負債を引き受ける ルカによる福音書16:1-13 2022.09.18 聖霊降臨主日後第15(特定20)
今日の聖書日課福音書は、ルカによる福音書第16章1節~の「不正な管理人のたとえ」と呼ばれている箇所です。
先ずこの例え話の内容を簡単に振り返ってみましょう。
ある金持ちの主人がいて、その主人には財産の管理人がいました。主人は、管理人が財産を無駄遣いしているという噂を聞いて、管理人を呼び出し、会計の報告をさせてその職を辞めさせようとします。その時、困った管理人はこう考えるのです。「自分はもうここを追い出されるかも知れない。その時に自分を迎え入れてくれるような仲間をつくればいい。」
そこで管理人は、主人に沢山の負債のある人を呼び出して、証書の負債額を少なく書き直させるのです。油100バトス借りのある人には「50バトスに書きかえなさい」と、また、小麦100コロスの負債のある人には「ここに主人の証書があるから、80コロスに書きかえなさい」と言いました。この管理人のことを知った主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり口をほめた、というのがこの例え話の粗筋です。
書き替えられて軽くされる負債の額は、油の場合も小麦の場合も、ほぼ2年間の労働賃金に匹敵すると考えられます。もしこの話が例えではなく実際に他人の負債を勝手に処理する話であれば、この管理人の行為は主人に対する背信(裏切り)です。でも、主イエスがこの例えで教えておられるのは、実際の金銭の品物の貸借のことではなく、私たちが神に対して負っている支払いきれない負債-つまり罪-のことであることを、先ず確認しておきましょう。
そしてもう一つ、「不正にまみれた富」という言葉を理解しておきましょう。
9節と11節に「不正にまみれた富」という言葉がありますが、この訳は「聖書-新共同訳(1987年)」の訳です。「聖書協会訳(1954年)」も「聖書協会共同訳(2018年)」も、この言葉を直訳的に「不正の富み」と訳しています。私はこの箇所の「不正な」という言葉を「悪事を働く」という意味ではなく「神の御心に結びついていない」という意味で理解することが大切であると考えます。なぜかと言えば、この「不正の」の原語である「αδικοsアディコス」という言葉は「義ではない、不義な」という意味であり、犯罪にならない行為も神の御前に「義ではない、不義とされる」ことはいくらでもあることなのです。「富、財産μαμωναsマモーナス」は本来は善でも悪でもない便利で大切なものですが、それが人によって慈善ためにも悪事のためにも用いられるのです。神の御心から離れた行いは、それがこの世の犯罪であるかどうかの問題ではなく、「δικαιοsディカイオス 義なる 正しい」の反対の「αδικοsアディコス 不正の、不忠実な、不敬虔な」という視点からの問題になるのです。
この箇所で「不正にまみれた富」と訳されている言葉は、「悪事を働いて儲けたお金」というような意味ではなく、「神の御心に則していない、この世の思いや価値感覚にまみれた富」というような意味に重点があることを理解しておきましょう。
さて、私たちは、この世の法律に触れるような犯罪人ではないにしても、神の御心から離れれば、不義の者であり罪人であるとも言えます。私たちは神から取り替えることの出来ない大切な存在としてこの世に命を受けています。それにもかかわらず、私たちが自分の本来の姿から離れていることは神に対して負債があると例えられ、しかも私たちは神に対して返済することの出来ない多額な借金をしていることに例えられるのです。
当時のイスラエルの民にとって、「神との関係に負債がない」とは、神との契約を文字通りに正しく守る事であると考えらました。そして、律法に反する行為は神に対する負債があることに例えられ、人はその罪の身代わりの動物を生け贄として献げることでその罪の汚れが清算されると考えました。しかし、イスラエルの中でこのような神殿での礼拝が儀式化してくると、特に裕福な人々は貧しく小さくされた人や罪に汚れた人を顧みることを忘れはじめます。生け贄を捧げる彼らの礼拝は次第に形ばかりのものとなり、祭司たちや律法学者たちはその制度の上にあぐらをかいて、律法を全うできない人々をそのままにして差別体質を残し、指導者たちは自分を救われた側に置いて神殿の利益を貪るようになっていったと言えます。
今日の旧約聖書日課のアモス書の言葉にも見られるとおり、アモスはそのような神殿の指導者たちを厳しく糾弾しています。
主イエスは、人の罪や不義は神殿での礼拝をすることの出来ない貧しくされた人々にあるのではなく、ユダヤ教の指導者をはじめとする上層階級の人々が社会の貧しい人を蔑み、その差別体質を残して利益を貪っているところにあるとお考えになり、また、貧しく弱いがゆえに罪人扱いされている人々がその重荷から解放されることこそ神の御心だとお考えになったのです。
私たちは、それぞれの人生とこの世界という財産の管理を神から託されている管理人です。私たちは、この世界の中に生きて、主人である神に対してどのような報告書を出すことになるのでしょう。そして主人である神に対する不正とその負債をどのように処理しようとしているのでしょう。
今日の聖書日課福音書の中の管理人は、自分の主人に背いていたことが発覚した時に、他の人の負債を軽くすることを思いつきました。
主人に財産の管理を託されながら無駄遣いしてしまった管理人は、その決算報告を求められた時に、主人に対して負債のある他の人々の重荷を少しでも軽くするために働き始めます。この管理人は主人の財産を無駄遣いした上に、他人の負債の証文を書きかえさせて、主人に対して二重の裏切りをしたように見えます。でも、この管理人がしたのは、他人が主人に対して負う借金を軽くしてやることであり、この世の富を用いて他の人が負っている負債を軽くしているのです。そして、主人は、この管理人がこの世の富を用いて、主人に対して負債のある者の負債を軽くしてその人の友となったことをほめているのです。
さて、そうであるのなら、証文を書き換えた油50バトス分また小麦20コロス分の損失は誰が負うのでしょう。証書が書きかえられたのであれば、実際に失われた油や小麦分の負担は誰のところに行くのでしょう。その損失は最終的には誰が被り、あるいは誰が引き受けるのでしょう。
実は、私たちが神に対して負っている罪も、最終的には自分で精算できるようなものではありません。私たちの負債は自分で償うことの出来る額を遙かに超えており、私たちに命を与えてくださった神に対して、私たちは自分で追えない重荷を負わせている事にさえ気付いていないのです。そのような私たちは、主人である神の御前に会計報告を迫られている者であり、その返済の出来ない私たちはどうすべきか神から問われている者なのです。
私たちは、自分では償うことの出来ない負債を私たちに代わって主イエスに返済していただいていることに気付かねばなりません。そうでなければ、私たちは自分の不正を取り調べられ、罪をえぐり出されるばかりでどこに救いがあるでしょう。私たちは自分ではその不正を埋め合わせることが出来ず、滅びに向かうしかなかった者です。主イエスは、そのような私たちの側に立って、麦や油の負債を軽くするどころか、私たちの負債を全てご自身で引き受けて下さいました。私たちの負債が記されている証文(台帳)は、その負債が主イエスの十字架の死によって全て帳消しにされています。主イエスは、私たちが支払うべき負債をすべてご自身で引き受けて下さり、十字架の上に、ご自身の命によって私たちの支払いの全てを完了してくださいました。既に主イエスが私たちの人生の会計報告を「神の前に借金無し=罪無し」としてくださったのです。このことを通して、私たちは神の前に負債の無い者となって、深い赦しを感謝して神の御前に進み出ることができるのです。
このような主イエスの愛は、時に律法の枠を超えて働き、ユダヤ教の指導者たちの目には不正を働くこととしてさえ受け取られることにもなりました。
私たちは主の祈りの中で「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも人を赦します。」と祈ります。わたしたちの負債は既に主イエスによって取り除かれており、この赦しに基づいて、私たちは他の人を罪に定めるのではなく、赦し合って友となることへと促されていくのです。
今日の聖書日課福音書の「不正な管理人」の箇所を理解するには、主イエスの十字架によって私たちの負債がすべて帳消しにされていることを受け容れる信仰が必要です。また、この例え話から、その信仰の養いと導きを与えられますように。
私たちの負債をすべて引き受けて私たちの本当の友となってくださったことによって、私たちは喜んで主人である神の御前に進み出てる事ができます。そしてこの信仰に基づいて、私たちは周りの人々に「あなたの負債も主イエスを通して完全に帳消しにされています」と伝えることが出来るのです。
主イエスの愛を受けた私たちは、他の人々の負い目や重荷を共に担い、互いに友となることが出来るように導かれて参りましょう。
先ずこの例え話の内容を簡単に振り返ってみましょう。
ある金持ちの主人がいて、その主人には財産の管理人がいました。主人は、管理人が財産を無駄遣いしているという噂を聞いて、管理人を呼び出し、会計の報告をさせてその職を辞めさせようとします。その時、困った管理人はこう考えるのです。「自分はもうここを追い出されるかも知れない。その時に自分を迎え入れてくれるような仲間をつくればいい。」
そこで管理人は、主人に沢山の負債のある人を呼び出して、証書の負債額を少なく書き直させるのです。油100バトス借りのある人には「50バトスに書きかえなさい」と、また、小麦100コロスの負債のある人には「ここに主人の証書があるから、80コロスに書きかえなさい」と言いました。この管理人のことを知った主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり口をほめた、というのがこの例え話の粗筋です。
書き替えられて軽くされる負債の額は、油の場合も小麦の場合も、ほぼ2年間の労働賃金に匹敵すると考えられます。もしこの話が例えではなく実際に他人の負債を勝手に処理する話であれば、この管理人の行為は主人に対する背信(裏切り)です。でも、主イエスがこの例えで教えておられるのは、実際の金銭の品物の貸借のことではなく、私たちが神に対して負っている支払いきれない負債-つまり罪-のことであることを、先ず確認しておきましょう。
そしてもう一つ、「不正にまみれた富」という言葉を理解しておきましょう。
9節と11節に「不正にまみれた富」という言葉がありますが、この訳は「聖書-新共同訳(1987年)」の訳です。「聖書協会訳(1954年)」も「聖書協会共同訳(2018年)」も、この言葉を直訳的に「不正の富み」と訳しています。私はこの箇所の「不正な」という言葉を「悪事を働く」という意味ではなく「神の御心に結びついていない」という意味で理解することが大切であると考えます。なぜかと言えば、この「不正の」の原語である「αδικοsアディコス」という言葉は「義ではない、不義な」という意味であり、犯罪にならない行為も神の御前に「義ではない、不義とされる」ことはいくらでもあることなのです。「富、財産μαμωναsマモーナス」は本来は善でも悪でもない便利で大切なものですが、それが人によって慈善ためにも悪事のためにも用いられるのです。神の御心から離れた行いは、それがこの世の犯罪であるかどうかの問題ではなく、「δικαιοsディカイオス 義なる 正しい」の反対の「αδικοsアディコス 不正の、不忠実な、不敬虔な」という視点からの問題になるのです。
この箇所で「不正にまみれた富」と訳されている言葉は、「悪事を働いて儲けたお金」というような意味ではなく、「神の御心に則していない、この世の思いや価値感覚にまみれた富」というような意味に重点があることを理解しておきましょう。
さて、私たちは、この世の法律に触れるような犯罪人ではないにしても、神の御心から離れれば、不義の者であり罪人であるとも言えます。私たちは神から取り替えることの出来ない大切な存在としてこの世に命を受けています。それにもかかわらず、私たちが自分の本来の姿から離れていることは神に対して負債があると例えられ、しかも私たちは神に対して返済することの出来ない多額な借金をしていることに例えられるのです。
当時のイスラエルの民にとって、「神との関係に負債がない」とは、神との契約を文字通りに正しく守る事であると考えらました。そして、律法に反する行為は神に対する負債があることに例えられ、人はその罪の身代わりの動物を生け贄として献げることでその罪の汚れが清算されると考えました。しかし、イスラエルの中でこのような神殿での礼拝が儀式化してくると、特に裕福な人々は貧しく小さくされた人や罪に汚れた人を顧みることを忘れはじめます。生け贄を捧げる彼らの礼拝は次第に形ばかりのものとなり、祭司たちや律法学者たちはその制度の上にあぐらをかいて、律法を全うできない人々をそのままにして差別体質を残し、指導者たちは自分を救われた側に置いて神殿の利益を貪るようになっていったと言えます。
今日の旧約聖書日課のアモス書の言葉にも見られるとおり、アモスはそのような神殿の指導者たちを厳しく糾弾しています。
主イエスは、人の罪や不義は神殿での礼拝をすることの出来ない貧しくされた人々にあるのではなく、ユダヤ教の指導者をはじめとする上層階級の人々が社会の貧しい人を蔑み、その差別体質を残して利益を貪っているところにあるとお考えになり、また、貧しく弱いがゆえに罪人扱いされている人々がその重荷から解放されることこそ神の御心だとお考えになったのです。
私たちは、それぞれの人生とこの世界という財産の管理を神から託されている管理人です。私たちは、この世界の中に生きて、主人である神に対してどのような報告書を出すことになるのでしょう。そして主人である神に対する不正とその負債をどのように処理しようとしているのでしょう。
今日の聖書日課福音書の中の管理人は、自分の主人に背いていたことが発覚した時に、他の人の負債を軽くすることを思いつきました。
主人に財産の管理を託されながら無駄遣いしてしまった管理人は、その決算報告を求められた時に、主人に対して負債のある他の人々の重荷を少しでも軽くするために働き始めます。この管理人は主人の財産を無駄遣いした上に、他人の負債の証文を書きかえさせて、主人に対して二重の裏切りをしたように見えます。でも、この管理人がしたのは、他人が主人に対して負う借金を軽くしてやることであり、この世の富を用いて他の人が負っている負債を軽くしているのです。そして、主人は、この管理人がこの世の富を用いて、主人に対して負債のある者の負債を軽くしてその人の友となったことをほめているのです。
さて、そうであるのなら、証文を書き換えた油50バトス分また小麦20コロス分の損失は誰が負うのでしょう。証書が書きかえられたのであれば、実際に失われた油や小麦分の負担は誰のところに行くのでしょう。その損失は最終的には誰が被り、あるいは誰が引き受けるのでしょう。
実は、私たちが神に対して負っている罪も、最終的には自分で精算できるようなものではありません。私たちの負債は自分で償うことの出来る額を遙かに超えており、私たちに命を与えてくださった神に対して、私たちは自分で追えない重荷を負わせている事にさえ気付いていないのです。そのような私たちは、主人である神の御前に会計報告を迫られている者であり、その返済の出来ない私たちはどうすべきか神から問われている者なのです。
私たちは、自分では償うことの出来ない負債を私たちに代わって主イエスに返済していただいていることに気付かねばなりません。そうでなければ、私たちは自分の不正を取り調べられ、罪をえぐり出されるばかりでどこに救いがあるでしょう。私たちは自分ではその不正を埋め合わせることが出来ず、滅びに向かうしかなかった者です。主イエスは、そのような私たちの側に立って、麦や油の負債を軽くするどころか、私たちの負債を全てご自身で引き受けて下さいました。私たちの負債が記されている証文(台帳)は、その負債が主イエスの十字架の死によって全て帳消しにされています。主イエスは、私たちが支払うべき負債をすべてご自身で引き受けて下さり、十字架の上に、ご自身の命によって私たちの支払いの全てを完了してくださいました。既に主イエスが私たちの人生の会計報告を「神の前に借金無し=罪無し」としてくださったのです。このことを通して、私たちは神の前に負債の無い者となって、深い赦しを感謝して神の御前に進み出ることができるのです。
このような主イエスの愛は、時に律法の枠を超えて働き、ユダヤ教の指導者たちの目には不正を働くこととしてさえ受け取られることにもなりました。
私たちは主の祈りの中で「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも人を赦します。」と祈ります。わたしたちの負債は既に主イエスによって取り除かれており、この赦しに基づいて、私たちは他の人を罪に定めるのではなく、赦し合って友となることへと促されていくのです。
今日の聖書日課福音書の「不正な管理人」の箇所を理解するには、主イエスの十字架によって私たちの負債がすべて帳消しにされていることを受け容れる信仰が必要です。また、この例え話から、その信仰の養いと導きを与えられますように。
私たちの負債をすべて引き受けて私たちの本当の友となってくださったことによって、私たちは喜んで主人である神の御前に進み出てる事ができます。そしてこの信仰に基づいて、私たちは周りの人々に「あなたの負債も主イエスを通して完全に帳消しにされています」と伝えることが出来るのです。
主イエスの愛を受けた私たちは、他の人々の負い目や重荷を共に担い、互いに友となることが出来るように導かれて参りましょう。