エリコ ( Ιεριχω イェリコ)
都市名エリコを取り上げようと思い、下調べをしてみると、聖書考古学の詳しい知識がないととても「エリコ」について語ることなどできないと思い知りました。
中東からヨーロッパにかけて、古い街には、その歴史の中で「崩され、建て直され」を幾度も重ねて、それが地層をなしている例が多くあります。街の場所が元の場所から移動している場合も少なくありません。『小型版新共同訳聖書辞典』(キリスト新聞社)には、エリコは、「古址は新石器時代(前7000年頃)から後期青銅器時代(前1200年頃)の十八の文化層を含み(深度20m)、断続的な興亡の跡を示している。」と記しています。
エリコに限らず古代の都市造りは、周囲の石垣を築くことに始まると言っても良いでしょう。その石垣(城壁)の中が街であり、その石垣(城壁)は住まいや倉庫になっている例(ヨシュア2章)もあります。そして、その街を出入りするための門が設けられます。その門の前には広場を作り、そこで町の会議、裁判や集会などが持たれたようです。
エリコは、そのような街の中でも「世界最古の街」、「オリエント最古の街」などと言われ、聖書の世界でも重要な都市です。この街は死海に注ぐヨルダン川河口から北西約15kmにあり、標高は海抜-250mの低地にあり、世界で最も低い所にある町と言われています。
旧約聖書では、ヨシュア記にエリコが出てきます。エジプトを脱出したイスラエルの民が、40年にわたる放浪の末に約束の地カナンに入ったとき、ヨルダン川を渡って最初に占領したのがこのエリコでした。ヨシュアが率いるイスラエルの民(兵)がエリコの周りを6日間にわたって静かに行進し、7日目に7周してから鬨の声を上げると、エリコの城壁が崩れ去り、イスラエルはエリコを征服しています(ヨシュア6章)。この場面は「Joshua fit the battle of Jericho ジェリコの戦い」という黒人霊歌の題材になっています。
この箇所については、ヘブライ人への手紙(11:30-)の中にも触れられており、信仰について考える上で大切なこととして考えられていたことが窺われます。
エリヤ、エリシャの時代にはエリコの辺りに預言者養成の場があったようです(列王下2:15-)。
新約聖書の時代には、エリコはエルサレムに向かう人が、このエリコで一泊して翌日に直線距離で30㎞ほどにあるエルサレムに上っていきました。エルサレムは標高800mの台地にあり、エリコとの標高差は1000m以上あるわけです。
ザアカイはこのエリコの町の徴税人頭であり、町の門に収税所を設けて、手下になる者を使って通行税などを取っていたのでしょう(ルカ19:1-)。また、町を出入りする人は、門を通らねばならず、門の辺りはそこを通行する人に物乞いをする人々も集まっていたようです。マルコによる福音書第10章46節~には、盲人バルティマイが、エルサレムに向かう門の辺りで物乞いをしており、近づいてきたのがイエスの一行だと分ると、イエスに向かって憐れみを求めて叫んだ記事があり、この話は内容の違いこそあれ、マタイ20:29-、ルカ18:25-にも載っています。
イエスの例え話「善いサマリア人」(ルカ10:25-)は、「ある人が、エルサレムからエリコへ下っていく途中」という場面設定で始まっています。例え話の設定は都詣での帰り道或いは商売の帰途なのでしょうか。エルサレムとエリコを結ぶ街道とはいえ、当時はさほど人通りもなく、いかにも強盗の出没しそうな道だという一文を読んだ記憶があります。
エリコがこのような町であることを思いながら聖書を読むと、その光景がより鮮明に浮かび上がってくるのではないでしょうか。