主の名によって マルコによる福音書9:38-43 (B年特定21) 2021.09.26
今日の聖書日課福音書から、私たちが主イエスの御名によって生きることを思い巡らせたいと思います。
今日の聖書日課福音書の始めの部分第9章38節と39節には、イエスの名前を用いるということが話題になっており、「名」という単語が用いられています。また、第9章41節の「キリストの弟子だという理由で」と訳されている箇所にも、「名(原語ではονομα)」という言葉が隠れており、そこを直訳すれば「キリストの者だという名において」となります。
ある時、主イエスの弟子たちは、悪魔払いをする一人の祈祷師を知りました。その祈祷師はそれまで主イエスに直接お会いしたこともなかったのですが、イエスの名を使って人々の悪霊を追い払っていたのでした。
弟子のヨハネはその祈祷師にこう言いました。
「あなたは勝手にイエスの名を使っているが、あなたはイエスに会ったのか。イエスがどんなお方か本当に知っているのか。私たちはイエスの弟子で、これから先生に従ってエルサレムに上っていくことになる。あなたは私たちの先生に従う気はあるのか。そうでないのなら、勝手にイエスの名を使うのはやめなさい。」
ヨハネはこのことを少し得意げに主イエスさまに報告したのではないでしょうか。しかし、主イエスはヨハネにこう言っておられます。
「やめさせることはない。私の名を使って奇跡を行い、その直ぐ後で私の悪口を言えまい(9:39)」、そして、「あなたがたがキリストの名において(つまりあなたがたがキリストに属する者だからということであなたがたに)一杯の水を飲ませてくれる人がいたら、その人は必ずその報い(結果)を受ける」。
現代に生きる私たちは、「誰かの名によって悪霊を追い出す」ということをどう考えるでしょう。実は私たちも、日頃から誰かの「名を使って」自分の願う状況を創り出すことをしばしば行っているのです。
例えば、ある家庭で子どもがだだをこねていると、母親がその子に向かって「そんなにお母さんの言うことを聞かないのなら、お父さんにあなたのことを言いますよ」と「お父さん」の名を持ち出します。また、会社の会議の席で課長が「これは普段から部長もよく言っておられることだけど・・・」と「部長」の名を持ち出して部下の反対意見を牽制することなどもよくあることでしょう。
先の母親の例では母親は「父親」という名を用いて子どもに働く「駄々っ子の霊」を抑え込もうとしていると言えますし、会議の席の課長は「部長の名」を用いて他の社員の意見を支配しているということになります。実は部長は課長が言うほどにそのことを言っていないという場合もあるでしょう。
主イエスの時代の祈祷師は、例えば熱を出して寝込んでいる人を前にした時に、そこに取り憑いている霊より格上の霊の名を用いてその悪霊を追い出しました。今日の福音書の中に出てくる悪魔祓いの祈祷師は、「イエス」の名をイエスの許可も無く勝手に用いていたのでしょう。
主イエスはそのことについて弟子たちが思っていたほどには否定しなかったようです。
主イエスはヨハネにこう言われました。「私たちに逆らわない者は私たちの味方なのである」。
この言葉を直訳すれば、「私たちにagainstでない者(抗わないもの、敵対しない者)は、私たちにforである(私たちに向いている)」です。つまり、ここは主なる神に逆らいその働きを邪魔するのでないのなら、その人は主イエスのなさる神の国の働きを向いているとも解釈できます。弟子のヨハネたちは、主イエスに直接にお会いしていない者がその名前を用いることは許すべきではないと考えたのに対して、主イエスは逆らわない者(againstでない者)は主なる神の大きな流れの中にあるとお教えだったと思われます。
この箇所では、主イエスはご自分の名が勝手に用いられていることに寛容であるように読み取れますが、主イエスは、ご自身の「名」について決して疎かにしておられたわけではありません。
主イエスは、十戒の第3の戒め「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」をよく理解しておられたことでしょう。そして、イエスに「主よ」とその名を言う呼ぶだけでなく御心を行う人が天の国に入ることを教えています
主イエスご自身も、主イエスの名によって集い祈る所には主イエスが共にいてくださる(マタイ18:20)、また先主日の福音書でも主イエスの名によって幼児を受け容れる者は主イエスを受け容れることになる(マルコ37)ことなどを教えておられます。
信仰者にとって主の名を持ち出すことは自分の存在を主なる神に関わらせる大切なことなのです。私たちは何をするにも主イエスの名によって思い、考え、言葉を発し、行動しています。父と子と聖霊に御名によって洗礼を受けてキリストと結ばれた私たちは、キリストの名によってこの世に遣わされていきます。
私はかつて聖書課の授業中に、小学生の男児から、「先生、イエスの名によってとはどんな意味なのですか」と質問を受けたことがありましたが、その時私は次のように説明しました。
「今、授業中だけど、職員室に行ってチョーク2本もらってきてください」。
その子は「はい」と言って教室を出て職員室に行こうとしました。私は、「はい、そこまでで良いですよ。座って。」と言って、その場で起こったことの説明を試みました。
今日の聖書日課福音書の始めの部分第9章38節と39節には、イエスの名前を用いるということが話題になっており、「名」という単語が用いられています。また、第9章41節の「キリストの弟子だという理由で」と訳されている箇所にも、「名(原語ではονομα)」という言葉が隠れており、そこを直訳すれば「キリストの者だという名において」となります。
ある時、主イエスの弟子たちは、悪魔払いをする一人の祈祷師を知りました。その祈祷師はそれまで主イエスに直接お会いしたこともなかったのですが、イエスの名を使って人々の悪霊を追い払っていたのでした。
弟子のヨハネはその祈祷師にこう言いました。
「あなたは勝手にイエスの名を使っているが、あなたはイエスに会ったのか。イエスがどんなお方か本当に知っているのか。私たちはイエスの弟子で、これから先生に従ってエルサレムに上っていくことになる。あなたは私たちの先生に従う気はあるのか。そうでないのなら、勝手にイエスの名を使うのはやめなさい。」
ヨハネはこのことを少し得意げに主イエスさまに報告したのではないでしょうか。しかし、主イエスはヨハネにこう言っておられます。
「やめさせることはない。私の名を使って奇跡を行い、その直ぐ後で私の悪口を言えまい(9:39)」、そして、「あなたがたがキリストの名において(つまりあなたがたがキリストに属する者だからということであなたがたに)一杯の水を飲ませてくれる人がいたら、その人は必ずその報い(結果)を受ける」。
現代に生きる私たちは、「誰かの名によって悪霊を追い出す」ということをどう考えるでしょう。実は私たちも、日頃から誰かの「名を使って」自分の願う状況を創り出すことをしばしば行っているのです。
例えば、ある家庭で子どもがだだをこねていると、母親がその子に向かって「そんなにお母さんの言うことを聞かないのなら、お父さんにあなたのことを言いますよ」と「お父さん」の名を持ち出します。また、会社の会議の席で課長が「これは普段から部長もよく言っておられることだけど・・・」と「部長」の名を持ち出して部下の反対意見を牽制することなどもよくあることでしょう。
先の母親の例では母親は「父親」という名を用いて子どもに働く「駄々っ子の霊」を抑え込もうとしていると言えますし、会議の席の課長は「部長の名」を用いて他の社員の意見を支配しているということになります。実は部長は課長が言うほどにそのことを言っていないという場合もあるでしょう。
主イエスの時代の祈祷師は、例えば熱を出して寝込んでいる人を前にした時に、そこに取り憑いている霊より格上の霊の名を用いてその悪霊を追い出しました。今日の福音書の中に出てくる悪魔祓いの祈祷師は、「イエス」の名をイエスの許可も無く勝手に用いていたのでしょう。
主イエスはそのことについて弟子たちが思っていたほどには否定しなかったようです。
主イエスはヨハネにこう言われました。「私たちに逆らわない者は私たちの味方なのである」。
この言葉を直訳すれば、「私たちにagainstでない者(抗わないもの、敵対しない者)は、私たちにforである(私たちに向いている)」です。つまり、ここは主なる神に逆らいその働きを邪魔するのでないのなら、その人は主イエスのなさる神の国の働きを向いているとも解釈できます。弟子のヨハネたちは、主イエスに直接にお会いしていない者がその名前を用いることは許すべきではないと考えたのに対して、主イエスは逆らわない者(againstでない者)は主なる神の大きな流れの中にあるとお教えだったと思われます。
この箇所では、主イエスはご自分の名が勝手に用いられていることに寛容であるように読み取れますが、主イエスは、ご自身の「名」について決して疎かにしておられたわけではありません。
主イエスは、十戒の第3の戒め「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」をよく理解しておられたことでしょう。そして、イエスに「主よ」とその名を言う呼ぶだけでなく御心を行う人が天の国に入ることを教えています
主イエスご自身も、主イエスの名によって集い祈る所には主イエスが共にいてくださる(マタイ18:20)、また先主日の福音書でも主イエスの名によって幼児を受け容れる者は主イエスを受け容れることになる(マルコ37)ことなどを教えておられます。
信仰者にとって主の名を持ち出すことは自分の存在を主なる神に関わらせる大切なことなのです。私たちは何をするにも主イエスの名によって思い、考え、言葉を発し、行動しています。父と子と聖霊に御名によって洗礼を受けてキリストと結ばれた私たちは、キリストの名によってこの世に遣わされていきます。
私はかつて聖書課の授業中に、小学生の男児から、「先生、イエスの名によってとはどんな意味なのですか」と質問を受けたことがありましたが、その時私は次のように説明しました。
「今、授業中だけど、職員室に行ってチョーク2本もらってきてください」。
その子は「はい」と言って教室を出て職員室に行こうとしました。私は、「はい、そこまでで良いですよ。座って。」と言って、その場で起こったことの説明を試みました。
授業中であるにもかかわらずその子が教室を出て職員室に入って行けるのは、その子どもが「小野寺の名」によって行動するからであり、もしその子が授業時間中にその子の名によって教室を出たり職員室に入るとしたら、それは許されないことでしょう。それと同じように、私たちが主イエスの名によって祈るということは、主イエスの名によって祈るその祈りを主イエスが神さまのもとに届けてくださると私たちに約束してくださったからで、私たちはその信仰に基づいて「主イエスの名によって」と祈るのです。それは祈る時だけに限られたことではなく、私たちの思うこと、言葉にすること、行うことの全てが主イエスの名によって為されるのです。
私たちは、この聖餐式の最後に「ハレルヤ、主と共にいきましょう。」「ハレルヤ、主に御名によって」と言葉を交わし合ってこの世界に遣わされていきます。私たちが主イエスの名によって生きることは、限られた礼拝の場や教会の中だけに限定されることではなく、私たちが生きること全てが主イエスによって導かれていることを意味しています。
私たちが遣わされる時、今日の福音書の「逆らわない者は私たちの味方である」という言葉は、私たちに宣教の大きな可能性を示します。私たちは、今日の聖書日課福音書の御言葉から、神の愛が世界中のあらゆる人に及んでいることを教えられます。主イエスは主イエスの味方( for )である人々に限らず、主イエスに逆らい拒む(against)人のことさえ、主イエスは十字架の上から血を流し、傷みつつ招いておられます。
私たちは主イエスの十字架と復活によって、滅びから救われ永遠の命の世界を開いていただきました。私たちはこの恵みを知らずにいる人々や、その恵みを受けられないでいる人々のために、ここから主イエス・キリストの福音を伝えるために遣わされていくのです。
主イエスの御言葉と御糧に養われ、主の御名によってそれぞれの働きへと遣されていきましょう。
私たちは、この聖餐式の最後に「ハレルヤ、主と共にいきましょう。」「ハレルヤ、主に御名によって」と言葉を交わし合ってこの世界に遣わされていきます。私たちが主イエスの名によって生きることは、限られた礼拝の場や教会の中だけに限定されることではなく、私たちが生きること全てが主イエスによって導かれていることを意味しています。
私たちが遣わされる時、今日の福音書の「逆らわない者は私たちの味方である」という言葉は、私たちに宣教の大きな可能性を示します。私たちは、今日の聖書日課福音書の御言葉から、神の愛が世界中のあらゆる人に及んでいることを教えられます。主イエスは主イエスの味方( for )である人々に限らず、主イエスに逆らい拒む(against)人のことさえ、主イエスは十字架の上から血を流し、傷みつつ招いておられます。
私たちは主イエスの十字架と復活によって、滅びから救われ永遠の命の世界を開いていただきました。私たちはこの恵みを知らずにいる人々や、その恵みを受けられないでいる人々のために、ここから主イエス・キリストの福音を伝えるために遣わされていくのです。
主イエスの御言葉と御糧に養われ、主の御名によってそれぞれの働きへと遣されていきましょう。