黙想して教えられること 2021-10-01
毎朝夕の礼拝をするために聖堂に座ると、開始まで5分間ほどの、あるいは7分程度であったり、1分足らずであったり、空白の時間が生じることがある。その時間には、簡単な呼吸法による黙想することを心がけてきた。
その方法は、背筋を伸ばして脳天を真上に引き上げられるイメージで「良い姿勢」を取り、鼻から少し深めに腹に息を吸い込んでゆっくりと吐くことに集中するというごく簡単な方法だ。おそらく、これが黙想の基本ではないだろうか。
黙想が「今、ここ」の自分の呼吸に集中することを課題とし、他のことが気になったり脳裏に浮かんでもひたすら気持ちを呼吸に集中する。このことを日々行っている中で、自分で大きく変わったと言えることなど何もないが、小さなことへの気づきがある。その2,3を記してみよう。
先ず、礼拝が始まっても、司式をする自分の気持ちが先を急がなくなったと思う。例えば、詩編や賛歌を唱えている時に、気持ちがその次にすべきことに引っ張られて、栄光の頌(「栄光は、父と子と聖霊に。初めのように今も・・・」)を唱えているなど、次にすべき聖書朗読や祈りのために祈祷書から聖書へと手を移しかえていたり、次にすべきことのために祈祷書のページをそちらに開きにかかっていることが多かったが、栄光の頌を唱え終わるまで気持ちを込め、その先の準備にかからないように心がけるようになったと思う。自分一人で自由に祈っているときは未だしも、他の人と一緒に礼拝していると、私は余計な時間を取らないように、そして適切な「間」を取るようにと、かなり意識してきたと思う。その配慮は悪いことではないが、自分も礼拝の中で「今、ここ」に集中すべきだと思うようになった。礼拝に用いる詩編や聖書日課の箇所など、祈祷書に栞を挟むことなど予め普通に準備をしていれば、気持ちの上で先回りしなくでも、時間の上では殆ど違いはなく、一つひとつの祈りや賛美に集中でき、内容のある礼拝になるのではないだろうか。仮に、そのために時間がかかったとしても、ほんの数秒のことであり、一緒に礼拝している人もそれを「間延びした」とは感じないのではないだろうか。
第2に、このような意識と態度ができれば、その意識と態度は一層「いま、ここ」に向かうことになる。
目の前にことに集中する思いを高めることは、周りが見えずに近視眼的になることではなく、目の前の課題に落ち着いて丁寧に取り組むことにつながることを実感している。
引いては、主日の聖餐式でも、言ってみれば司祭として「そつのない整った司式」から「心のこもった内実のある司式」へと導かれていきたい。既に定年退職の身はあるが、礼拝の司式をする恵みを深くできることを感謝している。
その方法は、背筋を伸ばして脳天を真上に引き上げられるイメージで「良い姿勢」を取り、鼻から少し深めに腹に息を吸い込んでゆっくりと吐くことに集中するというごく簡単な方法だ。おそらく、これが黙想の基本ではないだろうか。
黙想が「今、ここ」の自分の呼吸に集中することを課題とし、他のことが気になったり脳裏に浮かんでもひたすら気持ちを呼吸に集中する。このことを日々行っている中で、自分で大きく変わったと言えることなど何もないが、小さなことへの気づきがある。その2,3を記してみよう。
先ず、礼拝が始まっても、司式をする自分の気持ちが先を急がなくなったと思う。例えば、詩編や賛歌を唱えている時に、気持ちがその次にすべきことに引っ張られて、栄光の頌(「栄光は、父と子と聖霊に。初めのように今も・・・」)を唱えているなど、次にすべき聖書朗読や祈りのために祈祷書から聖書へと手を移しかえていたり、次にすべきことのために祈祷書のページをそちらに開きにかかっていることが多かったが、栄光の頌を唱え終わるまで気持ちを込め、その先の準備にかからないように心がけるようになったと思う。自分一人で自由に祈っているときは未だしも、他の人と一緒に礼拝していると、私は余計な時間を取らないように、そして適切な「間」を取るようにと、かなり意識してきたと思う。その配慮は悪いことではないが、自分も礼拝の中で「今、ここ」に集中すべきだと思うようになった。礼拝に用いる詩編や聖書日課の箇所など、祈祷書に栞を挟むことなど予め普通に準備をしていれば、気持ちの上で先回りしなくでも、時間の上では殆ど違いはなく、一つひとつの祈りや賛美に集中でき、内容のある礼拝になるのではないだろうか。仮に、そのために時間がかかったとしても、ほんの数秒のことであり、一緒に礼拝している人もそれを「間延びした」とは感じないのではないだろうか。
第2に、このような意識と態度ができれば、その意識と態度は一層「いま、ここ」に向かうことになる。
目の前にことに集中する思いを高めることは、周りが見えずに近視眼的になることではなく、目の前の課題に落ち着いて丁寧に取り組むことにつながることを実感している。
引いては、主日の聖餐式でも、言ってみれば司祭として「そつのない整った司式」から「心のこもった内実のある司式」へと導かれていきたい。既に定年退職の身はあるが、礼拝の司式をする恵みを深くできることを感謝している。