2021年06月29日

ヤイロの願い 「私の幼い娘が・・・」

ヤイロの願い 「私の幼い娘が・・・」

 マルコによる福音書第5章21節から43節に「会堂長ヤイロ」の物語がある。
 現在、日本聖公会で用いている3年周期の聖餐式聖書日課のB年特定8の主日に、(この物語に挟まれた「イエスの服に触れる女」の部分を除いて)この箇所が用いられている。
 今年の6月27日の主日聖餐式の配当日課に当たり、開式前に、ベストリーで、サーバー(侍者)をしてくださる方から話しかけられた。
 「今日の聖書日課福音書で、ヤイロはイエスに『私の幼い娘が死にそうです(5:23)』と言っているのに、後の方で『12歳にもなっていたからである(5:42)』と書いてありますよ。どういうことなのか理解に苦しみますね。」
 私もそう思っていた。なぜなら、ルカによる福音書第2章41節以下に「神殿での少年イエス」の記事がある。当時の法的成人年齢は満13歳であったとされており、この少年イエスの神殿詣では、イエスが成人になることを感謝して行われたと説明する人もいる。12歳は、私たちの感覚では「幼い」という言葉にマッチしないのではないだろうか。
 マルコによる福音書第5章23節の部分を原文に当たってみると、το(定冠詞) θυγατιρον(娘)μου(私の) εσχατωs(死)εχει(持つ)と、特に娘の幼さを強調してはいない。しかし、日本語訳は、1954年聖書協会訳、新共同訳、聖書協会共同訳のいずれも「幼い娘」と訳しており、英語訳でもRSVは My little daughter is at the point of death. であり、TEVは My little daughter is very sick. であって、どちらもθυγατιρον(娘) をlittle daughter と訳している。これらのことから推測するに、ギリシャ語の θυγατιρον には元々「幼い娘」「小さい娘」という意味があるのだろうか、ということになる。
 どうも、そうらしい。ただし年齢のうえで「幼い」と言うことではないようだ。
 と、言うのは、ギリシャ語の辞典を見れば、このθυγατιρον(シュガティロン) という言葉は、θυγατηρ の指小詞(或いは指小辞)であるとのこと。
 指小詞(指小辞)とは、日本語では、名詞や形容詞の用法で、例えば「綺麗」を「小綺麗」と言ったりして気持ちの上で「小ささ」や「少し」を示す時に用いられている。もっと例を挙げれば、「腹が減った」を「小腹が減った」とか「憎らしい」を「小憎らしい」と言うと少しニュアンスが柔らかくなる、という時の用法である。「我が家の犬」というのを「うちのワンちゃん」などと言うのもこれに近いか、と発想を飛ばしてみた。
 ちなみに、この物語ではマタイによる福音書やルカによる福音書にある平行記事には指小詞ではないθυγατηρ(シュガテール) が用いられている。
 想像するに、翻訳者は、この言葉が指小詞であることを意識して θυγατιρον を日本語にする時に、単に「娘」とするのではなく「幼い娘」としたのではないか。
 指小詞であることを意識して訳せば「小娘」もあり得るがそれでは意味が違ってきてしまう。
 この箇所の物語に戻って、それではなぜ会堂長ヤイロが指小詞を用いて「私の幼い娘が死にそうです」とイエスに手を置いていただくことを願い出たのかを思い巡らせることができそうである。
 ジョークで言えば、「ヤイロさんは我が娘を可愛さのあまり箱入り娘にしておきたかったから。」これが、ベストリーのサーバー氏に対する私の回答であった。
 それにしても、もしここまで述べてきたことが誤りでないのなら、この箇所の「幼い娘」は、「十二歳にもなっていたからである。」との語感のギャップが大きく、あまり良い訳ではないと思う。かと言って、まだ適訳は思い浮かばない。
posted by 聖ルカ住人 at 09:39| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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