仕える喜びと謙遜 ルカによる福音書17:5-10 聖霊降臨後第18主日(特定22) 2022.10.02
今日の聖書日課福音書の中で、主イエスは仕える者の喜びと謙遜について教えておられます。
僕(しもべ)が主人の家の外で羊の世話をして、更に畑を耕して、家に戻ってきます。主人は彼をもてなすこともなく彼に次の仕事を言いつけます。「外の仕事は済んだら、次は食事の用意だ。私が食事をしている間は給仕をしてくれ。あなたの食事はその後だよ。」
このように言う主人のことを私たちはどう思うでしょう。例えば、現代のお店のオーナーとアルバイトのような関係を頭に置いてこの話を考えようとすれば、何のねぎらいの言葉もなく次々と僕に仕事を言いつけて働かせるこの主人は、非情な人のように思えるかも知れません。
でも、主イエスがここで伝えようとしているのは、主人のそのような非情な一面についてではなく、この僕は自分が主人に用いられいることを喜んでおり、この僕はこの主人に生かされているいうことです。そして、僕は自分の主人のために、主人の思いを満たすために働くのは当然であり、僕はこの主人の下で働くことを喜びとしており、だからこそ自分のしたことについて謙遜でいられるのです。
この課題は、突き詰めて言えば、私たちが神から命を与えられてこの世に生かされていることを喜んでいるか、神の御栄えのために生きることを楽しんでいるか、という問へと通じています。
私たちはどのような視点から聖書を読もうとしているのかによって、そこから読みとれることや受け止めることがまるで違ってくることを念頭に置いておきましょう。
聖書の時代の主人と僕の関係は、現代の「権利と義務」に基づく雇用関係とは全く違っていました。ここで僕と訳されている言葉は元々「奴隷」、「召使い」とも訳される”δoμλοs”という言葉であり、僕の扱いについては今の時代の考えと全く異なっています。当時は、僕の全てが主人の手中にありました。僕は主人の財産の一部であり、商取引の対象になったり、借金の担保にもなりました。
その一方で、旧約聖書創世記後半に記されているヨセフのように、兄弟たちに売り飛ばされ、奴隷として買い取られた身となりながらも、エジプト王の役人ポティファルのもとで、その家のこと一切の運営を任されるような例もありました。
今日の聖書日課福音書で主イエスがお話になるこの僕は、主人に必要とされ、僕としてすべき仕事が与えられ、それをすることで主人に貢献し、そのようにできることはこの僕にとっても大きな喜びであったと想像できます。このような僕(しもべ)のことを、現代の「人権」という視点からではなく、当時の時代背景における「主人と僕」という視点で、主イエスの譬え話を考えると、主人に用いられ生かされる僕は厳しい労働を強いられているのではなく、僕は主人にその不満を抱いているのでもなく、むしろ主人に必要とされ、主人の求めに喜んで応える姿が浮かび上がってくるのです。
僕が「わたしは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」と言えるのは、そう言わねばならないから言うのではなく、自分の主人を信頼して主人の働きに与った喜びから言える言葉なのでしょう。
今日の聖書日課福音書の箇所は、主イエスが弟子たちと一緒にエルサレムに向かって進んでいる中でのこと、しかもその一行をファリサイ派が監視する中でのことであり、その中で、先ず使徒たちが主イエスに「わたしたちの信仰を増してください」と言って頼んだことに主イエスが答えてお話になった部分であることを確認しておきましょう。
使徒である者(つまり主イエスの宣教に働きを担う者)の信仰が増し加えられる事を考える上で、ヨハネによる福音書15章16節に大切な御言葉があります。
僕(しもべ)が主人の家の外で羊の世話をして、更に畑を耕して、家に戻ってきます。主人は彼をもてなすこともなく彼に次の仕事を言いつけます。「外の仕事は済んだら、次は食事の用意だ。私が食事をしている間は給仕をしてくれ。あなたの食事はその後だよ。」
このように言う主人のことを私たちはどう思うでしょう。例えば、現代のお店のオーナーとアルバイトのような関係を頭に置いてこの話を考えようとすれば、何のねぎらいの言葉もなく次々と僕に仕事を言いつけて働かせるこの主人は、非情な人のように思えるかも知れません。
でも、主イエスがここで伝えようとしているのは、主人のそのような非情な一面についてではなく、この僕は自分が主人に用いられいることを喜んでおり、この僕はこの主人に生かされているいうことです。そして、僕は自分の主人のために、主人の思いを満たすために働くのは当然であり、僕はこの主人の下で働くことを喜びとしており、だからこそ自分のしたことについて謙遜でいられるのです。
この課題は、突き詰めて言えば、私たちが神から命を与えられてこの世に生かされていることを喜んでいるか、神の御栄えのために生きることを楽しんでいるか、という問へと通じています。
私たちはどのような視点から聖書を読もうとしているのかによって、そこから読みとれることや受け止めることがまるで違ってくることを念頭に置いておきましょう。
聖書の時代の主人と僕の関係は、現代の「権利と義務」に基づく雇用関係とは全く違っていました。ここで僕と訳されている言葉は元々「奴隷」、「召使い」とも訳される”δoμλοs”という言葉であり、僕の扱いについては今の時代の考えと全く異なっています。当時は、僕の全てが主人の手中にありました。僕は主人の財産の一部であり、商取引の対象になったり、借金の担保にもなりました。
その一方で、旧約聖書創世記後半に記されているヨセフのように、兄弟たちに売り飛ばされ、奴隷として買い取られた身となりながらも、エジプト王の役人ポティファルのもとで、その家のこと一切の運営を任されるような例もありました。
今日の聖書日課福音書で主イエスがお話になるこの僕は、主人に必要とされ、僕としてすべき仕事が与えられ、それをすることで主人に貢献し、そのようにできることはこの僕にとっても大きな喜びであったと想像できます。このような僕(しもべ)のことを、現代の「人権」という視点からではなく、当時の時代背景における「主人と僕」という視点で、主イエスの譬え話を考えると、主人に用いられ生かされる僕は厳しい労働を強いられているのではなく、僕は主人にその不満を抱いているのでもなく、むしろ主人に必要とされ、主人の求めに喜んで応える姿が浮かび上がってくるのです。
僕が「わたしは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」と言えるのは、そう言わねばならないから言うのではなく、自分の主人を信頼して主人の働きに与った喜びから言える言葉なのでしょう。
今日の聖書日課福音書の箇所は、主イエスが弟子たちと一緒にエルサレムに向かって進んでいる中でのこと、しかもその一行をファリサイ派が監視する中でのことであり、その中で、先ず使徒たちが主イエスに「わたしたちの信仰を増してください」と言って頼んだことに主イエスが答えてお話になった部分であることを確認しておきましょう。
使徒である者(つまり主イエスの宣教に働きを担う者)の信仰が増し加えられる事を考える上で、ヨハネによる福音書15章16節に大切な御言葉があります。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
私たちの周りの、多くの人にとって、「祈り」は多くの場合「願掛け」です。多くの日本人が、家内安全、商売繁盛、健康回復、交通安全、学問成就、厄除け、水子供養、そして今話題の反社会的団体が人の不安に取り入るために利用したのが先祖供養というように、自分の願掛けのためにはどの神社やお寺が良いのかを探します。そして、その人々にとっては、キリスト教もそのような意味での欲望を満たしてくれるのかどうかの対象となって、人は自分に都合の良い神をその時々に選んで、お参りしてお札やお守りを買って安心を得ようとします。そこに見られるのは、信仰とは程遠い様々な欲望を満たすことでありながら、そうとは思わぬ多くの人はそのような願掛けがいつの間にか信仰であるかのようにすり替わり、信仰とは宗教とはそのようなものであると思い込むのです。
でも、主イエスは言われます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。それに続けて主イエスは、「選ばれた者が出かけていって宣教の実を結びその実が残るようになるため」とも言っておられます。
今日の聖書日課福音書の中で使徒たちが主イエスに求めている「信仰が増し加えられること」は、主イエスに願掛けをすることで可能になるのではなく、主イエスに選ばれている者であることを信じて、僕として主イエスに応えることによって得られるのです。主人に選ばれ主人の僕として生きようとするのであれば、その祈りも、主人の御心が実現しますようにという言葉になるでしょう。僕は主人の必要を満たすことに務めとし、その働きのために自分が選ばれていることを喜び、主人の命じる務めに喜ぶのです。
その働きに与ることによって、僕である自分が生かされ、他ならぬ自分が生きる使命を全うすることにつながります。そのようにして主人の御心がこの世に実現していくための務めなのです。
10節の「しなければならないことをしただけです」の「しなければならないこと」とは、直訳すれば「負債のあること」です。主の祈りの「私たちの罪(負債)をお赦しください。私たちも人を赦します。」という祈りに重なってきます。
主人が負債(罪)のある私を赦してくださり、僕として選び出して、主人の大切な務めに与らせてくだいます。私たちはこうしてこの世に生かされていることを喜び、僕としての働きに務めることができます。私たちの主人である主イエスが私たちに求めていること(しなければならないこと)を、喜びをもって行うが故に、私たちは謙遜にその働きを担うことができます。そのことは、私たちが自分の力を頼みとしてすることでは生まれてこない言葉であり、主人である主イエスがその働きをさせてくださることを自覚し、主イエスによって遣わされた場に御心が現れ出るようにその器となって働く時に感謝と共に「当然のことをしたまでです」と言えるのです。
もしこのような信仰の喜びと謙遜が無かったとしたら、たとえ教会という組織の中で営まれることであっても、その活動の意味はこの世の他のボランティアや慈善事業の活動と区別することはできなくなり、かえって他の人々を失望させたり躓かせたりすることになることを私たちはよくよく心に留めておきたいと思うのです。
主イエスは信仰を増し加えられることを期待する弟子たちに「あなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば・・。」と言いました。主が私を選び、主が私を捕らえ、主が私を主の僕として用いてくださるという信仰があれば、私たちはその喜びと謙遜によって、その働きに与る中からその信仰は一層育まれるのです。初めは砂粒のように小さな信仰であったとしても、やがてはそのカラシナの枝に鳥が巣を作るほどになるのです。たとえからし種一粒ほどの信仰であっても、私たちが主に召し出された僕としての喜びと謙遜によって主の働きに与るなら、そこから私たちの信仰は育まれ、私たちの教会も本当に主の宣教の器として成長することが出来るのでしょう。
今日の聖書日課福音書を通して、私たちは主イエスに召し出された者であることを自覚し、その信仰に基づいて、僕として主の働きに与る感謝を新たにすることができますように。
私たちの周りの、多くの人にとって、「祈り」は多くの場合「願掛け」です。多くの日本人が、家内安全、商売繁盛、健康回復、交通安全、学問成就、厄除け、水子供養、そして今話題の反社会的団体が人の不安に取り入るために利用したのが先祖供養というように、自分の願掛けのためにはどの神社やお寺が良いのかを探します。そして、その人々にとっては、キリスト教もそのような意味での欲望を満たしてくれるのかどうかの対象となって、人は自分に都合の良い神をその時々に選んで、お参りしてお札やお守りを買って安心を得ようとします。そこに見られるのは、信仰とは程遠い様々な欲望を満たすことでありながら、そうとは思わぬ多くの人はそのような願掛けがいつの間にか信仰であるかのようにすり替わり、信仰とは宗教とはそのようなものであると思い込むのです。
でも、主イエスは言われます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。それに続けて主イエスは、「選ばれた者が出かけていって宣教の実を結びその実が残るようになるため」とも言っておられます。
今日の聖書日課福音書の中で使徒たちが主イエスに求めている「信仰が増し加えられること」は、主イエスに願掛けをすることで可能になるのではなく、主イエスに選ばれている者であることを信じて、僕として主イエスに応えることによって得られるのです。主人に選ばれ主人の僕として生きようとするのであれば、その祈りも、主人の御心が実現しますようにという言葉になるでしょう。僕は主人の必要を満たすことに務めとし、その働きのために自分が選ばれていることを喜び、主人の命じる務めに喜ぶのです。
その働きに与ることによって、僕である自分が生かされ、他ならぬ自分が生きる使命を全うすることにつながります。そのようにして主人の御心がこの世に実現していくための務めなのです。
10節の「しなければならないことをしただけです」の「しなければならないこと」とは、直訳すれば「負債のあること」です。主の祈りの「私たちの罪(負債)をお赦しください。私たちも人を赦します。」という祈りに重なってきます。
主人が負債(罪)のある私を赦してくださり、僕として選び出して、主人の大切な務めに与らせてくだいます。私たちはこうしてこの世に生かされていることを喜び、僕としての働きに務めることができます。私たちの主人である主イエスが私たちに求めていること(しなければならないこと)を、喜びをもって行うが故に、私たちは謙遜にその働きを担うことができます。そのことは、私たちが自分の力を頼みとしてすることでは生まれてこない言葉であり、主人である主イエスがその働きをさせてくださることを自覚し、主イエスによって遣わされた場に御心が現れ出るようにその器となって働く時に感謝と共に「当然のことをしたまでです」と言えるのです。
もしこのような信仰の喜びと謙遜が無かったとしたら、たとえ教会という組織の中で営まれることであっても、その活動の意味はこの世の他のボランティアや慈善事業の活動と区別することはできなくなり、かえって他の人々を失望させたり躓かせたりすることになることを私たちはよくよく心に留めておきたいと思うのです。
主イエスは信仰を増し加えられることを期待する弟子たちに「あなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば・・。」と言いました。主が私を選び、主が私を捕らえ、主が私を主の僕として用いてくださるという信仰があれば、私たちはその喜びと謙遜によって、その働きに与る中からその信仰は一層育まれるのです。初めは砂粒のように小さな信仰であったとしても、やがてはそのカラシナの枝に鳥が巣を作るほどになるのです。たとえからし種一粒ほどの信仰であっても、私たちが主に召し出された僕としての喜びと謙遜によって主の働きに与るなら、そこから私たちの信仰は育まれ、私たちの教会も本当に主の宣教の器として成長することが出来るのでしょう。
今日の聖書日課福音書を通して、私たちは主イエスに召し出された者であることを自覚し、その信仰に基づいて、僕として主の働きに与る感謝を新たにすることができますように。