2022年08月22日

狭い戸口   ルカによる福音書13:22-30   聖霊降臨後第11主日(特定16)

狭い戸口より ルカによる福音書13:22-30   聖霊降臨後第11主日(特定16)  2022.08.21                    

 はじめに、今日の聖書日課の福音書から、ルカによる福音書13章24節の御言葉をもう一度読んでみましょう。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」
 ここで主イエスさまが言っておられる「狭い戸口」ということについて考えてみましょう。聖書新共同訳で「狭い戸口」と訳されている言葉は、他の訳によれば「狭い門」という言葉も用いられています。この言葉は、今の日本では、主イエスさまが用いた意味で用いられることは殆ど無く、例えば入試シーズンに「某大学は、志願者が募集定員の10倍を超える狭き門となっています。」などと言う用い方がされています。この用い方での「狭い門」という言葉の意味は、希望者は沢山いるけれどもその念願が叶う人は少ないということです。でも主イエスさまが「狭い門(狭い戸口)」と言っておられるのはそのような意味ではありません。
 聖書の中にある他の個所にも「門(戸口)」という言葉が出てきますが、主イエスさまがご自身を「わたしは門である」と言っておられる個所を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。ヨハネによる福音書10章9節で主イエスさまはこう言っておられます。
 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」
 今日の福音書の中で「戸口」と訳されている言葉やヨハネによる福音書の中で主イエスが「わたしは門である」と言っておられる「門」という言葉は、どちらも同じ”θμρα”という言葉が用いられています。主イエスが「狭い戸口より入るように努めなさい」と言っておられたり「わたしは門である(羊の門である)」と言っておられることを考え合わせてみると、この言葉は、多くの日本人が用いている「狭き門」とは、全く違う意味であることことが分かってくるのです。
 主イエスがこの箇所で言っておられる「門」は、多くの人にとっては見つけにくくまたそこに救いがあるとは分かり難い門のようです。もしその門の先に誰にでも分かるように実際的な利益が約束されているなら、人々は先を争ってその門から入ろうとして、その結果、その実際的な利益を得られる確率は低くなるでしょう。でも、主イエスの言っておられる「狭い戸口」とはそのような意味のことではありません。
 今日の福音書の個所の前後関係をみてみると、主イエスのこの言葉は、ある人が「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねたことに答えている中での御言葉です。このように「救われる人は少ないのか」と問う人は、この言葉がどのような背景から出てくるのでしょう。きっと主イエスが十字架の上に御自分の命を投げ出すほどにして示してくださった救いを自分に与えられた恵みとして受け入れる人が如何に少ないのかを感じている人であろうと想像できます。
 でも、主イエスの御言葉と御業を受け入れる人が沢山いるからそれが真理なのではないし、また逆に主イエスが世の人々に受け入れられなかったとしたらそこに真理はないのかと言えばそれも違います。私たちも、自分の信仰を持つようになったのは、主イエスの御言葉と行いが他ならぬ自分にとってそれが救いであり導きであると信じたからではないでしょうか。他の大勢の人が信じているからそこに真理があるのではなく、多くの人が見過ごたり見向きもしないことさえある主イエスの中にこそ救いに至る道があると、今日の福音書は伝えているのです。
 キリスト教が歴史を越えて真理を示し続けてきたのは、主イエスの教えや行いがはじめから多くの人に受け入れらて支持されて来たからではありませんでした。主イエスご自身がユダヤ教の指導者たちに迫害されて十字架刑に処せられたとおり、キリスト教の歴史はその母体であったユダヤ教によって迫害され弾圧されることから始まりました。そこに救いに至る門があると気づき、信じた人はごく僅かでした。
 その当時、人びとはローマ皇帝を神として礼拝の対象としていました。その中で、主イエスを救い主とする人びとは、ギリシャ・ローマ世界を中心に約三百年にわたってイエスを救い主であると告白する人を迫害し、「体制に順応することを拒む者」という烙印を押されたのでした。それでも少しずつ受け入れられ、キリスト者はその数を増し、支持されるようになっていったのです。その当時の信仰者が主イエスの「狭い戸口から入るように努めなさい」という御言葉をどのような思いで受け止めていたのか思い巡らせてみましょう。
 やがてキリスト教は、紀元313年にローマ皇帝によって容認され、紀元393年にはローマの国教となりました。それは、ローマ皇帝の支配下にある者は自分の信仰をしっかりと吟味すること無しにキリスト者であるようにされていったのです。それは当時のキリスト教がある意味での勝利を得たことではありましたが、私たちは当時の信仰者がどのような思いで「狭い戸口から入るように努めなさい」という御言葉を受け止めていたのかについても思い巡らせてみる必要があるでしょう。私たちは迫害下のキリスト教と国教となったキリスト教の対比によって、厳しく辛い状況の中で人びとに救いを与える門である主イエスのお姿をはっきりと理解することが出来るようになるのではないでしょうか。
 今日の福音書は、主イエスがエルサレムに向かって進んでおられる文脈に位置付けられています。エルサレムはイスラエルの民の一番の中心地です。このエルサレムの神殿には当時の政治的・宗教的な権力者、指導者がいました。また彼らの傘下には大勢の学者も祭司たちもいました。彼らは「自分こそ救われている」「自分たちこそ神に選ばれた者」として自分を誇っていました。そして、「あなたは清められている」「あなたは罪を償うための供え物を献げなさい」と、あたかも神の代理者のように人々を支配していました。このような人々は、神の名を持ち出しては自分を救われる者の側に置いて、弱い立場の人や貧しい人々を裁き、弱く貧しい人々の悲しみや痛みなどには、指一本貸そうとしませんでした。ユダヤ教指導者たちのこのような態度にも明らかなように、人は、先ず自分が助かる事や自分が誰よりも幸福になることや自分が真っ先に癒されることを考えます。そして自分のことしか考えられない結果、他の人を出し抜いたり、だましたり、操作したりすることが始まるのです。そのような世界は、たとえどれほど聖書の言葉が使われ神の掟が守られているようであったとしても、神に愛され生かされている喜びがありません。そして主イエスによって示されている狭い戸口を閉ざしてしまうのです。
 主イエスはご自身を神の国への戸口としてお示しになり、この狭い戸口から入るように「努めなさい」と言われます。ここで用いられている「努める」という言葉は、スポーツ選手が勝利を得るために自分自身を鍛える努力を意味する言葉です。そうであれば、狭い戸口から入るための努力は、主イエスを深く知り主イエスに従っていくために自分自身を主イエスに方向付ける努力だと言うことになります。そして他の人を押し退けたり蹴落としたりした結果の勝者がこの狭い戸口を通れるのではなく、信仰による祈りと賛美のうちにこの戸口を通る事へと導かれることが分かるのです。
 聖書を通して主イエスの御心を学び、主イエスの心に触れ、祈りと賛美を通して私たちも御国へと導かれる恵みを戴くことへと歩んでまいりましょう。
posted by 聖ルカ住人 at 05:21| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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