2022年07月31日

貪欲への警告 ルカによる福音書12:13-21  聖霊降臨後第10主日(特定13) 2022.07.31

貪欲への警告        ルカによる福音書12:13-21      聖霊降臨後第10主日(特定13)  2022.07.31
  
 今日の聖書日課福音書で、主イエスは、神の前に富む者になるように、特に富に執着することの愚かさについて教えておられます。
 主イエスは例え話を用いておられますが、この譬えをお話しになるきっかけになったのは、ある人が主イエスのところに願い事をしに来たことでした。その願い事とは、ある人が自分も財産を相続できるように兄弟との間を調停して欲しいと言うことでした。この時に主イエスは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」と教えておられます。
 もし、実際に律法の専門家がこの相談を受けたとしたら、その人は当時の律法に基づいて得意になって財産相続の調停をしたことでしょう。実際に当時その遺産争いの調停は、ラビ(律法の教師)が、旧約の律法やそれに基づく口伝律法(トーラー)を元にして行っていました。
 例えば、旧約聖書の民数記第27章8節以下に、土地の相続の仕方が指示されています。そこには、ある人が死に相続する息子がいない場合は娘に、娘がいない場合は、父の兄弟に、父の兄弟がいない場合はその氏族の中で一番近い親族に相続するようにと記されています。また、申命記第21章17節によると、長子はその他の兄弟の2倍を受けて残りを均等にして相続するようにしていました。律法の専門家はその様な規定に基づいて、自分があたかも神の御心を実現する者であるかのように、調停していたのです。
 今日の福音書の中で、ある人が主イエスに「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」と言っていますが、この人は、おそらく兄から自分が正統に受けることになっているはずの遺産の相続分を分けてもらえず、主イエスのところにやって来てその調停を頼んだのでしょう。この人は、律法学者を凌ぐ評判を得ているイエスに頼めば、きっと期待する以上の調停をしてもらえると考えたのでしょう。
 でも、主イエスは律法の教師のようにはお答えにならず、先ず、富そのものに対してどうあるべきかを教えておられます。
 主イエスはご自分が裁判官や調停人(つまり律法の教師ラビ)ではないことを前置きして、貪欲に対してよく注意するように教えておられます。
 先ず、「貪欲」という言葉に注目してみましょう。この言葉は、原語のギリシャ語ではプレオネクシア(πλεονεξια)という言葉であり、「より多くを持つ」「増し加える」という意味を語源としています。そして、この言葉は、福音書でもパウロの手紙などの中でも典型的な「罪」の一つに挙げられています。つまり、貪欲とは「持てば持つほどなお多くを持ちたくなる欲望」であり、不正をしてまで自分の欲望を満たす事へとつながり易いのです。主イエスは、金銭や不動産への貪欲がいつの間にか人の心を神から引き離し、金銭や物欲に囚われた人は横暴になり傲慢になり、その人は神の心から離れてしまうことを見抜いておられました。そこで、主イエスは、自分も遺産を分けてもらいたいと言う人に向かって、ただ律法に基づく手続きを教えるのではなく、所有する財産がどんなに増えても、それだけでは命の豊かさを生み出すことはないし、かえって貪欲は心を頑なにして罪を増し加える危険があることを指摘なさったのです。
 主イエスはそのような脈絡の中で次の例え話をなさいました。
 ある金持ちの畑には麦が豊かに実りました。大豊作です。金持ちは「どうしようか、こんなに多くの作物をしまっておく場所がない」と考え、今までの倉庫を壊してもっと大きな倉庫を建てることにしました。その倉が完成したら、穀物もその他の財産も皆しまい込むことにしたのです。そして彼はこう言います。
 「さあ、もうこれから先何年も生きていく十分な蓄えが出来た。食べたり飲んだりして楽しむのだ。」
 でも、神はこう言います。「愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられるのだ。お前が用意したものは、いったい誰のものなのか。」
 主イエスはこの例え話に付け加えて言いました。
 「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ。」
 「神の前の豊かさ」という点から振り返ってみると、日本に生活する私たちにも、この主イエスの例え話は厳しく、私たちを揺さぶる例え話です。
 主イエスは、私たちが個人的に財産を持つことを禁止しているわけではありませんし、自分で働いて収入を得る喜びを否定しているわけでもありません。この例え話でも、収穫の上がった穀物を目の前にして喜ぶのはごく当たり前のことでしょうし、その収穫物をどうすべきか考えることもごく当然の大切なことでしょう。
 でも、この例え話で、金持ちは神から「愚かな者よ」と言われています。この金持ちの愚かさとは何でしょう。この「愚かな」は、アフローン(αφρων) と言い、「理性を欠いた」つまり「神を忘れた」者を意味しています。主イエスは、この例え話の金持ちが、全てのことに於いて、自分のことしか考えられない人としてこの例えているのです。
 この金持ちは、自分の収穫を喜び、自分の倉を建てて財産を蓄え、自分がゆっくり休んで、自分が食べて飲んで楽しむことを考えます。これらのこと一つひとつは、その事柄そのものが悪いこととは限りません。でも、その富を自分のために保つことしか考えないのなら、人はいつの間にか「貪欲」に、「御心を離れた者」となってしまうでしょう。
 このことは、主なる神がモーセを通して与えた「十戒」の中にも示されています。
 十戒全体を見渡してみると、第4の戒めである「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」の前は、「主なる神以外の何ものをも神とするな」、「偶像を造るな」、「主の名をみだりに唱えるな」という神と私たち人間の関係における戒めです。そして第4の戒めが校舎へとつなぐ役目を果たして、第5の戒め「あなたの父と母を敬え」以降は、隣人との関係に於いて、「殺すな」、「姦淫するな」、「盗むな」、「偽証するな」と続き、第10の戒めが、今日の主日の主題でもある「貪るな」です。この第10戒「あなたは貪ってはならない」は、隣人との関係に於いて他人の物を欲深く自分のものにしようとする行為を禁止する以上に、貪ることで欲望がもっと大きな欲望を生み出し、いつの間にか神の御心を忘れ、悪魔の術中にはまっていくことがないように教え導く戒めであると言えます。そして、それとリンクするように第1の戒めへと戻るのです。
 今日の聖書日課福音書の例え話をに出てくる人は、富むことによって自分の富以外のことに心を向けることができなくなり、富のことで魂が埋め尽くされ、神の御心をすっかり忘れてしまいます。
 主イエスは、当時のユダヤ教の指導者たちが律法の言葉に拘りながらも、神と豊かに心を通わせることを忘れて律法に魂を窒息させてしまっている姿を厳しく批判しました。私たちの存在は神の御手の内にありますが、神に生かされていることを忘れて自分だけの富を追い求めることに心を奪われて魂を痩せ細らせていないかどうか、自分の生き方を振り返ることを求められています。
 私たちの一生涯は、神の永遠の働きの中のほんの一瞬であり、神の大きな働きの中に位置づけられ意味づけられることがなければ、私たちがどれほどの冨を蓄えようとも、それは虚しいと教えられています。
 私たちも主なる神の導きに生かされることを忘れるならば、財産の有無や権力を測りにして自分と他人を判断するようになり下がっていくでしょう。そして、小さく取るに足りない私をさえ愛して救い出してくださった神の愛を感謝する感性も失ってしまうでしょう。
 今日の福音書のすぐ後の個所で、主イエスはルカによる福音書第12章31節以下に「ただ神の国を求めなさい。そうすればこれらのものは加えて与えられる。」と言い、「尽きることのない富を天に積みなさい。」と言っておられます。私たちの富のある所に命があるのだとしたら、私たちの命はどこにあるのでしょうか。
 今日の聖書日課を通して神の御前に豊かにされることついて改めて深く思い巡らし、神の愛の中に生かされる豊かさをいつも確信する者でありたいと思います。
posted by 聖ルカ住人 at 16:20| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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