伝えておくべきこと(自分の葬儀のこと)
ご高齢の教会員が逝去され、葬送式を致しました。この方は以前よりご家族に「私の葬式は教会でしてくれ」と伝えていたと伺いました。
自分の信仰をしっかり家族に伝えていないと、その人の信仰とは違う形式で葬儀が行われてしまう例があります。誰も自分で自分の葬儀を行うことは出来ませんので、自分の葬儀は他者に委ねなければなりません。
私は幼児洗礼を受けながら少年時代には教会から離れていました。しかし、祖母の葬儀が教会で行われ、皆が祈り聖歌を歌い祖母を神の御許に送ってくださる中で、自分の死後を他者に委ねなければならないことに気づき、私はそれまでの自分の傲慢さをへし折られる思いになりました。
「自分は誰に送ってもらうのだろう。どのように、どこに送ってもらうのだろう。」
それは、自分が何を根拠にどのように生きるのかということに基づく大切な課題であることにも思い至りました。
自分の信仰に拠らない葬儀は、例えて言えば、自分の魂が青森に行くのに遺族が大阪行きのホームに集まって別れの儀式をされてしまうようなすれ違いの姿です。
私はそうなりたくないと思い、自分の信仰を明らかにする決心をしました。それは、放蕩息子の帰還でした。
信徒は「私が死んだらキリスト教で葬式をしてね。」と家族にしっかり伝えましょう。できればそれに続けて「自分で自分の葬式は出せないよ。あなたも教会につながって一緒に礼拝しましょう。イエス様に迎えていただく備えを一緒にしましょう」と教会の礼拝にご家族の方をお誘いください。
そして、このような聖歌を歌いつつ、同じ信仰をもつ人々と信仰生活を送り、主なる神の御許に送られたら、私は安らかに逝けるように思うのです。
「いつくしみ深き主の手にひかれて
この世の旅路を歩むぞ 嬉しき
いつくしみ深き主の友となりて
み手に導かれ 喜びて歩まん](聖歌520)
2024年12月1日