2021年05月27日

「平和」を思う -「のぞみ」のことなど- 

 今年も,鉢植えの「のぞみ」が咲き始めました。引っ越し作業など多忙であったため、鉢増しなどの作業ができず、きっと鉢の中は根詰まりを起こしているのではないかと気にかけています。花の咲き具合がやはり物足りないけれど、この花が咲いてくれるとやはりホッとします。

 以下のエッセイは、水戸聖ステパノ教会月報『草苑』2019年8月4日(第575号)に掲載したものです。今年の「のぞみ」の開花にあわせてこのブログにも掲載いたします。

「平和」を思う -「のぞみ」のことなど-  

 水戸市は、第2次世界大戦下の1945年8月1日深夜から2日未明にかけて、空襲を受け、米国機B29の投下する焼夷弾によって市街地のほぼ全域が焼け野原となり、本教会聖堂と幼稚園園舎を焼失しただけではなく、本教会員の中にも死傷者がでました。

 多くの人がこんな悲惨な戦争を二度と起こしてはいけないと感じ、思い、考えました。戦後に制定された日本国憲法は、基本的人権の尊重、国民主権主義(民主主義)、平和主義を3つの柱としました。この憲法はその発布当時から大多数の人によって受け入れられ支持されてきたと言って良いでしょう。敗戦を契機とし、日本人自身の手による憲法ではなかったとしても、恒久平和への思いは、第2次世界大戦を経験した人々にとって、その反省と共にごく当たり前の感覚であったのではないでしょうか。

 しかし、その後70年を経て、世界の状況は変わり、国内でも日本を戦争に参加できる国にしようとする動きや原爆を造れる状態にしておこうとする政策については、その一部は特定の政治家の私見とはいえ、いつの間にか表立って発言されるようになりました。そして現世界の状況では現憲法は現実的ではないとして、改憲すべきであるという声は大きくなってきています。

 8月は広島(6日)と長崎(9日)に原爆が投下された月であり、日本が連合国軍に対して無条件降伏することを認めたことが天皇という人間の声と言葉によって放送された(15日)月でもあります。

 第2次世界大戦の爪痕が次第に薄くなってくると、戦争そのものについての意識も希薄になりがちです。でも、戦争の悲惨さや酷さを語り継ぐことは大切なことであり、忘れてはならないことです。

 例えば、原爆の悲惨さは永久に語り継がれなければなりません。同じように、戦争の被害者も加害者も、自らの思いと言葉と行為と怠りを語り継ぐ必要があります。この教会の信徒であった方とその家族は、おそらくは戦争など望まない平凡な一市民であったことでしょう。それにもかかわらず、戦争によって一夜のうちに家族ごと命が奪われてしまったことを取りあげてみても、戦争など決してあってはならないこととして語り継いでいくべき事でしょう。

 極めて個人的なエピソードであっても、その家族や親族などの域を超えて語り継がれる必要のある事もあり、そこから何を受け取り何を学ぶのかは、その後の時代をどのように生きるようとするのかということにも関わる大切なことだと思うのです。

 2019年3月24日にNHKeテレで放送された『趣味の園芸』という番組の「バラと暮らす12ヶ月(第12回)」というコーナーで、わたしの亡父が作出したバラが紹介されました。

 そのバラの花は「のぞみ」と命名されており、野バラのような一重の桜草ほどの大きさです。この「のぞみ」という名に込められた亡父の平和への思いを共有していただきたく、ここにその文章を転記致します。

《バラになった少女》 

小野寺 透

 私と仲の良かった妹が、牧師と結婚して教会の事業にたずさわること半年で、その牧師は知る人ぞ知る南方の激戦地ガダルカナルへ出征した。その時生まれてくる子供に“のぞみ”と名づけて行った。

 彼は周囲の兵隊たちと同じく殆ど死んだと同様に倒れていた。その時耳元でアメリカ兵がガヤガヤ話していた。やがて彼は、そのアメリカ兵達の話にアメリカ英語で返事をしてしまった。それは彼が牧師に必要な神学の勉強に、数年間アメリカ留学していたからであった。

 彼の返事を聞いて驚いたのはアメリカ兵であったが、それが縁で彼は通訳の仕事を受け持ち、結局無事帰国することになった。出征時に名付けた“のぞみ”は女の子であって、父親の実家があった満州に渡った。渡った当時(昭和18年頃)の満州は平和であったが、終戦後、例のソ連軍の侵入で、女ばかりの一家の生活は苦しくなり、先ず祖母が亡くなり、次いで母も亡くなり次々に家族が死亡し“のぞみ”は一人ぼっちになって、近隣の教会関係の人々に助けられ暮らしていた。

 やがて帰国の順番が来て、三歳の“のぞみ”は一人で帰国列車に乗り、はるばる長い汽車の旅を続けて、日本に着き、やっと明日は東京に着く予定が列車の編成の都合で一日延びた。この延びた一日が幼い女の子に限りない悲劇となったのである。それは、この延びた日の東京品川に着く二時間前に、長旅の疲れか“のぞみ”は列車の中で息を引きとってしまったのである。

 一方父親は品川駅に、生まれてはじめてのわが子を迎えに行って、未だ温もりの残っている我が子“のぞみ”を抱いたのである。この様にして父親は“のぞみ”の持ってきた二つの遺骨箱と一緒に浦和の家に帰ってきて、狭い我が家は一度に三つの葬式をすることになった。

 話をバラに移して、私は1968年(昭和43年)頃から実生花を作り始め、最初の作出花に私は忘れ得ぬ、“のぞみ”という名前をつけた。バラの“のぞみ”は浦和では六月の第二週頃に一週間くらい桜草のような花で盛大に咲くが、ヨーロッパの気候では六月から十一月まで咲き続けるので、世界中のバラ花壇に植えられて有名になり、バラを記事にした世界中の本にも載っているし、有名なプロフェショナルのバラ作りの集会に、アマチュアの私が唯一人招かれたりしている。 ”のぞみ”が埼玉の浦和生まれであることを思うと、無常の感慨に打たれるのである。                                

 ちなみにバラの“のぞみ”は、英国王立園芸協会の「アワード・オブ・ガーデン・メリット」を受賞した唯一の日本品種です。私の父親が書いたこの文章の載った冊子の発行年月を調べる余裕もありませんが、この文章はおそらく1970年代に、父親が埼玉バラ会の会報に掲載したものです。

 私の父親も召集され兵役を強いられましたが、帰還できたおかげで、私は戦後ちょうど5年経った8月15日に生まれ、生かされて更に3人の男児の父親になりました。しかし私と同じように、それぞれの命を生きているはずであった多くの人々が、戦争によって尊い命の繋がりを断ち切られてしまいました。私の従姉妹になるはずであったのぞみちゃんもその母親である私の叔母純子も、直接被爆した者ではないにしても、戦争のために命を奪われました。

 そのように多くの人の生命をも奪ってまで他国と交戦する根源には何があり、誰がいて、どうすることを目指しているのでしょう。

 平和に生きることは、神の御心を求めて生きることや他者を愛することと深くつながっています。私は自覚する前に洗礼を受けたクリスチャンですが、イエス・キリストの愛と赦しの中に生かされ、その愛に基づいて平和を希求する人々と共に生きていきたいと思います。

 「平和を実現する人々は、幸いである、

 その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)」

 たとえ私たち一人ひとりは小さくても、キリストの平和を担って生きることを歩む者でありたいと思います。


    

posted by 聖ルカ住人 at 10:13| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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