2021年09月20日

金木犀の香り

 二、三日前の朝のこと、ジョギング&ウォーキングの帰り道、少し疲れてゆっくり走る私の胸は一瞬にして金木犀の香りで満たされ、思わず立ち止まり、辺りを見回していた。「ああ、ここにあったのか」。それと同時に、これまでの金木犀にまつわる多くのことが思い出された。
 金木犀にまつわる一番古い私の記憶は、幼稚園生の頃のこと、その香りに惹かれて一枝を手折り家に持ち帰って母親に見せると、牛乳瓶に生けてくれた。教役者として初めての住居となった日立の牧師館は、幼稚園の庭の中にあり、牧師館の直ぐ脇には大きな金木犀の木があった。ことにこの季節には外出から戻ると、金木犀が「お帰りなさい」と言ってくれてるように思えた。11年間勤務した前橋聖マッテア教会では、ちょうど2000年の4月に初めて自分で作った教会ホームページを立ち上げ、その秋、デジカメで大写しにした金木犀の花をアップした。7年間勤務した宇都宮聖ヨハネ教会の牧師館の前には銀木犀、愛隣幼稚園の園庭には金木犀があり、銀、金の順に花が咲き、幼稚園の先生が子どもたちを順に抱いてその香りに触れさせていたこと。現職として定年までの6年間勤務した水戸では、大きなコンクリート鉢の金木犀は窮屈そうだったけれど、道路脇のその木の下には朝になるとオレンジ色の円の点描ができていて、そこだけは掃き掃除を除外した。
 その朝の金木犀の香りは、一瞬にして多くの記憶を呼び起こしてくれた。
 思い起こしてみると、このような記憶は、香りだけでなく、私の5感と深くつながっている。特に私の幼少期は、樹木の小枝を手折ることも許された古き良き時代でもあり、金木犀も桜も小枝を手折った感触まで思い出されるような気がする。本物を見る、触れる、嗅ぐ、聞く、そして味わう経験の多様さと深さが人間を育て人生を支えていく大切な要素なのではないかと思う。もし、私にそのような体験が極度に少なかったら、私は一体どんな感性の人間に育っていたのだろう。今の自分はそのような感性が豊かだとは思わないが、私は金木犀の香りばかりでなく、多くの草花や樹木に良い刺激を沢山戴いたと思う。
 先日、幼稚園の先生が、「子どもたちが触れたり摘んだりすることのできる花がもっと欲しい」と話してくれた。教会の花壇を作り管理する立場にある私はハッとした。管理された花壇の花は見るものであり、触れたり摘んだりするものではなくなっている。園児が金木犀の樹の下にしゃがみ込んで、撒き散らしたように落ちた金木犀の小さな花をつまんではもう一方の手に移して握りしめる光景は、これまで幾度も見てきた。中には「お集まり」の声に応じて拳の中の小さな花を「それっ!」と投げ上げる子もいる。他の草花にまで拡げて言えば、タンポポの花を乗せた砂団子、タンポポの綿毛を吹いて飛ばすこと。朝顔の色水作り、オオバコの茎相撲や松の葉相撲。オシロイバナの落下傘。草笛や葉笛等々。草花で遊んだことを挙げればまだまだ尽きない。
 私と同じ経験を現代の子どもたちにも与えるべきだとは言わないが、子どもたちが5感で自然に触れる環境をたくさん用意したいと思う。
 金木犀が香ると秋が進んでいく。(2021年9月17日)
                                 2021-09-16金木犀02.jpg  PHOTO068 金木犀.JPG
posted by 聖ルカ住人 at 05:34| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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