失った羊一匹のために ルカによる福音書15:1-10 聖霊降臨後第15主日(特定19) 2022.09.11
主よ、どうか私たちのところに来て下って私たちの心を治め、共いて下さり、あなたの御言葉によって私たちを養い、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
今日の福音書、ルカによる福音書第15章は、多くの人に知られまた好まれている箇所です。この箇所は「福音の中の福音」とも言われ、主イエスの教えと行いを理解する上で分かり易い箇所であり、また主イエスのなさった例え話の中でも、主なる神の御心を伝える上での一番中心にあることが記されている箇所であるとも言えます。
今日の福音書から、ルカ第15章10節の御言葉をもう一度思い起こしてみましょう。
「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
仮に、私に10人の子どもがいるとして、彼らに平等に接するとすれば、物については10分の1ずつ分け与えることになるでしょう。でも、私が子供を愛する時には愛は10分の1ずつになるわけではありません。私は親として一人ひとりの存在を喜び、10人それぞれの性格を知り、10人の子供それぞれに十分な関わりを持ち、そこに10通りの関係があり、どの子どものことも可愛がるでしょう。私は、10人の誰もが大切であり、もし出来が悪かったりして手を焼く子供がいれば、その子供が気がかりで、心を痛め、一層関わらないわけにはいかない事になるでしょう。それは、10人いる自分の子供の誰一人として失われてはならず、むなしく滅び去ったりしてはならないと思う親としての愛があるからです。
神の愛は全ての人に与えられていますが、それは均質的でも画一的でもありません。
今日の聖書日課福音書の「見失った羊」やそれに続く「無くなった銀貨」の例えには、当時のユダヤ社会の中で、権力を握る指導者たちが考えていた救いの約束の枠からはじき出されて神の御心から遠く離れ去ったように見える人に対する神の愛が描かれています。
主イエスが、つとめて交わりを持ち、愛を注がれたのは、100匹いるはずの中の失われた一匹の羊のような人々であり、10枚揃っているはずのうち無くなってしまった一枚の銀貨のような人たちでした。彼らは、正統なユダヤ教の信仰を持つ人々からは、邪魔者扱いされ、罪人扱いされ、交わりを絶たれていました。その一方で、ユダヤ教の中心にある人々は、自分たちを救われた者の側に置いていました。その代表的な存在がファリサイ派です。ファリサイとは「分離した」「分けられた」という意味があり、自分たちを神に選び分けられた者と位置づけて、この「ファリサイ」という名称も、この人々自身によって名付けられたとも考えられています。彼らは、自分たちを神に選ばれ分けられた者と位置づけ、その枠に入れない人々、落ちこぼれた人々を「地の民」と呼んで蔑んでいたのでした。
ファリサイ派には次のような規約があったと伝えられています。
「地の民には金を預けてはならず、何の証言も取ってはならない。秘密を明かしてはならない。孤児の保護を頼んではならない。旅の道連れになってはならない。金を管理させてはならない。」
ファリサイ派をはじめとする律法の教師や神殿の指導者たちは、民族としての団結をはかり、神との関係を清く保ち、律法に背く事を極度に嫌いました。そして神との間の契約である律法を全うできない人について「罪人が一人でも神の前で抹殺されるなら天に喜びがある」とまで言っていたのです。
地の民と呼ばれる人々は、こうしたファリサイ派の人々から全く信用されず、取引や売買もたたれ、接触する事を嫌がられました。
でも、主イエスは罪人呼ばわりされる人や神殿や会堂を追放された人々と交わり、食事を共にしておられました。このような主イエスのお姿を見るとユダヤ教徒たちは心の底から驚き腹を立てました。ファリサイ派の人々にとって、主イエスのように地の民と交わる事は自分を汚す事であり、自分も汚れた者つまり罪人になる事に他なりませんでした。
こうした状況で、主イエスがファリサイ派の人々や律法の専門家に向かってお話しになったのが今日の福音書です。
その始めに、主イエスは失った1匹の羊の例え話をなさいました。
羊飼いは危険の多い仕事です。荒れた大地の僅かな緑を求めて羊を連れ歩きます。砂漠があり崖がある難しい場所を時に先頭に立ちまた時には後ろに周り、一匹も失う事がないようにと働く羊飼いには、会堂での祈りも決まった時刻の礼拝にも無縁でした。羊一匹一匹に名前を付けその性格も知り抜き、昼も夜も群れを守り導くのが羊飼いの仕事でした。こうした過酷な状況でも自分の羊を一匹も失うまいと懸命に働く羊飼いを思うと、主イエスがこの例えをなさった思いが私たちにも少し見えてくるように思われます。
例えイスラエルの指導者たちが、貧しい立場の人を裁いてその社会から切り捨てるようなことがあろうとも、主なる神は捨てられた人をどこまでも追い求め、その群れの中に呼び戻そうとして止まないのです。ファリサイ派の人々は「罪人が抹殺されるのが神の喜び」と言うのに対して、主イエスは「失われた罪人が見つけ出され、神の許に迎え入れられる事が天の喜び」だと言うのです。自分を正しい者の側に置く人にとって、罪ある人は救いの外にありますが、主イエスにとってはそうではありません。いつも御声に従って羊飼いのそばにいる羊ばかりではなく、どんな羊であれ最後の一匹までを掛け替えにないものとして愛しぬいてくださいます。その羊飼いにとって羊たちはどれもすべて大切な存在なのだから、もしその中の一匹が迷い出てしまったら、羊飼いはその一匹を探し回る時間も労も厭わないのです。
罪の中にさまよう者を主なる神自らが尋ね求め探し出し、見つけた羊を抱き寄せ肩に担いでお喜びになるのです。100匹いるのが本来の姿であるのなら、残りの一匹は他の99匹と同じように大切であり、人が神の御許に立ち帰る事は天の喜びなのです。
もう一つの例えである「無くなった銀貨」の例えも同じ事を意味しています。
銀貨は10枚そろえて輪飾りのようにして、婚礼などの特別な喜びのしるしとして用いました。一枚欠けても、貨幣として9枚分の価値はあるものの、すべてが存在していることに込められる特別な喜びは失われるのです。私たちも一人ひとりが神の喜びを示す銀貨のような存在である事を心に留めたいと思うのです。
今日の使徒書テモテの手紙Ⅰ第1章15節で、パウロは「わたしはその罪人の中で最たる者です」と言っています。これはパウロが自分の信仰を「私は神の愛と赦しを一番必要とする者なのだ」と言って表明している言葉です。「自分は、羊飼いである主イエスに真っ先に探し出されなければならない、そしてその羊飼いに付いていかねばならない」と言う自覚があり、その自覚に基づいてパウロは「私は罪人の中の最たる者です」と言っています。
私たちが自分を愛する以上に、神は私たち一人ひとりを受け入れて愛し、導いてくださっています。この神によって私は導かれたいし導かれねばならないとパウロは言います。この祈りはパウロの祈りであると同時に私たちの祈りです。主イエスは、まことの羊飼いとして、ご自身が傷つき十字架の上に身を投げ出してまで、私たちを見つけ出し、招き寄せてくださいました。この羊飼いの導きによって私たちが神の愛に立ち返る時、神の許に大きな喜びがあるのです。
そうであれば、私たちが自分で「私のような不信仰な者が・・・」と言って神に近づく事をためらうのは、かえって神の愛を損ない、神の招きを拒むことになり、それは失礼なことになり、私を探し当ててくださった神の愛を無駄にする事になるでしょう。
私たち一人ひとりがそれぞれに他ならぬその人として神に愛され、招かれています。私たち一人ひとりが主イエスに名を呼ばれ、連れ戻され、神の愛の中で生きる恵みを与えられている事を覚え、多くの人を神の群れに招き入れる働きが出来るように力づけられる者でありたいと思います。
今日の福音書から、ルカ第15章10節の御言葉をもう一度思い起こしてみましょう。
「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
仮に、私に10人の子どもがいるとして、彼らに平等に接するとすれば、物については10分の1ずつ分け与えることになるでしょう。でも、私が子供を愛する時には愛は10分の1ずつになるわけではありません。私は親として一人ひとりの存在を喜び、10人それぞれの性格を知り、10人の子供それぞれに十分な関わりを持ち、そこに10通りの関係があり、どの子どものことも可愛がるでしょう。私は、10人の誰もが大切であり、もし出来が悪かったりして手を焼く子供がいれば、その子供が気がかりで、心を痛め、一層関わらないわけにはいかない事になるでしょう。それは、10人いる自分の子供の誰一人として失われてはならず、むなしく滅び去ったりしてはならないと思う親としての愛があるからです。
神の愛は全ての人に与えられていますが、それは均質的でも画一的でもありません。
今日の聖書日課福音書の「見失った羊」やそれに続く「無くなった銀貨」の例えには、当時のユダヤ社会の中で、権力を握る指導者たちが考えていた救いの約束の枠からはじき出されて神の御心から遠く離れ去ったように見える人に対する神の愛が描かれています。
主イエスが、つとめて交わりを持ち、愛を注がれたのは、100匹いるはずの中の失われた一匹の羊のような人々であり、10枚揃っているはずのうち無くなってしまった一枚の銀貨のような人たちでした。彼らは、正統なユダヤ教の信仰を持つ人々からは、邪魔者扱いされ、罪人扱いされ、交わりを絶たれていました。その一方で、ユダヤ教の中心にある人々は、自分たちを救われた者の側に置いていました。その代表的な存在がファリサイ派です。ファリサイとは「分離した」「分けられた」という意味があり、自分たちを神に選び分けられた者と位置づけて、この「ファリサイ」という名称も、この人々自身によって名付けられたとも考えられています。彼らは、自分たちを神に選ばれ分けられた者と位置づけ、その枠に入れない人々、落ちこぼれた人々を「地の民」と呼んで蔑んでいたのでした。
ファリサイ派には次のような規約があったと伝えられています。
「地の民には金を預けてはならず、何の証言も取ってはならない。秘密を明かしてはならない。孤児の保護を頼んではならない。旅の道連れになってはならない。金を管理させてはならない。」
ファリサイ派をはじめとする律法の教師や神殿の指導者たちは、民族としての団結をはかり、神との関係を清く保ち、律法に背く事を極度に嫌いました。そして神との間の契約である律法を全うできない人について「罪人が一人でも神の前で抹殺されるなら天に喜びがある」とまで言っていたのです。
地の民と呼ばれる人々は、こうしたファリサイ派の人々から全く信用されず、取引や売買もたたれ、接触する事を嫌がられました。
でも、主イエスは罪人呼ばわりされる人や神殿や会堂を追放された人々と交わり、食事を共にしておられました。このような主イエスのお姿を見るとユダヤ教徒たちは心の底から驚き腹を立てました。ファリサイ派の人々にとって、主イエスのように地の民と交わる事は自分を汚す事であり、自分も汚れた者つまり罪人になる事に他なりませんでした。
こうした状況で、主イエスがファリサイ派の人々や律法の専門家に向かってお話しになったのが今日の福音書です。
その始めに、主イエスは失った1匹の羊の例え話をなさいました。
羊飼いは危険の多い仕事です。荒れた大地の僅かな緑を求めて羊を連れ歩きます。砂漠があり崖がある難しい場所を時に先頭に立ちまた時には後ろに周り、一匹も失う事がないようにと働く羊飼いには、会堂での祈りも決まった時刻の礼拝にも無縁でした。羊一匹一匹に名前を付けその性格も知り抜き、昼も夜も群れを守り導くのが羊飼いの仕事でした。こうした過酷な状況でも自分の羊を一匹も失うまいと懸命に働く羊飼いを思うと、主イエスがこの例えをなさった思いが私たちにも少し見えてくるように思われます。
例えイスラエルの指導者たちが、貧しい立場の人を裁いてその社会から切り捨てるようなことがあろうとも、主なる神は捨てられた人をどこまでも追い求め、その群れの中に呼び戻そうとして止まないのです。ファリサイ派の人々は「罪人が抹殺されるのが神の喜び」と言うのに対して、主イエスは「失われた罪人が見つけ出され、神の許に迎え入れられる事が天の喜び」だと言うのです。自分を正しい者の側に置く人にとって、罪ある人は救いの外にありますが、主イエスにとってはそうではありません。いつも御声に従って羊飼いのそばにいる羊ばかりではなく、どんな羊であれ最後の一匹までを掛け替えにないものとして愛しぬいてくださいます。その羊飼いにとって羊たちはどれもすべて大切な存在なのだから、もしその中の一匹が迷い出てしまったら、羊飼いはその一匹を探し回る時間も労も厭わないのです。
罪の中にさまよう者を主なる神自らが尋ね求め探し出し、見つけた羊を抱き寄せ肩に担いでお喜びになるのです。100匹いるのが本来の姿であるのなら、残りの一匹は他の99匹と同じように大切であり、人が神の御許に立ち帰る事は天の喜びなのです。
もう一つの例えである「無くなった銀貨」の例えも同じ事を意味しています。
銀貨は10枚そろえて輪飾りのようにして、婚礼などの特別な喜びのしるしとして用いました。一枚欠けても、貨幣として9枚分の価値はあるものの、すべてが存在していることに込められる特別な喜びは失われるのです。私たちも一人ひとりが神の喜びを示す銀貨のような存在である事を心に留めたいと思うのです。
今日の使徒書テモテの手紙Ⅰ第1章15節で、パウロは「わたしはその罪人の中で最たる者です」と言っています。これはパウロが自分の信仰を「私は神の愛と赦しを一番必要とする者なのだ」と言って表明している言葉です。「自分は、羊飼いである主イエスに真っ先に探し出されなければならない、そしてその羊飼いに付いていかねばならない」と言う自覚があり、その自覚に基づいてパウロは「私は罪人の中の最たる者です」と言っています。
私たちが自分を愛する以上に、神は私たち一人ひとりを受け入れて愛し、導いてくださっています。この神によって私は導かれたいし導かれねばならないとパウロは言います。この祈りはパウロの祈りであると同時に私たちの祈りです。主イエスは、まことの羊飼いとして、ご自身が傷つき十字架の上に身を投げ出してまで、私たちを見つけ出し、招き寄せてくださいました。この羊飼いの導きによって私たちが神の愛に立ち返る時、神の許に大きな喜びがあるのです。
そうであれば、私たちが自分で「私のような不信仰な者が・・・」と言って神に近づく事をためらうのは、かえって神の愛を損ない、神の招きを拒むことになり、それは失礼なことになり、私を探し当ててくださった神の愛を無駄にする事になるでしょう。
私たち一人ひとりがそれぞれに他ならぬその人として神に愛され、招かれています。私たち一人ひとりが主イエスに名を呼ばれ、連れ戻され、神の愛の中で生きる恵みを与えられている事を覚え、多くの人を神の群れに招き入れる働きが出来るように力づけられる者でありたいと思います。