ぶどう園 αμπερων(アムペローン)
パレスチナは、ぶどう、オリーブ、イチジクなどの栽培に適する気候で、特にぶどうはそのまま食べるだけでなく、干しぶどう、ぶどう酒にするためにも盛んに栽培されていました。
旧約聖書にも、イザヤ書第5章をはじめぶどう園(畑)の話は多くの箇所に出てきます。それも、実際のぶどう園に関する話もあれば、例えに用いられている箇所も数多くあります。イエスも生活に身近な「ぶどう園」を用いて例え話をしておられます。
ぶどう園を作ることや管理することは極めて尊いことであり、イエスはぶどう園を「天の国」の例えに用いています。
共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)には共通の「ぶどう園と農夫(後継ぎ)」の例え(マタイ21:33~他)がありますが、マタイによる福音書にはその他にもイエスがぶどう園を例えにした話があります。それは、「ぶどう園の労働者(夕方5時から働いた者も同じ1デナリ)マタ20:1-」と「二人の息子(嫌ですと答え後から考え直してぶどう園に行った)マタ21:28-」の二つで、マタイはイエスの教えの中でもぶどう園の例えで「天の国」を伝える思いが強いのでしょう。
新約聖書の中には、「ぶどう園」という語が11カ所あると記した文献もありました。ちなみに「ぶどう畑」は旧約新約合わせて14カ所だということです。
話を「ぶどう園」から「ぶどう」にまで広げてみましょう。ぶどう園がαμπερων(アムペローン)で、ぶどうの木はαμπεροs(アムペロス)です。ぶどう園とぶどうの木は非常に近い言葉であることが分かります。
聖書が示す「ぶどう」は、しばしば「イエスとイエスに連なる人々」を象徴しています。私は「ぶどう」という言葉から「果実」を思い起こしますが、イエスが「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。(ヨハネ15:5)」と言っているように、αμπεροsという言葉はぶどうの幹や枝全体を意味しているようです。
ぶどうを収穫してその実を搾りそのまま置いておくだけで、その搾り汁は自然に発酵してぶどう酒 οινοsになります。昔の人はぶどう液に「霊」が降りることで酒になり、酔うことはその「霊」が働くことと考えました。イエスが「古い革袋には古いぶどう酒を、新しい革袋には新しいぶどう酒を」と言っておられますが、まだ発酵中のぶどう酒を古い革袋に入れておくと、ぶどう酒が発酵する時に出るガスで革袋が破裂してしまうことがあり、そのことを例えに用いて、イエスの福音(新しいぶどう酒)は古いユダヤ教の慣習(古い革袋)の中に収まるものではないことを語っておられるのです。
日本のように綺麗で飲用に適した自然水の少ないパレスチナでは、ぶどうの搾り汁が飲料としても健康維持に有効であるという認識があったのかもしれません。
聖書の中に次のような記述もあります。
「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい(Ⅰテモテ5:23)。」このような言葉があるのも興味深いことです。あくまでも「少し用いなさい。」ですよ!(笑)