2022年07月25日

祈り求める  聖霊降臨後第9主日(特定12)   ルカによる福音書11:1-13  2022.7.24

祈り求める  聖霊降臨後第9主日(特定12)    ルカによる福音書11:1-13 

 今日の聖書日課福音書、ルカによる福音書11章9節の言葉をもう一度思い起こしてみましょう。
 「そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。」
今日の聖書日課福音書では、主イエスが弟子たちに祈ることをお教えになり、しかも、天の父なる神に向かってしつこいほどに祈り求めるように教えておられます。私たちもこの教えに導かれて、天の主なる神に向かって熱心に祈り求めるようになりたいと思います。
 その糸口として、先ず、今日の旧約聖書日課(創世記18:20~33)を見てみましょう。
 アブラハムの甥であるロトの住むソドムは退廃した街でした。創世記第13章10節を見てみると、ソドムとゴモラの町が滅びる前には、ヨルダン川流域の低地に当たるその一帯は、「主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた」と記されています。この一帯は農作物の収穫に恵まれ、その豊かさによってその地域は繁栄していたことでしょう。しかし、現代の世界にも多く見られるように、ソドムとゴモラはその豊かさの中で次第に罪深い町に成り下がっていきました。おそらく農産物の豊かさに恵まれて経済的にも豊かになったソドムとゴモラの町では、人々は次第に贅沢になり、その贅沢に酔いしれているうちにその土地の人々は節制や倹約を忘れてゆきます。やがて人々は神を忘れて酒に溺れ、風紀が乱れ、怠惰になり、町には暴力が横行し、ソドムとゴモラは堕落していったものと思われます。
 ソドムとゴモラがそのような状態になっていた頃、3人の主の遣いがアブラハムの家を通りかかりました。アブラハムは主の使いであるその人たちを自分の家に迎え入れてもてなしました。そして彼らを見送ってアブラハムと主の使いたちがソドムを見下ろす場所まで来たとき、アブラハムは主の使いから、恐ろしい御告げを受けたのでした。
 その言葉によると、「私たちは、ソドムとゴモラの罪は非常に重いという叫びを聞くが、本当にその通りかどうか確かめに行く。もし本当にその評判通りならそれらの町々を滅ぼそうと考えている」と言うのです。
 ソドムには、甥のロトの家族など、アブラハムの親類の者も暮らしています。アブラハムは、その町が滅ぼされないように、一所懸命に執り成しをします。「もしその町に50人の正しい人がいるとしてもその町を滅ぼすのですか。」「いや、もしかしたら正しい人は50人には足りないかもしれないが、45人の正しい人がいるのに滅ぼすのですか。」「もしかしたら30人しかいないかもしれません。それでも僅か30人の正しい人の故に、その町を滅ぼさないでください。」アブラハムは「正しい人は10人しかいないかも知れませんが、滅ぼさないでください」と懸命に執り成します。このように必死になって執り成すアブラハムに、主の使いは「正しい人が10人いれば、その10人のためにその町を滅ぼさない。」とまで約束してくれました。
 しかし、その町には正しい人は10人に満たなかったのでしょう。ソドムとゴモラは、主の御手によって、滅びてしまいます。
 私たちはこの物語から、神がアブラハムの熱心な執り成しの願いを受け容れ、その願いを叶えてくださろうとする姿を見ることが出来ます。
 今日の主日の聖書日課は、旧約聖書ではアブラハムがソドムとゴモラのために執り成しをする箇所によって熱心に執り成すことを取り上げ、福音書では主イエスが弟子たちに熱心に祈る者となるように教えています。
 主イエスは「あなたがたが願い求めることを、主なる神はお聞き下さるのだから、求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」と、しかもしつこいほどにそのように祈り求めなさいと、弟子たちに教えておられます。私たちが主なる神に願い祈り求めることに熱心であるなら、しかもしつこいほどであるなら、その熱心さの故に主は聞いてくださると言っておられます。
 私たちは、このような御言葉を受けて自分自身を振り返ってみるとき、本当に熱心に神に祈り求めているだろうかと、問い返さないわけにはいきません。また、熱心に、しつこいほどに祈りなさいと言われても、私たちは何をどう祈ったらよいのか分からないほどに、祈りを身に付いていない自分を認めなければならないのではないでしょうか。
 アブラハムの熱心な執り成しの祈りは、主の遣いが、初めは50人の正しい者がいれば町は滅ぼさないと言っていたのに、たとえ10人でも正しい者がいれば町を滅ぼさないと言うまでに御使いの心を動かしました。正しい人の熱心な祈りは、神に聞かれることを私たちはしっかりと心に留めておきましょう。
 私たちが天の父に向かって心から願い祈り求めるなら、私たちはその祈りの中で、自分が本当に正しいことを祈り求めているのかを神に問われ、そこに神との対話が始まるでしょう。神に向かってしつこいほどに祈り求めるなら、その祈り求めるものを得るために、私たちは自分では何をなすべきかを神から問われ、私たちの祈りは御心にかなう祈りへと近づいていきます。私たちが願い求めて祈る時、祈る自分の願いが深められ、一層神の御心に沿った祈りに近づいていくのです。その意味でも、私たちは祈ることに於いて怠惰であってはなりません。今日の福音書に促されて、求め、探し、門を叩き続ける者でありたいし、祈り続けて、私たちは御心に適う者とされるように導かれていきたいと思うのです。
 今日の福音書の中で、私たちはもう一つ覚えておきたいことがあります。それは、「祈り」とは自分の願い事を叶える呪文ではなく、神は私たちの願い求めるものを無節操に何でも与えて下さるわけではないと言うことです。
 例えば、もし自分の子どもから明らかに体に悪い食べ物を食べたいとせがまれたり、社会の秩序に反する事をやってみたいからお金を出して欲しいと求められても、子どもの言いなりになる親はいないでしょう。私たちの求めに応えてくださる神も同じなのです。
 私たちは、天の神に向かって何を求め願い探すべきなのか自分でもなかなか分からない者です。主イエスは、そのような私たちに「祈り」を教えてくださいました。それが「主の祈り」です。その祈りは「父よ」と、祈る対象である神を親しく「父」と呼びかけて始まり、その後「み名があがめられますように」という最初の祈願が続きます。その祈願の第一は、自分の願い事が叶うことではなく、主なる神のみ名が聖なるものとして誉め讃えられるように、と祈ります。そして、その後にいくつかの具体的な事柄が続きます。私たちの具体的な願いや思いも、主なる神の大きな御手の中でしっかりと神と繋がっていられますようにと祈ります。私たちが思い、考え、行うことが神を誉め讃えるための具体的な出来事になるように、私たち一人ひとりは生かされたいのです。
 私たちの祈りは、神の目から見れば、まだまだ未熟であったり的外れであったり、主イエスの名によって祈り求めるととして相応しくない祈りであったりするかも知れません。でも、たとえそうであっても、神に向かって願い祈ることの熱意に於いては、怠りのない者でありたいと思うのです。なぜなら、私たちが主なる神のみ名が聖とされる事を中心に据えて祈り始めると、神は私たちの祈りを全て主なる神のお働きの中に位置づけ、意味づけて、小さな私たちを主のお働きのために用いてくださるからです。
 ちょうど甥のロトが自分では知らないところで伯父アブラハムの懸命な執り成してを受けていたように、主イエスは天の父の右で私たちの祈りを受けてくださり、執り成してくださり、聖霊を与えてくださっています。聖霊は私たちの祈りを更に深く主なる神の御前に執り成してくださっています。私たちの祈りは、聖霊に支えられ導かれて、一層清められ、深められて、天の神の御許に届くのです。
 主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる」と教えてくださいました。
 この命令形は、文法的には「・・・していなさい」とか「・・・し続けていなさい」という継続的な意味であります。「求め続けていなさい。そうすれば与えられる。探し続けていなさい。そうすれば見つかる。叩き続けていなさい。そうすれば開かれる」ということです。
 私たちは、自分たちの祈りがたとえ拙い祈りであったとしても、神の御前に真剣に、熱心に、しつこいほどに祈ること、それも祈り続ける事へと導かれましょう。
 主イエスご自身も、大切な場面や場面が大きく変わろうとするときにいつも祈っておられます。
 私たちが主イエスに導かれて熱心に祈り続けると、やがてその自分を振り返ってみれば、祈りを通して確かに神に導かれていたことに気付き、主なる神への感謝と賛美を一層深くすることが出来るでしょう。
 今日の聖書日課から、熱心に祈る者へと導かれましょう。
posted by 聖ルカ住人 at 02:06| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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