2022年08月15日

イエスの投じる火  ルカによる福音書12:49-56

イエスの投じる火  ルカによる福音書12:49-56  聖霊降臨後第10主日(特定15)  2022.8.14
 
 今、私たちは今日の聖書日課福音書から次のような御言葉を聴きました。
 ルカによる福音書第12章49節の言葉です。
 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」
 また12章51節には次のような言葉がありました。
 「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たの思うのか。そうではない。言っておくがむしろ分裂だ。」
 私たちは、聖書の中にこのようなことばがあるのを知ると、心が揺さぶられる思いになります。とりわけ日本人は、相手を配慮して自分の意見をはっきり言わないことが美徳とされ、そのことを前提にして平穏無事を保ってきた一面があります。そのような私たちが、今思い起こした御言葉に出会うと、ある種の抵抗を覚える人も多いのではないでしょうか。
 でも、もし私たちが維持しようとする平穏無事の奥に不平や不満があったり、苦しんでいる人がいるとすれば、その表面的な平穏無事は決して健康な状況であるとは言えないでしょう。
 主イエスの御言葉は表面的な平穏無事を保つ働きをするのではなく、むしろそこにある矛盾や問題をえぐり出すように働きかけてくるのではないでしょうか。その意味で、主イエスの御言葉は私たちに火を投げ込み、見せかけの平穏無事の奥にある分裂をえぐり出してその問題点をはっきりさせる働きをすることを、私たちは今日の福音書の御言葉から学びたいと思うのです。
 いつの時代にも正義と平和や人権について語ることやその実現に努める人のことを歓迎するのかと言えば、必ずしもそうではありません。この世界の歴史を振り返ってみれば分かるとおり、人種差別の撤廃や不平等の解消に努めた多くの人が権力者から命を奪われてきました。旧約聖書の多くの預言者たちや福音書に描かれた洗礼者ヨハネもそのような弾圧を受けた人であり、主イエスもその例外ではありませんでした。
 主イエスは当時のイスラエルの状況の中で、愛を説き、身をもって愛を示してお働きになりましたが、それを嫌ったユダヤ教指導者たちの弾圧を受け、エルサレムでリンチ同然に十字架刑によって殺されたのでした。ユダヤ教の指導者たちは、神殿での宗教的な権力を握っていただけではなく、政治的にも経済的にも自分たちの利益を守り保身を計っていました。その権力に逆らう者や反対する者は迫害され抑圧され、またその枠からはじき出された人びとは少しも顧みられずに、当時の世界から捨てられていったのです。聖書の中では、特に徴税人や罪人たち、重い皮膚病を患った人びと、遊女や羊飼いなどはユダヤ教指導者たちから嫌われ、指導者たちはそのような人びとをユダヤ教社会の一致と団結を乱す落ちこぼれ者として扱っていたのでした。
 主イエスはこのようなユダヤ社会の中で、神の愛を説き、またご自身も罪人の一人に数えられるほどになりながら、貧しくされた人々の人間性の回復に努めました。その教えと行いは、まさに当時の社会に「火を投げ込む」働きであり、当時の人々の間に「分裂をもたらす」ことになったのです。
 主イエスは、神の救いは貧しく弱い人にこそ用意されており、今飢え乾き泣いている人びとこそ神の救いを受けるべき幸いな人であると教えました。そのように説き、貧しく弱くされた人びとに関わる主イエスの愛は、愛無き人びとにとっては火を投じられることになり、本物の愛と贋物の愛を選り分ける鋭い剣になります。主イエスのお働きが小さな人びとに受け入れられ彼らが本当の自分を取り戻して生きるようになればなるほど、主イエスの言葉と行いは権力者たちにとって厳しく挑戦的になります。そして主イエスはその動きを押さえ込もうとする権力者によって迫害されることになっていきました。不正がはびこる世界では、神の正しさを示そうとすればするほど、不正な者は自分に迫ってくる正義を潰そうとするのです。
 ですから、私たちは表面上の平穏無事がどんな力によってもたらされているのか、そしてその場にいる人びとがどんな感情やムードに支配されているのかについて、賢く見極めていかなくてはなりません。そして主イエスの火を投じていただき、見かけ倒しの平和や繁栄を見直し、私たちは本当の神の御心と結びついた世界に生きることが出来るように生まれ変わっていかなくてはなりません。
 私たちは、主イエスによって導かれて生きています。私たちは日々の生活の中で、主イエスの御言葉を聴き、主イエスの御体と血による養いを受けるのです。そのような私たちは、今日の御言葉をどのように迎えるのでしょうか。その場その場を波風立てないように、あるいは聞かなかったことにして、やり過ごして生きるのでしょうか。他の人との意見やその表現の違いを明確にすることを避けて、信仰に基づいて生きる自分を押さえ込んで、いつの間にか信仰さえ風化させてしまうことが無いようにしなければなりません。
 主イエスの御言葉は愛に基づくものであり、その御言葉は時には私たちを慰め励まし力付けてくださいます。しかし同じ御言葉が私たちに火となって投げ込まれ、分裂をもたらす働きもすることも、私たちはよく知っておかなくてはなりません。
 主イエスが「火を投げ込む」「分裂をもたらす」と言っておられるのは、ただ破壊的なことをすることではありません。主イエスによってこの世界に火が投げ込まれたり分裂がもたらされるとすれば、この世界に本当の愛と平和に抵抗して自分にだけ利益をもたらし自分だけがよい思いをすれば良いという罪が未だに根強く存在するからなのではないでしょうか。
 私たちも、主イエスの御言葉に導かれ養われて、愛と平和の働きを担おうとすれば、私たちの働きが時には火を投じたり対立や分裂を明らかにするきっかけになったりすることもあるかもしれません。しかし、それを恐れてその場を凌ごうとするだけであれば、神の御国は遠のいてしまいます。神の愛は、この世界に御心を行おうとする私たちにも火となって働き、神の御心の実現のために私たちを力付け、私たちをこの世界に派遣してくださいます。
 私たちが、互いに理解し合い、意見の違いや対立の先にある解決方法を求めるなら、神は私たちの思いを越えた道を用意して下さるでしょう。
 主イエスが投げ込む火は、決して単なる破壊のための火ではありません。それは十字架の愛に根ざした火であり、不義や罪を照らし出してそれを燃やし尽くして働きます。その火がこの世の付和雷同の一体感を焼いて、主の愛にもとづく深い一致と調和へと導かれるのです。
 私たちが主イエスのお働きを担おうとすれば、それに伴う苦難を負うことも増え、場合によっては迫害を受けることさえあるかもしれません。主なる神の御心を行う器となって真剣に生きることは、かえって辛く苦しい思いを自分に呼び込むことにもなるでしょう。
 しかし、今日の使徒書ヘブライ人への手紙によれば、そのような働きは主のなさる鍛錬なのです。「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆鞭打たれる」と記しています。もし私たちが神の本当の子であれば、本当の父である神は私たちを鍛錬し、この世に御心を示す働き手として育ててくださいます。
 ヘブライ人への手紙代12章10節にはこう記されています。「霊の父は、わたしたちの益となるように、御自分の神性にあずからせる目的で、わたしたちを鍛えられるのです。」
 主イエスは「火を投げ込む」と言われました。それも私たちにとっては「鍛錬」かもしれません。私たちは、その火によって罪や悪があぶりだされて、その先に本当の平和と愛へと導かれます。私たちはその中で主なる神に鍛えられる過程を主に導かれながら歩んでいます。
 特に8月の今の時期は、第二次世界大戦の終戦を覚え、平和への思いを新たにする時です。私たちは、主イエスから真理と愛の火を投げ込まれることについて、特別に大切な意味があることを覚えたいと思います。主イエスの投げ込んでくださる火によって私たちの罪が焼き尽くされ、一人ひとりの信仰がなお鍛錬され生かされることへと導かれて参りましょう。
posted by 聖ルカ住人 at 10:12| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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