2022年08月07日

目を覚ましている僕  ルカによる福音書12:32-40   聖霊降臨後第10主日(特定14)  2022.08.07

目を覚ましている僕 ルカによる福音書12:32-40   聖霊降臨後第10主日(特定14)  2022.08.07
 
 今日の聖書日課福音書の、特に後半では、目を覚ましていて用意をしている僕のことがテーマになっています。
 ルカによる福音書第12章37,38節には「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」という言葉があります。ここで用いられている「目を覚ましている」という言葉の原語(グレーゴレオー)は、「覚醒している」「油断せず注意を払う」という意味であり、主なる神の御心を、或いは主イエスのことをいつも意識していることを意味していると言えるでしょう。主イエスが、いつも私たちと共にいてくださり、御心に沿った生き方へと導いていてくださっていることを忘れず、自分に与えられている目の前の課題に、主なる神の願っておられる姿が現れ出るように、お応えしながら生きることを心がけていることが「目を覚ましている」ことです。
 わたしたち日本人は、しばしば「真理より場の倫理」に支配されていると指摘されています。それは、本当に正しいことに照らして絶えず真理に導かれて神の願う姿を表そうとするより、自分の置かれたその場その場に自分を合わせて、目先の場が波風が立たないように、丸く収める態度であり、この態度は時に善悪の判断を失い、その場その場のご都合主義を生み出し、人を無責任にします。そのような態度は、何が本当に大切なのかを曖昧にして真理に目を背け、いつの間にか大きな悪の力に縛られていることにも繋がることさえ自覚できなくなってしまう可能性もあるのです。
 例えば近代の日本に於いても、一億玉砕とか一億総懺悔などという言葉が用いられて、何が本質的な問題なのかを振り返らずに、「みんながそうなのだから形を揃えておけば安心」というような態度で事態をやり過ごそうとした歴史的経験があります。そして、気が付けばまた同じ轍を踏むような道を歩いているのに、その危機感も持たないようになり、それは裏を返せば、一億総無責任的な体質を造り上げてきているように思います。
 主イエスは、ヨハネによる福音書第8章32節で「真理はあなたたちを自由にする」と言われました。私たちは、今日の福音書を通して、主の御言葉に向かっていつも目を覚まし、本当の自由であることの大切さを学ぶことが求められています。ことに私たちの生きている時代は、主イエスが真理とは何かを十字架の死と復活によって示して下さった後の時代、つまり新約の時代です。主イエスは、天に昇って行かれる時に、もう一度この世に来ることを約束してくださいました。主イエスがもう一度この世に来て下さる時に、私たちは主イエスと共に天に用意されている食卓を囲むことが約束されているのです。
 私たちが主イエスをお迎えするときに、本来であれば私たちは主イエスに自分の主人として迎えてお仕えしなければならないはずです。しかし、37節にあるとおり、私たちの主人である主イエスは自ら帯を締めて給仕役となり、僕である私たちを席に着かせてもてなしてくださるというのです。
 主イエスは、私たち小さな群れに、恐れることなく、油断せず生きるように教えておられます。私たちは、目を覚まして、神の御心を求め、神の御心を自分の中心に据えて生きることを絶えず思い起こしていたいと思います。
 主イエスがこの世の生涯をお過ごしになった頃、イスラエルは救い主(メシア)の訪れを待ち望んでいました。
 指導者たちは、律法の言葉通りに生きることでメシアに受け容れられると考えていました。あたかも救いは自分の手の内にあるかのように振る舞い、律法を守ることの出来ない人々を蔑み、その人々は救いに与ることの出来ない「地の民」であるとレッテルを貼りました。そして、指導者層の人々は目を覚まして熱心に祈り求めることを怠り、やがて形式的に律法の文言を守ることに拘るようになりました。その人々の意識は権力を求めたり金銭を増やすことばかりを求めることへと移りはじめ、次第にそのために他人を利用し、支配して、そのやり方はやがて横暴を極めるほどになっていきます。やがてそのような世界に主イエスはそっと来られて、貧しく弱く小さな人びとと共に生きて、癒し、慰め、生きる力をお与えになる働きを始めたのでした。主イエスは、貧しい人や弱く小さくされた人びとの中におられ、権力者や裕福な人びとに小さな人々に仕えるように促します。しかし、権力者たちはそのイエスを嫌い、煩わしく思い、しかもそれが救い主(メシア)だとは気付かないまま、主イエスを神に逆らう者であるとして、処刑してしまうのです。
 四福音書には、人が神に対して目を覚ましていられなくなった時に、救い主イエスを十字架に追いやる罪の有様が表現されています。
 この話は決して他人事ではなく、私たち皆が真理に目を覚まし、我が事として受け止めなければならない問題です。私たちは、今日の聖書日課福音書から、毎日の生活が信仰に根ざして目を覚まし、神の御心に応えようとしているかどうかを問い返すための促しを受けているのです。
 特に今日の福音書の個所で私たちが注目したいのは、37節の内容です。
 37節で主イエスは、「主人か帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めてこの僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」と言っておられます。
 先ほども触れましたが、目を覚ましている人たちに迎え入れられた主人はどうするのかに着目してみましょう。主人であれば、自分が戻ってくれば、僕たちに足を洗わせたり食事の支度をさせたり、また給仕をさせて当然なのです。ところが、この主人は自ら帯を締めて、つまり働くために裾をたくし上げて帯で結び、僕であるはずも者たちを食事の席に着かせて、主人が僕となって給仕をして下さるという逆転が起こることが語られています。
 戻ってきた主イエスは、主イエスをいつでも迎え入れる思いを持っている者たちを、ご自身の方から喜びの宴に座らせて天の恵みに与らせてくださるのです。そしてその時は、思いがけずやって来ます。
 教会はその時を待ち望みながら、「御国が来ますように、御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」と祈り求めています。
 私たちは「主よ、おいでください」といつでも主イエスを迎え入れる生き方に努めるとき、主イエスご自身が私たちを生かし養う僕となってくださり、教会は、私たちの僕となってくださった主イエスの養いによって御心を生きるように成長していきます。私たちは、主イエスをいつでも私たちの主人を迎え入れることが出来るように目を覚まして用意をしてくのです。
 私たちは、このように主イエスを迎え入れて、天にある喜びの食事を共にする約束を与えられています。その喜びの食事を先取りして、私たちの目に見える形の礼拝式にして現されたのが聖餐式です。
 私たちの聖餐式は「主イエス・キリストよ、おいでください」と主を迎え入れる用意をして目を覚ましている者が、主を呼び求める祈りの言葉から始まり、聖書の御言葉をいただき、主の御体をいただいて、主による養いを受けるのです。
 私たちは信仰の目を覚まし、祈りをとおして主なる神と心を一つにされて、主イエスが私たちのところにおいでになることを希望として、御心に適う信仰の生活を進めて参りましょう。
posted by 聖ルカ住人 at 22:15| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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