御心を優先する(自分の十字架を負う) ルカによる福音書14:25-33 聖霊降臨後第13主日(特定18) 2022.09.04
今日の聖書日課福音書から、ルカによる福音書再14章26節の御言葉をもう一度読んでみましょう。
「もし、誰かがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではあり得ない。」
このみ言葉は、多くの人がどのように受け止めたら良いのか戸惑い、或いは心を揺さぶられるような思いになるみ言葉なのではないでしょうか。
この箇所を理解するために、先ず、ここで「憎む」と訳されている言葉について理解しておきましょう。
日本語の「憎む」は「いやな相手として嫌う」、「腹立たしく思う」という意味で、感情的な意味合いが強いと言えますが、この箇所で「憎む」と訳される元の言葉はギリシャ語でμισεω(ミセオー)という言葉で、日本語の「憎む」という言葉の意味内容とは随分その範囲に違いがあります。μισεω(ミセオー)というギリシャ語やこのギリシャ語に対応するヘブライ語でのsana(サーナー)という語の意味には、感情的に嫌う」という意味より「なおざりにする(気にかけずそのままにする)」、「軽視する」という意味に重心があります。
例えば、好きな食べ物(うどんと蕎麦)があって、うどんより蕎麦の方が好きだという時に、その両者の比較において「私は蕎麦が好きでうどんは嫌いです」と言う表現になるのです。今日の福音書の「μισεω(ミセオー)憎む」という言葉についても、主イエスは両親をはじめとする家族を否定的な感情を込めて「憎め」と言っておられるのではなく、主イエスに従おうとする者に、その大前提として、主イエスに従うことを最優先する覚悟があるかを問うておられるということを理解しておきましょう。
主イエスは、今日の聖書日課福音書の中で、いつどのような場合にも神の御心を求めることを第1とすることを教えておられ、弟子として主イエスに従おうとするのなら、そのことを最優先して、その他のことはそれによって位置づけられ正しい意味を与えられるようにすることを教えておられるのです。
十戒の第5は「あなたの父と母を敬いなさい」です。主イエスはこの戒めを否定しているわけではなく、自分の肉親家族を絶対化することを避け、先ず神の御心を求めることを最優先する中に自分の家族を愛することも位置づけられるのです。
今、主イエスの後を追う多くの人々には、それぞれにイエスに付いていこうとする動機や下心がありました。それらは決してすべてが不純な思いからであったり自分中心的なものであったわけではなかったでしょう。
でも、主イエスの後から付いてくる人々の多くの思いは、自分の個人的な願いが満たされることが第一であり、自分を通して主なる神の御心が行われることを最も大切にしているわけではないことが主イエスにはお見通しであったのではないでしょうか。
主イエスは、「もし誰でも主なる神の御心を一番大切なものとしないのなら、誰も本当に私の弟子ではあり得ない」という意味で冒頭に取り上げた言葉を用いておられるのです。
ここで主イエスさまが言っておられることを言い替えてみると次のようになるでしょう。
「私のもとに来ても、神の愛を根底に置く者でないのであれば、私の本当の弟子ではあり得ない。」
このように理解すると、私たちはそれに続く27節で「自分の十字架を負って、私に付いてくる者でなければ、私の弟子ではあり得ない。」という主イエスの言葉をより身近に理解できるのではないでしょうか。
なぜなら、神の御心を生きることは、自分が神から与えられた自分の使命を生きることは、分けることの出来ない一つのことであり、私たちは誰もが自分の十字架の重さを感じないわけにはいきません。でも、十字架が重いからと言ってそれを担うことを止めてしまっては主イエスの弟子ではあり得ないのです。
私たちが主イエスに従って生きるとき、主イエスに無理解なこの世との間にある矛盾や理想と現実の違いを見ざるを得なくなります。でも、その痛みを投げ出さずに、「御国が来ますように、御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」と祈りつつ、主なる神の御心の実現のために生きることが「自分の十字架を背負う」と言うことであり、私たちはどこまでも主イエスの導きに従って生きていくことを求められているのです。
私たちは、家族や親族の中に於いても、そこでの人間関係の故に御心を脇に置いて済ませるのではなく、その場に神の御心が行われるように主イエスの弟子として遣わされているのです。
主イエスは、当時のユダヤ社会の中で、その矛盾と葛藤の中に生きて、そこに神の御心が現れ出るように生き抜き、最後にはゴルゴタの丘で十字架につけられました。
私たちはこの主イエスを救い主として愛し、ここから家族のことも、家のことも考えて、具体的な課題を担うのです。
これは、観念的なことや抽象的なことではなく、私たちの生活の中で極めて具体的なことなのではないでしょうか。例えば、独裁的な権力者の治める国を見てみれば分かるように、主イエスが示してくださった働きを自分も弟子の一人となってこの世界に示していくことは、必ずしもいつもこの世に受け入れらて、その計画がうまく進むとは限らないのです。ことに弱い人や貧しい人々を締め付けてその上にあぐらをかく権力者にとって、かつて預言者たちが語ったことや主イエスの示した愛や自由や平等は邪魔であり、それゆえにキリスト教会は2000年の歴史の中で迫害を受けることも度々でした。
私たちの日常生活に於いても、それと同じことが、その規模は違うにしても、数限りなく起こっています。そして、こうした課題は、社会の小さな単位である家族の中にも親しい仲間との人間関係の中にも存在し、私たちはそのような場面で、主イエスの弟子として、先ず主イエスに従うことを基盤に据えて働くことを求められています。
主イエスは、「先ず神の国と神の義を求めなさい」と教えてくださいました。私たちがそのように生きる時、親、兄弟、親族のことから自分の命のことまでが主イエスによって位置づけられ、大きな救いの中に意味づけられてくるでしょう。
今日の聖書日課福音書で注目しておきたいのは、主イエスは先頭に立ってエルサレムの十字架に向かって歩んでおられること、そしてその主イエスの後から付いてくる人たちのことを振り返って、主イエスはこの教えを述べておられるということです。ルカによる福音書では先頭を行く主イエスが振り返ってお話しになるのは、いつも大切なことを告げる時のことでした。
振り返った主イエスの眼差しを受けた人たちは、自分が赦され愛され導かれている事を確認し、自分の十字架を負う人へと導かれていきました。私たちもまた自分の十字架を負って歩もうとしており、私たちに先立って歩んでくださる主イエスが私たちを振り返り導いてくださることを覚えたいのです。
主イエスを自分の中心に据えて生きる人は、この世界のそこここに、御心から離れた実態が見えてきます。そのような中で生きる私たちは、ただ一人孤独のうちに自分の十字架を担うのではなく、主イエスが共にその十字架を背負っ歩んでくださることに気付きます。
私たちは主イエスが十字架の死の先にまで生きてくださり、そこに開いてくださった永遠の命へと私たちを導いてくださる確かさ与えられています。私たちは、いつも自分の中心に主イエスがいてくださることを信じて、導かれる信仰を確かにしていくことが出来ますように。
「もし、誰かがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではあり得ない。」
このみ言葉は、多くの人がどのように受け止めたら良いのか戸惑い、或いは心を揺さぶられるような思いになるみ言葉なのではないでしょうか。
この箇所を理解するために、先ず、ここで「憎む」と訳されている言葉について理解しておきましょう。
日本語の「憎む」は「いやな相手として嫌う」、「腹立たしく思う」という意味で、感情的な意味合いが強いと言えますが、この箇所で「憎む」と訳される元の言葉はギリシャ語でμισεω(ミセオー)という言葉で、日本語の「憎む」という言葉の意味内容とは随分その範囲に違いがあります。μισεω(ミセオー)というギリシャ語やこのギリシャ語に対応するヘブライ語でのsana(サーナー)という語の意味には、感情的に嫌う」という意味より「なおざりにする(気にかけずそのままにする)」、「軽視する」という意味に重心があります。
例えば、好きな食べ物(うどんと蕎麦)があって、うどんより蕎麦の方が好きだという時に、その両者の比較において「私は蕎麦が好きでうどんは嫌いです」と言う表現になるのです。今日の福音書の「μισεω(ミセオー)憎む」という言葉についても、主イエスは両親をはじめとする家族を否定的な感情を込めて「憎め」と言っておられるのではなく、主イエスに従おうとする者に、その大前提として、主イエスに従うことを最優先する覚悟があるかを問うておられるということを理解しておきましょう。
主イエスは、今日の聖書日課福音書の中で、いつどのような場合にも神の御心を求めることを第1とすることを教えておられ、弟子として主イエスに従おうとするのなら、そのことを最優先して、その他のことはそれによって位置づけられ正しい意味を与えられるようにすることを教えておられるのです。
十戒の第5は「あなたの父と母を敬いなさい」です。主イエスはこの戒めを否定しているわけではなく、自分の肉親家族を絶対化することを避け、先ず神の御心を求めることを最優先する中に自分の家族を愛することも位置づけられるのです。
今、主イエスの後を追う多くの人々には、それぞれにイエスに付いていこうとする動機や下心がありました。それらは決してすべてが不純な思いからであったり自分中心的なものであったわけではなかったでしょう。
でも、主イエスの後から付いてくる人々の多くの思いは、自分の個人的な願いが満たされることが第一であり、自分を通して主なる神の御心が行われることを最も大切にしているわけではないことが主イエスにはお見通しであったのではないでしょうか。
主イエスは、「もし誰でも主なる神の御心を一番大切なものとしないのなら、誰も本当に私の弟子ではあり得ない」という意味で冒頭に取り上げた言葉を用いておられるのです。
ここで主イエスさまが言っておられることを言い替えてみると次のようになるでしょう。
「私のもとに来ても、神の愛を根底に置く者でないのであれば、私の本当の弟子ではあり得ない。」
このように理解すると、私たちはそれに続く27節で「自分の十字架を負って、私に付いてくる者でなければ、私の弟子ではあり得ない。」という主イエスの言葉をより身近に理解できるのではないでしょうか。
なぜなら、神の御心を生きることは、自分が神から与えられた自分の使命を生きることは、分けることの出来ない一つのことであり、私たちは誰もが自分の十字架の重さを感じないわけにはいきません。でも、十字架が重いからと言ってそれを担うことを止めてしまっては主イエスの弟子ではあり得ないのです。
私たちが主イエスに従って生きるとき、主イエスに無理解なこの世との間にある矛盾や理想と現実の違いを見ざるを得なくなります。でも、その痛みを投げ出さずに、「御国が来ますように、御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」と祈りつつ、主なる神の御心の実現のために生きることが「自分の十字架を背負う」と言うことであり、私たちはどこまでも主イエスの導きに従って生きていくことを求められているのです。
私たちは、家族や親族の中に於いても、そこでの人間関係の故に御心を脇に置いて済ませるのではなく、その場に神の御心が行われるように主イエスの弟子として遣わされているのです。
主イエスは、当時のユダヤ社会の中で、その矛盾と葛藤の中に生きて、そこに神の御心が現れ出るように生き抜き、最後にはゴルゴタの丘で十字架につけられました。
私たちはこの主イエスを救い主として愛し、ここから家族のことも、家のことも考えて、具体的な課題を担うのです。
これは、観念的なことや抽象的なことではなく、私たちの生活の中で極めて具体的なことなのではないでしょうか。例えば、独裁的な権力者の治める国を見てみれば分かるように、主イエスが示してくださった働きを自分も弟子の一人となってこの世界に示していくことは、必ずしもいつもこの世に受け入れらて、その計画がうまく進むとは限らないのです。ことに弱い人や貧しい人々を締め付けてその上にあぐらをかく権力者にとって、かつて預言者たちが語ったことや主イエスの示した愛や自由や平等は邪魔であり、それゆえにキリスト教会は2000年の歴史の中で迫害を受けることも度々でした。
私たちの日常生活に於いても、それと同じことが、その規模は違うにしても、数限りなく起こっています。そして、こうした課題は、社会の小さな単位である家族の中にも親しい仲間との人間関係の中にも存在し、私たちはそのような場面で、主イエスの弟子として、先ず主イエスに従うことを基盤に据えて働くことを求められています。
主イエスは、「先ず神の国と神の義を求めなさい」と教えてくださいました。私たちがそのように生きる時、親、兄弟、親族のことから自分の命のことまでが主イエスによって位置づけられ、大きな救いの中に意味づけられてくるでしょう。
今日の聖書日課福音書で注目しておきたいのは、主イエスは先頭に立ってエルサレムの十字架に向かって歩んでおられること、そしてその主イエスの後から付いてくる人たちのことを振り返って、主イエスはこの教えを述べておられるということです。ルカによる福音書では先頭を行く主イエスが振り返ってお話しになるのは、いつも大切なことを告げる時のことでした。
振り返った主イエスの眼差しを受けた人たちは、自分が赦され愛され導かれている事を確認し、自分の十字架を負う人へと導かれていきました。私たちもまた自分の十字架を負って歩もうとしており、私たちに先立って歩んでくださる主イエスが私たちを振り返り導いてくださることを覚えたいのです。
主イエスを自分の中心に据えて生きる人は、この世界のそこここに、御心から離れた実態が見えてきます。そのような中で生きる私たちは、ただ一人孤独のうちに自分の十字架を担うのではなく、主イエスが共にその十字架を背負っ歩んでくださることに気付きます。
私たちは主イエスが十字架の死の先にまで生きてくださり、そこに開いてくださった永遠の命へと私たちを導いてくださる確かさ与えられています。私たちは、いつも自分の中心に主イエスがいてくださることを信じて、導かれる信仰を確かにしていくことが出来ますように。