2021年09月18日

烏瓜(カラスウリ)の花

烏瓜(カラスウリ)の花 

 今年の梅雨が明けて猛暑が到来した頃、草花の好きな素敵なご夫妻に引き合わせていただき、歓談する機会がありました。いろいろお話ししていると、「烏瓜の花をご存知ですか?」と尋ねられました。「カラスウリって、秋に赤い実をつけるつる性の植物ですよね。でもその花は・・、思い浮かばないですね・・」。

 写真に撮った烏瓜の花を見せていただき、そのご夫妻が烏瓜の花と出会った時のことや実際に花が開く様子のことなどをお聴きしていると、私はとてもワクワクしてきました。

 烏瓜の花は日没と共に開きはじめ朝にはしぼんでしまう一日花で、しかも、光のない夜に咲くにもかかわらず、どうしてこんなに繊細で美しく咲くのか不思議で、私はやっと「夜中に咲いて朝にしぼんでしまうのでは、どのように受粉するのでしょうね」と、少し的外れな感想を口にするのが精一杯でした。家に戻って、烏瓜について少し調べてみると、夜行性の蛾をおびき寄せるためにあのように白い色を大きく見せているという説もあることなどを知りました。

 翌朝、日課のジョグ&ウォークの最中に、私の視線は烏瓜の蔓のある場所を探して動き回っていました。今まで、赤い実の他には関心を持ったことがありませんでしたので、実の無い時期の烏瓜を見つけられるか心配でしたが、直ぐに見つけることができました。ああ、ここにもあったのか。数カ所見つけることができました。

 朝6時近くの烏瓜の花は、既に花弁は萎んでいましたが、確かに写真で拝見した花が咲き終わった姿であることが分かります。蕾も幾つか見つけました。

 これまで烏瓜のことなど全く意識していなかった私は、昨日まではその生け垣の脇を素通するだけでしたが、この日からその場所は私の特別なところになりました。

 それから2,3日経った日の夜9時30分頃、懐中電灯とカメラを手に、烏瓜の花が咲いているかどうか、妻を誘って近所の生け垣に行ってみました。

 「確かここに絡んでいるはず・・」、「ああ、あった、これ、これ」。「わあ、綺麗!」

 写真で見せていただいたとおりの花が生け垣に絡んで幾つか咲いています。ゴーヤのようの形の白色の花弁の先に細い糸を放射したような部分があって、その部分はまるでレース編みのようにひろがっています。暗い中で、カメラをその花に向け、数回シャッターを切りました。家に戻ってさっそく写真データを確かめ、興奮さめやらぬ思いでSNSにアップしました。

 またその翌日、毎朝のように散歩ですれ違って「おはようございます」と声をかけ合うようにようになった人には、ちょうどその生け垣辺りでお会いしたので、私は萎れた白い花を指さして「烏瓜の花をご存知ですか。この白い花はもう萎んでいるけど、夜に咲く一日花で、この花弁の先がすーっとレースのように広がっていて・・・」と思わず話しかけていました。

 私は、烏瓜の花のことを知ってからの3,4日間、かなり興奮しておりました。そして、烏瓜のことから私の発想は色々なことに広がっていました。

 烏瓜は学名Trichosanthes cucumeroides (トリコサンセス ククメロイデス)、Trichosanthesuは、ギリシャ語のθριξ(毛、髪)とανθοs(花)から成る言葉です。

 聖書の中で、θριξ(毛、髪)はイエスが「あなたがたの髪の毛一本残らず数えられている(マタ5:36他)」や、罪深い女がイエスの足元に来て涙でイエ スの足を濡らしその足を自分の髪の毛で拭った場面(ルカ7:38)、洗礼者ヨハネが「ラクダの毛衣(マタイ3:4他)」を着た姿等の箇所で用いられ、ανθοs(花)はイザヤ書の「草は枯れ、花はしぼむ、しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」を引用したヤコブ書1:10,11やⅠペトロ書1:24に用いられています。cucumeroides は「ウリ科の」という意味のようです。

 さて、私がこの教会通信『マラナ・タ』にこのような文章を掲載しようと思ったのは、ただ私が烏瓜の花を知りそれを皆さんに伝えたかったからだけではありません。

 私たちは、何か楽しいことや嬉しいことを経験すると、そのことを周囲の人々に伝えて共有したくなりますが、このことは、福音に生きる教会の働きの原点なのではないでしょうか。主イエスの愛が嬉しいから、大切なことだから、自分が救われたことだから、神さまの素晴らしさを伝えたくなるのです。神のこと、主イエスのこと、教会の交わりのこと等の経験を、楽しく豊かなものにしながら、その経験を多くの人と分かち合って、神さまのこと、主イエスのこと、教会の交わりのことを、知らなかった人々にも知らせ、多くの人にその素晴らしさを味わって欲しくなります。

 私は、もし烏瓜の花のことを教えていただけなかったら、花は毎夜咲いていてもそれを知らずに過ごし、秋になって深いオレンジ色の実を見て「ここに烏瓜がある」と思う程度だったことでしょう。烏瓜の花を知らずに生きていくなんて、勿体ないことです。私は烏瓜の花を教えていただき、その感動と共に自分の心の世界も豊かになった気がします。そしてその感動を伝えたくなりました。そのことについて知るきっかけがなければ、烏瓜は咲いていても私はそれを知らずにいたことでしょう。

 烏瓜の花のことでさえそうであれば、どこかで神と出会い生かされた経験を持つ者として、神さまの存在やその働きを伝えたくなって当然なのではないでしょうか。

 烏瓜の花を知らないままであることが勿体ないことであれば、イエスさまのことを知らない人の人生は何と勿体ないことでしょう。主イエスを通して示してくださった神の愛を知らないのであれば、その存在を意識することもありません。でも、その存在を知れば、あのことにもこのことにも神さまの存在やそのお働きを感じ、理解し、神に生かされていることの喜びと感謝を味わうでしょう。主イエスを通して示された神の愛が、あの出来事この出来事の中に潜在していることに気づき、神の愛を見出し、その喜びと嬉しさ(感謝)を周囲の人々に伝えて、分かち合うことへと促されていくはずです。神の働きを知れば、「あなたにもこの喜びと感謝を知って欲しい」という思いが強くなり、それが祈りになることでしょう。神を知らずそれまで神を意識していなかった人も、私の烏瓜の花の経験と同じように、神の存在を知りその大切さと素晴らしさに気付くことができれば、その人の見える世界は更に開け、ずっと豊かになるのではないでしょうか。もっと多くの機会に主イエスを伝えましょう。

 現行の『聖歌集』403番(いともかしこしイエスの恵み)は私の大好きな聖歌のひとつです。その歌詞の途中の部分ですが、「滅びを出でしこの喜び あまねく人とたたえ歌わん(2節)」、「我をも捨てず召したまえば たれか洩るべき主の救いに(3節)」という言葉が、ここに記してきたような思いと重なってきます。

 神さまのお与えくださる良い経験を共に分け合い、感謝と賛美に導かれていくことができますように。

 (東松山聖ルカ教会教会通信『マラナ・タ』2021年9月号)

カラスウリの花

posted by 聖ルカ住人 at 10:24| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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