されています。そうであれば、私たちは復活の世界にまでこの世での感情的な対立を引きずることはないのです。
主イエスは、出エジプト記の言葉を取り上げてサドカイ派の人々に教えます。出エジプト記はサドカイ派の人々が重要視するモーセ5書、律法書の中の一つです。主イエスは『柴』の書と呼ばれていた出エジプト記第3章2節から15節(2節が「柴の間で燃え上がる炎の中に、主の使いが現れた。柴は燃えているのに燃え尽きることはなかった」から始まるので、『柴』の書と呼ばれる)個所から、6節で主なる神がモーセに「私はあなたの先祖の神、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と呼んでご自身を示されたことを取り上げて、モーセより遙か以前に生きたイスラエルの先祖たちが既に過去の人物になったのではなく今もこれからも『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』であると告げたとおり、神の御許でアルラハムもイサクもヤコブも生きている、死者が復活するとはこういうことなのだ」と言っておられます。
同じ事を繰り返しますが、出エジプト記第3章2節で、主なる神はモーセに「私は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言っておられ、これは文法的に「かつてアブラハム、イサク、ヤコブが生きていた時に私は彼らそれぞれの神であった」ということではなく、「私は今、アブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神である」と言っておられるのであり、復活とはサドカイ派がイエスに質問しているような兄弟の序列関係やその年齢の肉体を持って再生することではないと、主イエスは言っておられるのです。
つまり、主なる神はこの柴の箇所で、神は時を超え所を超えて信仰を持つ人の全人格を支えて生かし続けていることを教えておられるのです。主イエスは、モーセがモーセより遙か以前にこの世に生きて神の許に召されたアブラハム、イサク、ヤコブなども神の御許で生きていると信じていたことを指摘し、世々限りなくお働きになる神を信じて生きた先祖たちも今は神の御許で神と共に生きているではないかとお教えになりました。そのような信仰はモーセやその時代の人々だけの信仰なのではありません。イスラエルの父祖と呼ばれた人々も、モーセも、預言者たちも、主イエスの時代の人々も、そして主イエスの弟子たちも、永遠の初めから終わりまでお働きになる神に生かされており、また、その様に生きることがいかに大切なことかを信じました。
主なる神が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であるように、主イエスは、弟子たちにとってだけの救い主なのではなく、私たちにとっても救い主です。私たちは、主イエスに導かれ、主イエスをとおして復活して死の先にまで生かされる希望を与えられ、天使と等しい者とされるのです。私たちは復活する時に、全ての人が神の御前に天使のようになって神を賛美する存在になるのだと主イエスは教えておられるのです。
今日の福音書から、その時代を考えてみると、ユダヤ教の指導者たちがキリスト者の復活信仰について無理解であったり批判的であった事も想像されます。権力者によってキリスト教信仰が否定されたりキリスト者が迫害される困難の中で、甦りの主イエスを救い主とする信仰は更に深まり練り上げられていきました。周りの無理解の中でも、復活の主イエスが生きておられます。主イエスが教えてくださったように、私たちは死によって神との関係が途切れることはなくなりました。私たちは主イエスによって神の永遠の働きの中に甦って生きる約束を与えられています。
主イエスに導かれ、復活の喜びと希望に日々生かされて参りましょう。