2022年08月28日

末座に着く ルカによる福音書14:7-14 聖霊降臨後第12主日(特定17)    

末座に着く     ルカによる福音書14:7-14        聖霊降臨後第12主日(特定17)    2022.08.27


 主イエスは沢山の譬え話をなさっていますが、その多くは神の国に関するものです。今日の福音書日課の中でも、主イエスは譬えによって神さまの支配する国はどのよう姿であるのかを説いておれるます。
 今日の福音書日課の個所で、主イエスが話をしているのは、「ある安息日」のことであり、場所は「あるファリサイ派の議員の家」です。
 主イエスは既に公にファリサイ派や律法の専門家を厳しい言葉で非難しておられますし、ファリサイ派はこの町に来られた主イエスに「ここを立ち去ってください」と言っています。この場面で、主イエスはこの「ファリサイ派の議員の家」に親しい交わりに招かれたのではなく、ユダヤ議会の議員であるこの人が、主イエスを取り調べて批判し、主イエスと弟子たちの一行がエルサレムに上っていくことを止めさせる意図があったと思われます。
 主イエスは、そのような人びとに向かって、婚礼の祝宴に招待された時に自分は上座に着くのに相応しいと自惚れる者は恥をかいて末座に着くことになり、末座に座る人は上席に座るようにすすめられて面目をほどこすことになる、と言っておられます。
 ここで主イエスが教えておられるのは、この世の処世術や社交上のエチケットではありませんし、謙遜の勧めでもありません。そうではなく、私たちはこの御言葉によって主イエスから「あなたは自分をどこに座る者だと思っているのか」と厳しく問いかけられているのであり、また主イエスご自身がそうなさったように私たちも主イエスに伴われて末座に生きるよう、つまり神と人々に仕えて生きるように勧められているのです。
 先ほども触れたように、ルカ14章1節を見てみると、「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになった」と記されています。主イエスの周りには、幾人かの律法の専門家やファリサイ派の人々がイエスを取り囲むようにしていたことでしょう。
 今日の聖書日課福音書の例え話で主イエスが例えておられるとおり、ファリサイ派の人々は自分たちこそ神の喜びの宴に招かれるのに相応しい者、宴席では自分たちが上座に着くのに相応しいと考えていました。
 その一方で、この世の中には、ファイリサイ派のように律法をしっかりと守りながら生活することが出来ない人たちも大勢います。例えば、当時の病人は、「悪霊に取り憑かれた者」とみなされたり「罪の結果が身に表れている者」と考えらていました。ユダヤ教の指導者たちは、イスラエル民族の救いを説き、病の者や律法に反する者を批判し、異国人、そしてその異国人を相手にして外国の貨幣を扱う徴税人たちも救いの外にいる者として扱いました。
 このような人々は、ファリサイ派の人から汚れた者として軽蔑され、時には罵られ、抑圧されています。ファイリサイ派の人々は自分たちが彼らを傷付けている事についての自覚や痛みを覚えることもなく、「我々は彼らとは違って神の約束した救いに与るように選ばれている」と考えていました。そして神殿の中で「神よ、あのような者でないことを感謝します」と祈りました。
 主イエスはこうした人々のことを「上座に着く者」と表現なさったのです。
 主イエスには、ユダヤ教の指導者たちが教える神の国は主なる神の御心とは全く違うものに思われたのでしょう。また、神による救いとは本当に当時の指導者たちが考えたようなものとは思えず、神の国はファリサイ派や律法学者が教えるようなことによって実現するのではないと思えたことでしょう。
 今日の主イエスの譬え話は、律法の専門家やファリサイ派にとってはとても厳しい問いかけになり、彼らを揺さぶります。主イエスの教えに拠れば、神の国で上席に着くのは律法の文言を字句通りに守る事で与えられるのではありませんし、救いは貧しく弱くされた人々を切り捨てて得られるのでもありません。そうではなく、自分も低く貧しくなりそこから見えてくる神の御心に導かれるように主イエスは教えておられるのです。
 このことは、旧約聖書の律法に対する態度のことだけに留まらず、私たちの信仰生活の在り方についても同じ事が言えるのではないでしょうか。
 もし私たちも、自分を信仰深い者として、その自分を自身を誇り、そうではない人を顧みずに切り捨てるのであれば、ファリサイ派と同じ過ちを繰り返すことになるでしょう。私たちも救いの宴の上席にいつの間にかあぐらをかく事のないように、今日の福音書日課の御言葉によって主イエスに導かれたいと思うのです。
 主イエスに生かされるということは、主イエスによって自分の心の底まで照らし出され、そのような隠し立ての無い本当の自分が全て主イエスによって赦され受け入れられ肯定されていると信じて生きることです。私たちにとって大切なことは、聖書の言葉を形だけ取り入れることではありません。私たちが主イエスに導かれて、身を低くして神と人々に仕える者となって、そこから見えてくる貧しさや小ささの中にある苦しみや痛みをも背負うことが必要になってきます。そして、完璧にはそのようにできない私たちのことをも主イエスはなお赦し、愛し抜いてくださり共に生きてくださいます。私たちがその主イエスを受け入れることができる時、私たちは主の食卓に招かれていることを喜びとし、その宴の末座におかれている事を感謝できるのです。
 主イエスは他の個所でこう言っておられます。
 「人の子が来たのも仕えられるためではなく仕えるためであり、また、多くの人の贖いとして自分の命を与えるためである。」
 主イエスは、ご自身を十字架の上に曝してまでこの世界と私たちを愛して仕えることに徹して下さいました。そこに示された完全な愛に照らされることを通して、私たちは信仰者としての自分をもう一度立たせられ、仕える働きをする者の末席に加えられるのです。
 パウロは、フィリピ書2章6-7節で、主イエスの謙遜について、次のように記しています。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」
 更にパウロは、キリストはへりくだって死に至るまで神の御心に従順であり、神はこのキリスト・イエスを高く挙げられた、と続けています。
 このパウロの視点から、今日の聖書日課福音書をあらためて見直してみると、宴席の一番末座に着いて一番の上席にまで引き上げられたのが主イエスご自身である事がはっきりしてきます。私たちは本来なら、主イエスによって催されるこの感謝の祝宴の末座にも与ることさえ出来なかった者です。そのような私たちのことも、主イエスは招いてくださいました。たとえ私たちには特別な業績がなくても、胸の内には多くの失敗やその後悔を抱えていたとしても、主イエスの十字架を「我が罪のため」と認める人を神は誰でも喜びの宴にお招きくださり、その主宰者である主イエスが私たちに仕えてくださいます。この宴には社会からはじき出された徴税人や罪人も、重い病気の人たちも招かれています。しかも、本来招かれるはずなどなかった者でもお招き下さった方の愛を信じて受け入れる人は上座へと招かれるのです。
 主イエスは、十字架の死によって黄泉に降った力をもって私たちの所へ降りてきて下さり、甦りの力をもって私たちを御国の宴へと引き上げて下さいます。
 主イエスが主宰してくださるこの聖餐式は、天の国の宴を先取りして表すものであり、私たちはその愛の宴への招きをいただきました。他ならぬ自分にも及んでいる神の愛の深さによって私たちはその宴の席に受け容れられていることを喜び合い、神と人々の交わりの中に生かされています。私たちは、主イエスを通して招かれ、この宴の一員となる喜びを確かに致しましょう。
posted by 聖ルカ住人 at 16:42| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください