神の人口調査 ヨハネによる福音書1:1~14,ルカによる福音書第2:1~18 降誕日 2024.12.25
主イエス・キリストのご降誕を感謝し、お喜び申し上げます。
降誕日の聖書日課福音書として、ヨハネによる福音書の冒頭の箇所が採り上げられています。
「初めに言があった。言は神と共にあった。」で始まるヨハネによる福音書第1章のこの箇所を私なりに解釈を加えて言えば、次のようなことになるでしょう。
主なる神は天地創造の始めからご自身のお考え(ロゴス)があり、そのお考え(ロゴス)が人となってこの世に表された。この世に人となって表されたお考え(ロゴス)こそ救い主イエスであると、この福音書を記したヨハネは私たちに伝えているのです。
そして、そのロゴス顕現の具体的な物語が、例えばルカによる福音書ではベツレヘムへの強いられた旅の中でイエスが誕生することや救い主誕生の知らせが先ず羊飼いに届けられることで描かれていると言えるでしょう。
聖書の成立の順に言えば、イエスの生まれと働きはやがてギリシャ思想によって「ロゴス」という言葉で讃えられるようになったということかもしれません。
紀元前63年にイスラエルの中心地であったエルサレムはローマ軍によって陥落し、神殿も崩壊してしまします。それ以降イエスの生まれる頃も、イスラエルはローマ帝国の属領になっていました。その時代のローマ皇帝であったアウグストスは、紀元前31年に王位に着き、44年近くローマ帝国を治めました。
ローマ皇帝アウグストスは、占領下にある諸領の人口調査を行いましたが、とりわけユダヤの人々が強い民族意識(選民意識)を持ちその血統を重んじていることから、ユダヤの巡礼祭の時を狙い、先祖の町に戻って住民登録をするように命じたと伝えられています。
この住民調査の目的は、第一に徴兵つまり被征服の民をローマ帝国の下級兵士として働かせるための台帳をつくることであり、第二には徴税つまり征服するユダヤを治める費用を取り立てて占領地の力を奪うことにあったと考えられています。
しかし、同じイスラエルの民の中に、このような人口調査の対象にならない人々がいました。その人たちは、先祖の町からはじき出され、交わりを絶たれ、また町の生活に適応できずに社会に背を向けた人々であり、彼らは「地の民」と呼ばれました。重い皮膚病を患って周りの人々から「汚れた者」と呼ばれる人、ローマの手先のようになってイスラエルの民から税金を取り立てる徴税人やローマ兵に媚びを売る遊女たちのように「恥知らず」「裏切り者」と蔑まれ罵られる人もいたのです。また、羊飼いたちのように安息日も守らず町の生活には馴染まないよそ者と軽蔑される人々もいました。
こうした貧しく卑しいとされる人々の多くは、自分からその生き方を選んだのではなく、そのようにしか生きられない事情があり、それぞれに深い傷や痛みを抱えていたのです。
ローマ皇帝アウグストスの人口調査は、一人ひとりの生きる思いや背景などは問題にすることなく、人々の頭数が税金額に換算され、武力や兵力として換算されました。
その一方で、そのような世界にあって、失われた人、生きる力を奪われた人を訪ね、その人々たちに神の愛を届け新しく生まれ変わるように支える救い主が現れました。
そのお方は、未婚の母のような者を母とし、旅する人が駱駝やロバをつないでおく洞窟同然の家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされて、この世での働きが始まります。そして、人々の業績や地位や財力を求めて調査するのではなく、一人ひとりの生き様とその心の奥底でその人と出会うために、人と共に生きることに徹してその生涯を送ることになります。
このお方が送られた世界では、人々が奪い合い、蹴落とし合い、潰し合っています。救い主イエスは人として宿を取る場所もないままに飼い葉桶の中に身を横たえてこの世に来て下さいました。
この救い主降誕の知らせが、最初に届いたのは羊飼いのところでした。
羊飼いは、流れ者、無法者の仕事でした。人々との交わりもなく、荒れ野で羊を相手に暮らします。それぞれにそのようにしてしか生きていけない孤独な人が、夜だけは狼や強盗から羊たちを守り自分を守るために一緒に過ごします。しかし、互いに水や緑のある場所の情報交換もせず、朝になるとそれぞれに自分の羊を導いたと伝えられています。主なる神は、そのような人々にこそ、神の子救い主を送る必要があったのです。
主なる神は天使を遣わし、権力者たちが調査の対象外とする羊飼いたちに、真っ先に「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである(ルカ2:11)」と伝えます。
救い主は、藁の寝床におられます。天使は「これがあなたがたへのしるしである(2:12)」と言います。
ローマ皇帝アウグストとは全く違う天の王 King of Kings の姿がここにあります。また、ローマ皇帝アウグストの人口調査とは全く違うアプローチで人々に近づき、弱く貧しい人を理解し、財を奪うのではなく愛を与えて、自分の権力を維持するために人を兵器のように使うのではなく「地の民」にも神の御心が現れ出るように共に生きる王がこの世に与えられたのです。
羊飼いたちは、天のメッセージを受けて喜びました。
「町の人々と交わることもなく野原で無法者のように生きる私に、救い主が共にいてくださるという知らせが届いた!飼い葉桶の嬰児は神が私たちのような者とも共にいてくださることの徴だ!神は、ただ滅んでいくように生きていた私のことをも見捨てず、愛してくださっている!」
羊飼いたち一人ひとりに愛される喜びと感謝が生まれてきます。
羊飼いはその徴を確かめるために、ベツレヘムに急ぎます。そして洞窟のような家畜小屋の中に聖家族を見つけました。彼らは、主なる神のロゴスに出会いました。
この救いの徴は、徴税、徴兵の徴ではなく、主なる神が私たちを愛しご自身をお与えくださる徴です。
ルカによる福音書第2章17節にはこのように記されています。
「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使から告げられたことを人々に知らせた。」
神殿の指導者をはじめとする町の人々と交わりをもつこともなく、荒れ野で過ごす羊飼いは、聖家族が町の人々からはじき出されるようにして塒とする家畜小屋で、神の愛を見つけました。しかも羊飼いはその出来事を喜びをもって人々に伝え始めるのです。
神はこのようにご自身のロゴスを御子イエス・キリストを通してこの世に宿しました。主イエスは、私たちの心の奥底の、貧しく汚れた片隅に宿って下さる神の意思(ロゴス)であり救い主なのです。
今年も幼稚園のページェントで羊飼い役の子どもたちは歌いました。
「もしも主イエスに会いたいのなら、歩いて行こう、小さな馬屋へ。」
その「小さな馬屋」とは、私たちの心の奥底の貧しく弱く汚れた片隅に他なりません。
主イエスが私たちの醜さや貧しさの中に宿って下さることを信じて、私たちも羊飼いのように立ち上がって歩き始めましょう。
「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせて下さったその出来事を見ようではないか(ルカ2:15)」。
主なる神は、迷える者、悩む者、傷む者、苦しむ者を探し当て、受け容れ、愛し、私たちを神の祝福の中に生かしてくださいます。それに応えて、私たちも御子イエス・キリストを探し当て、羊飼いたちのようにその喜びに与り、御子のご降誕を喜び合いたいと思います。