アンティオキア Αντιοχεια
今回も都市名をとりあげます。日本語訳の聖書では「新共同訳」でも「聖書協会共同訳」でも表題のとおり「アンティオキア」ですが、1954年訳の聖書では「アンテオケ」でしたので、その言い方に馴染みの人も多いことでしょう。アンティオキアは、使徒たちの働きによってクリスチャンが世界に拡大していく上で、とても大切な場所になりました。
アンティオキアは、ローマ時代にはシリア地方の中心地となり帝国第3位の都市として発展しました。この都市の名は使徒言行録11:19、13:1等に出てきます。
ことにルカによる福音書と使徒言行録では、イエス・キリストの福音はイエスの十字架の死と復活の波紋がエルサレムから広がるように世界に拡大していきましたが、このことは先月号のこのコーナー「エルサレム」に記したとおりです。
しかし、その波紋の拡大は、決して順調なものではありませんでした。ことにエルサレムでは、イエスをキリスト(救い主)であると告白する人々の中でも異邦人に対するユダヤ教徒の迫害が強く、ステファノの殉教をきっかけにしてその迫害は激しくなり(使徒8章)、異邦人キリスト者はエルサレムから逃れて各地に散っていきました。この出来事が「福音の波紋」の広がりとなる大きなきっかけになるのです。散らされた人々の行き先は、ユダヤとサマリアの地方(使徒8:1)から更にフェニキア、キプロス、アンティオキア等に及びます(使徒11:19)。特にアンティオキアではユダヤ人たちに対してヘブライ語を話す人々に福音が伝えられただけでなく、異邦人に対してもギリシャ語で福音が宣べ伝えられました。ことにこのアンティオキアでは「主の御手が共にあったので、信じて主に立ち帰る者の数は多かった(使徒11:21)。」と伝えています。
この知らせがエルサレムにいる使徒たちに届き、エルサレムにいる使徒たちはアンティオキアにバルナバを遣わして励ましを与えることにしました。アンティオキアに来たバルナバは、多くの人に励ましを与え更に主イエスを救い主とする信仰へと導かれます。更にバルナバはそこからさほど遠くないタルソスに身を引いていたサウロ(後のパウロ)を訪ねて一緒にアンティオキアに戻り、バルナバはパウロと一緒に丸一年の間ここで大勢の人を教え導いたのでした。やがてバルナバとパウロはこのアンティオキアから宣教旅行に出発することになります。
このように、アンティオキアはキリスト教が異邦人世界に広がっていく上での大切な拠点になったのです。
イエスを救い主と信じて告白する者の集まりをエクレーシアと呼びそれが日本語で「教会」と訳されるのですが、エクレーシアを構成する信徒が「クリスチャン(キリスト者)」と呼ばれるようになったのもこのアンティオキアの教会から始まっています(使徒11:26)。
なお、アンティオキアという名は、もう一つ同名別所の「ピシディア州のアンティオキア(使徒13:14)」という都市があります。ここは、バルナバとパウロが第1回の宣教旅行のときにこの地のユダヤ人会堂を訪ねています。
聖書の巻末には聖書世界に関する地図が載っているものが多いです。アンティオキア、タルソスなどの場所を是非確認してみて下さい。