2024年12月05日

「人の子」とお会いする  ルカによる福音書第21章25~31節  降臨節第1主日

「人の子」とお会いする     ルカによる福音書第21章25~31節  降臨節第1主日   2024.12.01


 教会暦は年が改まりました。降臨節第1主日に与えられている聖書日課は、旧約聖書、使徒書、福音書ともに「終わりの時」について記しています。
 私たちは、日々、ニケヤ信経や使徒信経によって信仰の告白をしていますが、その中で天に昇った主イエスが再び「生きている人と死んだ人とをさばくために来られます」と唱えます。また、今日の福音書の中にも、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを人々は見る」と記しています。
 始めに「人の子」という言葉に触れておきたいと思います。
 「人の子」とは、「アダムの子」つまり「神に創られた人間の子」を意味して用いられる場合と、特別に「神の国における権能を授けられた者」のという別の意味で用いらる言葉であり、今日の聖書日課福音書の箇所では、主イエスが「人の子」という言葉を用いてご自身が「神の子、救い主、裁き主」であることを含みつつ用いられています。
 新約聖書は、どの書も主イエスの死と復活と昇天の後に救い主イエスを証して記されており、天に昇った救い主イエスは最終的に神の御心が完成する時に再びおいでになるという考えがあます。この考えを教会は古くから「キリストの再臨」と言い、キリスト教の教理や思想が体系化する上での一つの大切な要素になりました。救い主イエスが再び雲に乗ってこの世に来るという考えは、科学的に証明されることが正しいことと考える時代の世界観による理解とは異なり、現代にはなかなか受け入れられなくなり誤解される事も多くなっています。また、キリスト教から派生した宗教団体や色々な宗教の思想を寄せ集めて教義とする宗教団体の中には、聖書の教える「終わりの時」を本来の考えとは違う意味で教え、人々の不安を煽ったり、「終わりの時」の日時までをほのめかしてその異端の教理に従うように誘う人たちがいます。
 そうした状況の中で、私たちは聖書が告げている「終わりの時」についてどう考え、どのような態度でいるべきなのでしょうか。また私たちはどのように「終わりの時」に備えるべきなのでしょうか。
 今から2千年近く前の中東やヨーロッパの人々の世界観を簡単に思い起こしてみましょう。
 現代のように実験で証明する科学の世界観と違い、当時の人々は天地の動きも含めて世界の全てが神の支配下にあると考えました。天地の変動も神の御手の業であり、自然の動きも神の意思の表れと考えられ、その大きな変動は神が何か特別なことを起こすことに連動すること考えられました。ことに当時のユダヤ人にとって大きな地震や火山の噴火などの現象は人の子(つまり裁き主)来臨の前兆とも理解されていました。そのため、ことに占星術などを行う学者たちの中には、最終的な審判の開始が告げられる前触れと理解する者もいたのです。
 今日の聖書日課福音書の中でも、第21章25節から27節にかけて、主イエスは当時のそのような世界観を前提にしてお話しになっている様子が伺えます。
 そのような世界観の中にあれば、日頃神の御心から離れている人々にとっての天変地異は、神からの裁きとして我が身を振り返らざるを得ない出来事になったのではないでしょうか。当時の人々が本当に恐れていたのは天変地異そのものといより、その現象と共に起こる「人の子の来臨」であり「神の審判」であったことが想像されます。そうであれば、「諸国の民」(21:25)や「人々」(21:26)にとって、人の子の到来は恐ろしい出来事と思われたことでしょう。もしその時が来たら、多くの人々は怯えて人の子から顔をそらし、為す術もなく地にひれ伏すほか無かったのかもしれません。
 しかし、主イエスはこう言っておられます。
 「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ(21:18)。」
 イエスを救い主と信じない人々にとって、最終的な裁きは不安であり恐怖でさえあるでしょう。でも、イエスを救い主として受け入れ信じて生きる人々にとって、最終的に神の御前に立つことは不安や恐怖ではなく、自分の大切な人に迎え入れてもらえることにも似て、いやそれ以上に、神に受け入れられる喜びであり、救いに導かれることなのです。
 今日の聖書日課福音書の箇所を更に先まで読んでいくと、主イエスは第21章34節で次のように言っておられます。
 「放縦や深酒の生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなた方を襲うことになる。」
 今から2千年前にも、罪の中にあって心に不安や恐れを抱えたまま生活を乱し、酒に溺れ、生きる意欲を失う人がいたようです。でも、主イエスを救い主として受け入れて信じる人々には、人の子の来臨は全てを赦されて解放される時になるのだから、その時のために安心して自分の成すべき勤めを行う希望になるのです。人の子の来臨がいつであれ、その時にそのままの自分が人の子の前に進み出れば、私たちはしっかりと神の御許に受け入れていただけるのです。そうであれば、私たちはいつ「人の子」にお会いしても良いのであり、日々神の御心に応えて誠実に生きているのであれば、私たちはやがて神の御許に迎えられる希望と喜びの中で生きていくことができるのです。
 パウロはテサロニケの信徒への手紙Ⅰ第5章1節以下の箇所で次のように言っています。
 「兄弟たち、その時と時期についてはあなたがたに書き記す必要はありません。盗人が夜やってくるように、主の日は来ると言うことを、あなたがた自身よく知っているからです。」
 主イエス・キリストが再び来られる日を私たち人間の側で、何時、どのように、などと決めてはならないし、決める事など出来ません。なぜなら、神のなさることを人が出来るかのように思い上がったり、神に生かされている私たちが勝手に主の再臨の時が何時か等と決めつけることは、私たち人間の考えの中に神の働きを閉じこめて神の働きを人間の考えの中に留めようとする傲慢に他ならないことだからです。
 もし私たちに、救い主イエスがの来臨の時がいつなのかが分かったとして、私たちがその時だけのために自分の体裁を整えるのであれば、それはあまりに不誠実であり、そのようにして繕わなければならない自分であることを神と周囲の人々に示していることに他なりません。
 主イエスが再びおいで下さることを待ち望む人は、何時その時を迎えるのか分からない中で、目の前のこと一つひとつを大切にして、何時主イエスにお会いしても良いように悔いのないように生きているはずです。仮に人生の半ばで自分の命が絶えるような時が来たとしても、本当に主の来臨を待ち望んでいる人であれば、与えられた自分の人生の限界の中で、常に自分らしく精一杯生きる事を通して神の御心を現して生きていこうとすることでしょう。
 その意味で、「神の国が近づいている」こととは、神の御心によって私たち一人一人の生き方を問い返されつつ、神に応えて生きることに深くつながっているのです。
 神の光に照らされる私たちは、その時に私たちは神の愛と赦しがなければ、罪と過ちだらけの自分がクッキリと照らし出されて耐えることが出来なくなることでしょう。でも、そのような自分であっても、私たちは既に主イエスによって罪の赦しを与えられ、私たちは神の完全な愛によって受け入れられています。
主イエスを救い主として受け入れ信じる私たちには、裁き主なる神とお会いすることは恐れではなく既に喜びに変えられています。
 神の永遠のお働きの中で、私たちは誰もが取るに足りない小さな存在ではありますが、一人ひとりが神に愛され、赦されて、終わりの時に救い主イエスとお会いすることに向かって生きています。そのように生きるとき、私たちを再び来られる主イエスとお会いすることは恐れではなく、希望であり、喜びであり、その希望と喜びはこの世に生きることに避けられない多くの苦しみや悲しみの時を短くしてくれると主イエスは教えてくださいました。
 主イエスは私たちをを滅ぼすためではなく生かすために、貧しいお姿で生まれ、十字架にお架かりになり、死んで葬られ、復活し、天に昇られました。そして私たちを神の御心が完成した世界へと招くために再び来られることを私たちは信じています。
 降臨節に入りました。私たちは、今から二千年前に私たちのためにお生まれになった主イエスに思いを向けると同時に、再びおいでになる主イエスを迎える備えしつつ、今年も御子のご降誕を記念する日を共に感謝して迎えることができますように。
posted by 聖ルカ住人 at 09:45| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする