2021年09月19日

最も小さい者のために

最も小さい者のために マルコによる福音書第9章30-37 B年特定20     2021.09.19

 今日の福音書のみ言葉から、2個所取り上げて読んでみましょう。
 マルコによる福音書第9章35節、「いちばん先になりたいと思う者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
 同じく、第9章37節、「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
 今日の聖書日課福音書を見てみると、弟子たちはこれから起ころうとしている主イエスの受難と復活について理解できず戸惑い、主イエスがエルサレムに上って行こうとする意図、意味を分かっていない様子が読み取れます。
 弟子たちは、これから主イエスと一緒にエルサレムに上っていけば、自分たちもこのイエスと一緒に高い地位を得ることができると考えていたようです。
 第9章33節で、主イエスは弟子たちに「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになりましたが、弟子たちはその問いに答えられずに黙っています。弟子たちは、主イエスがエルサレムに上って行かれる時が来た事を感じ取って、「いよいよ私たちの先生がエルサレムで君臨する時が来た」とでも思ったのでしょう。そこで、弟子たちは、誰がいちばん偉いかと議論し始めます。彼らは自分たちの中で誰が主イエスの左右の座に着くのに相応しいかというような議論をしていました。弟子たちは主イエスに従っていくことでエルサレムで高い地位について名誉を得ることができると考えたのでしょう。しかし、弟子たちは主イエスに問いかけられて、自分たちの心の内にある権力を求める思いや他人の上に立とうとする思いを露わにされ、浮ついた思いから我に返るような気持ちになったことも想像されます。
 それでも、更にマルコによる福音書を読み進めていくと、第10章35節には、弟子のヤコブとヨハネが主イエスのところに進み出て、主イエスが天下を取ったら私たちを主イエスの左右の座に着かせてくださいと願い、それを知った他の弟子たちが憤慨したという記述があります。このように弟子たちは主イエスにそれぞれの期待や願いを寄せて、主イエスの本当の思いを理解できないまま、自分の願いが満たされることを求め続けていたことが分かります。
 主イエスはこのような弟子たちを前に、幼子の手を取り彼らの真ん中に立たせ、そしてその幼子を抱き上げて言われました。
 「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」
 主イエスは、今、弟子たちの真ん中におられ、幼子を抱いておられます。そのお姿を思い浮かべてみると、弟子たちが主イエスに目を向けると弟子たちの目には主イエスと共にいる幼子が映ります。また、弟子たちが最も小さく弱い者である幼子に目を向けると、その幼子を抱いておられる主イエスが自ずと目に入ってくるのです。
 その当時は、子供の人権とか人格などという思想はありませんでした。現代では、幼子も一個の人間であり、大人になるまで保護され養育される存在と考えられます。しかし、当時の幼子のイメージは、先ず第一に「無力、無能」と言うことであり、幼子はまだ働き手になっていない足手まといな存在と考えられ、早く大人の仕事を助ける働き手になることを求められていました。
 しかし、主イエスは幼児も神に愛されている大切な存在であるとお考えになり、経済的には無価値で労働力としては無力と見なされる小さな存在にも神から等しく愛が注がれている事を教えておられます。
 主イエスは、弱く小さな、そしてその当時は役に立たない無価値な存在と思われていた子供の手を取って、更に抱き上げておられます。そして「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」と言われました。
 先程少し触れたとおり、私たちが主イエスを見ようとすれば、そのイエスに抱かれた弱く小さな存在が私たちの目に入ってきます。また、私たちがこの世界で最も小さくされた人や最も弱い人にしっかりと目を向けようとすれば、その人と共におられる主イエスが私たちの目に入ってきます。
 私たちの生活の中にあっても、最も小さく貧しくされた人々に目を向ける時にその人々と共におられる主イエスを見ることになり、私たちが主イエスを見ようとする時に主イエスと共にいる最も貧しく小さくされた人々が目に入ってくるのです。
 かつて、石炭を掘り出す人々は坑道に入る時にカナリアを鳥籠籠に入れて携えていきました。もし、坑道内に毒ガスが出ていたりすれば、真っ先に反応するのは最も小さい存在である籠の中のカナリアです。カナリアが安全であることはその周りの人々の安全の印しになります。最も小さい存在が大切にされることは、全ての者が健やかに生かされる世界の基本なのです。
 そして、このことは、この世界のことであると同時に、自分の中の弱く小さく無価値で醜い部分を受け入れることについても言えることを覚えたいと思うのです。主イエスは、私たちの中の最も弱く貧しく醜く小さなところにいてくださり、また私たちは自分の心の最も弱く貧しく醜く小さなところで主イエスにお会いできるのです。
 もし、自分の中の弱さ、小ささ、醜さを受け入れることが出来ないなら、他の人の中にある似たような弱さ、小ささ、醜さを見た時、私たちはその人を受け入れることができなくなるでしょう。そして時にはその人を傷つけたり虐げたり、あるいは無視したり拒否してその場を逃れようとするでしょう。そうであれば、どうしてそこから自分の内側にキリストの平和が生まれてくるでしょう。また他の人との間にキリストの平和を作り出していけるでしょう。自分の弱さ、小ささ、醜さ、貧しさが主イエスによって受け入れられ、たとえそのような私であっても神はその私を受け入れ愛していてくださり、主イエスはそこに宿ってくださいます。
 もし私たちが自分の醜さや弱さを認められないなら、私たちはどうして他の人の弱さや醜さを受け入れそこに働く主イエスを見出すことが出来るでしょうか。
 主イエスは、自分たちの中で誰が一番偉いかを論じ合う弟子たちに、最も弱く小さくされた者に仕えるように教えておられます。
 主イエスは、私たちが弱く小さい人々に仕えることは主イエスに仕えることだと教えてくださいました。弱く小さな人々に仕えることは単なる義務や道徳なのではなく、私たち自身の救いに関わることなのです。
 エルサレムに向かう主イエスの歩みの意味は、その当時の弟子たちにはまだ理解できていませんでした。主イエスの歩みは、権力を手に入れる歩みではなく、弱く小さく貧しい人々の嘆きや苦しみをご自分で担う歩みでした。そのゴールが十字架につけられて死んでその先の世界を開いてくださることであることもこの時の弟子たちにはまだ理解できませんでした。そのような弟子たちに、主イエスは折に触れ、最も小さい者に仕えることを教え、ご自身は十字架に向かってその歩みを進めて行かれます。
 私たちは今日の聖書日課福音書から、主イエスの教えと歩みは、自分と他者の弱さや貧しさを担う人々を招くための教えと実践であったことを改めて心に留めたいと思います。そして、私たちの弱さや小ささも主イエスによって抱き上げられ祝されることを感謝したいと思います。
 私たちが他の人の弱さや貧しさに出会う時、そこに働く主イエスにお仕えすることを促されていることを覚え、主イエスに仕える働きに与ることを感謝できますように。
posted by 聖ルカ住人 at 16:19| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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