2024年12月25日

神の人口調査 ヨハネによる福音書1:1~14,ルカによる福音書第2:1~18    降誕日  2024.12.25

神の人口調査        ヨハネによる福音書1:114,ルカによる福音書第2:118    降誕日  2024.12.25

 主イエス・キリストのご降誕を感謝し、お喜び申し上げます。

 降誕日の聖書日課福音書として、ヨハネによる福音書の冒頭の箇所が採り上げられています。

 「初めに言があった。言は神と共にあった。」で始まるヨハネによる福音書第1章のこの箇所を私なりに解釈を加えて言えば、次のようなことになるでしょう。

 主なる神は天地創造の始めからご自身のお考え(ロゴス)があり、そのお考え(ロゴス)が人となってこの世に表された。この世に人となって表されたお考え(ロゴス)こそ救い主イエスであると、この福音書を記したヨハネは私たちに伝えているのです。

 そして、そのロゴス顕現の具体的な物語が、例えばルカによる福音書ではベツレヘムへの強いられた旅の中でイエスが誕生することや救い主誕生の知らせが先ず羊飼いに届けられることで描かれていると言えるでしょう。

 聖書の成立の順に言えば、イエスの生まれと働きはやがてギリシャ思想によって「ロゴス」という言葉で讃えられるようになったということかもしれません。

 紀元前63年にイスラエルの中心地であったエルサレムはローマ軍によって陥落し、神殿も崩壊してしまします。それ以降イエスの生まれる頃も、イスラエルはローマ帝国の属領になっていました。その時代のローマ皇帝であったアウグストスは、紀元前31年に王位に着き、44年近くローマ帝国を治めました。

 ローマ皇帝アウグストスは、占領下にある諸領の人口調査を行いましたが、とりわけユダヤの人々が強い民族意識(選民意識)を持ちその血統を重んじていることから、ユダヤの巡礼祭の時を狙い、先祖の町に戻って住民登録をするように命じたと伝えられています。

 この住民調査の目的は、第一に徴兵つまり被征服の民をローマ帝国の下級兵士として働かせるための台帳をつくることであり、第二には徴税つまり征服するユダヤを治める費用を取り立てて占領地の力を奪うことにあったと考えられています。

 しかし、同じイスラエルの民の中に、このような人口調査の対象にならない人々がいました。その人たちは、先祖の町からはじき出され、交わりを絶たれ、また町の生活に適応できずに社会に背を向けた人々であり、彼らは「地の民」と呼ばれました。重い皮膚病を患って周りの人々から「汚れた者」と呼ばれる人、ローマの手先のようになってイスラエルの民から税金を取り立てる徴税人やローマ兵に媚びを売る遊女たちのように「恥知らず」「裏切り者」と蔑まれ罵られる人もいたのです。また、羊飼いたちのように安息日も守らず町の生活には馴染まないよそ者と軽蔑される人々もいました。

 こうした貧しく卑しいとされる人々の多くは、自分からその生き方を選んだのではなく、そのようにしか生きられない事情があり、それぞれに深い傷や痛みを抱えていたのです。

 ローマ皇帝アウグストスの人口調査は、一人ひとりの生きる思いや背景などは問題にすることなく、人々の頭数が税金額に換算され、武力や兵力として換算されました。

 その一方で、そのような世界にあって、失われた人、生きる力を奪われた人を訪ね、その人々たちに神の愛を届け新しく生まれ変わるように支える救い主が現れました。

 そのお方は、未婚の母のような者を母とし、旅する人が駱駝やロバをつないでおく洞窟同然の家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされて、この世での働きが始まります。そして、人々の業績や地位や財力を求めて調査するのではなく、一人ひとりの生き様とその心の奥底でその人と出会うために、人と共に生きることに徹してその生涯を送ることになります。

 このお方が送られた世界では、人々が奪い合い、蹴落とし合い、潰し合っています。救い主イエスは人として宿を取る場所もないままに飼い葉桶の中に身を横たえてこの世に来て下さいました。

 この救い主降誕の知らせが、最初に届いたのは羊飼いのところでした。

 羊飼いは、流れ者、無法者の仕事でした。人々との交わりもなく、荒れ野で羊を相手に暮らします。それぞれにそのようにしてしか生きていけない孤独な人が、夜だけは狼や強盗から羊たちを守り自分を守るために一緒に過ごします。しかし、互いに水や緑のある場所の情報交換もせず、朝になるとそれぞれに自分の羊を導いたと伝えられています。主なる神は、そのような人々にこそ、神の子救い主を送る必要があったのです。

 主なる神は天使を遣わし、権力者たちが調査の対象外とする羊飼いたちに、真っ先に「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである(ルカ2:11)」と伝えます。

 救い主は、藁の寝床におられます。天使は「これがあなたがたへのしるしである(2:12)」と言います。

 ローマ皇帝アウグストとは全く違う天の王 King of Kings の姿がここにあります。また、ローマ皇帝アウグストの人口調査とは全く違うアプローチで人々に近づき、弱く貧しい人を理解し、財を奪うのではなく愛を与えて、自分の権力を維持するために人を兵器のように使うのではなく「地の民」にも神の御心が現れ出るように共に生きる王がこの世に与えられたのです。

 羊飼いたちは、天のメッセージを受けて喜びました。

 「町の人々と交わることもなく野原で無法者のように生きる私に、救い主が共にいてくださるという知らせが届いた!飼い葉桶の嬰児は神が私たちのような者とも共にいてくださることの徴だ!神は、ただ滅んでいくように生きていた私のことをも見捨てず、愛してくださっている!」

 羊飼いたち一人ひとりに愛される喜びと感謝が生まれてきます。

 羊飼いはその徴を確かめるために、ベツレヘムに急ぎます。そして洞窟のような家畜小屋の中に聖家族を見つけました。彼らは、主なる神のロゴスに出会いました。

 この救いの徴は、徴税、徴兵の徴ではなく、主なる神が私たちを愛しご自身をお与えくださる徴です。

 ルカによる福音書第2章17節にはこのように記されています。

 「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使から告げられたことを人々に知らせた。」

 神殿の指導者をはじめとする町の人々と交わりをもつこともなく、荒れ野で過ごす羊飼いは、聖家族が町の人々からはじき出されるようにして塒とする家畜小屋で、神の愛を見つけました。しかも羊飼いはその出来事を喜びをもって人々に伝え始めるのです。

 神はこのようにご自身のロゴスを御子イエス・キリストを通してこの世に宿しました。主イエスは、私たちの心の奥底の、貧しく汚れた片隅に宿って下さる神の意思(ロゴス)であり救い主なのです。

 今年も幼稚園のページェントで羊飼い役の子どもたちは歌いました。

 「もしも主イエスに会いたいのなら、歩いて行こう、小さな馬屋へ。」

 その「小さな馬屋」とは、私たちの心の奥底の貧しく弱く汚れた片隅に他なりません。

 主イエスが私たちの醜さや貧しさの中に宿って下さることを信じて、私たちも羊飼いのように立ち上がって歩き始めましょう。

 「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせて下さったその出来事を見ようではないか(ルカ2:15)」。

 主なる神は、迷える者、悩む者、傷む者、苦しむ者を探し当て、受け容れ、愛し、私たちを神の祝福の中に生かしてくださいます。それに応えて、私たちも御子イエス・キリストを探し当て、羊飼いたちのようにその喜びに与り、御子のご降誕を喜び合いたいと思います。

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2024年12月22日

マリア、エリサベトに会いに行く ルカによる福音書第1章39-45 降臨節第4主日

マリア、エリサベトに会いに行く  ルカによる福音書第1章3945 降臨節第4主日 2024.12.22


 降誕日を迎える直前の主日、降臨節第4主日です。この日の聖餐式日課福音書は、マリアがエリサベトを訪ねた物語の箇所が採り上げられています。

 既に年老いていたエリサベトは聖霊の働きによってお腹に子どもを宿しています。その胎児が洗礼者ヨハネになります。夫の祭司ザカリアに天使が現れて妻エリサベトが身ごもることを伝えてから6ヶ月が過ぎました。天使ガブリエルがナザレの乙女マリアに現れ、マリアは聖霊の働きによって身ごもって男の子を出産することを告げたのでした。

 当時、マリアはまだ未婚の、恐らく10代半ばの年齢だったと思われます。自分が男の子を産んで、しかもその子は「いと高き方の子」と言われ、主なる神がその子に「父ダビデの王座を与える」というのです。マリアはこれを聞いて驚き、戸惑い、「どうして、そのようなことがありえましょう」と応じます。

 すると、天使ガブリエルはマリアに更にこう告げたのでした。

 「あなたの親戚のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」

 マリアは「お言葉どおり、この身になりますように。」と応えます。

 私には、マリアが天使ガブリエルの言葉を感謝して喜んで受け入れたとはとても思えません。むしろマリアはこの言葉に、驚き、戸惑い、恐れたのではないでしょうか。

 それでもマリアは最後には「お言葉どおり、この身になりますように」と応えます。そして、このマリアが、親類のエリサベトに会いに行く場面が今日の聖書日課福音書の箇所です。エリサベトは、マリアより6ヶ月先にお腹に子を宿し、その子は洗礼者ヨハネになるのです。

 受胎告知を受けたマリアは「急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そしてザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した(1:39)」と記されています。

 マリアが暮らしていたのはガリラヤ地方のナザレです。そこから祭司ザカリアとその妻エリサベトが暮らすユダの地方までの距離は直線でも100㎞あります。当時、女性がわざわざそれほどの距離を旅することは不自然であり、あり得ないことです。それにも関わらず、マリアがエリサベトを訪問したとすれば、マリアにはどうしてもエリサベトに会わねばならない特別な理由、思いがあったのでしょう。

 マリアがエリサベトを訪ねた意図を考えてみましょう。

 一つは、周りの目を避けることです。

 マリアはこれから次第にお腹が大きくなってきます。律法による規範の強い社会の中で、これからマリアは世間から未婚の母であるかのように思われ、冷たい視線を浴びることにもなるでしょう。マリアの受胎について、他の誰一人として「聖霊によって身ごもった」と理解する人はいないでしょう。「汚れた女」と見られかねないマリアは、ひとまず人目を避けて、遠いユダの町にいる親類の所に急いだことが考えられます。

 それだけではなく、マリアはエリサベトに会おうとする強い思いがあったものと思われます。それは、エリサベトにも子どもが宿り既に6ヶ月になっているということを天使ガブリエルから知らされたことです。エリサベトの身にも不思議なことが起こっています。マリアは自分の身に起ころうとしていることの不思議さと驚きをきっと似たような経験をしているエリザベトと分け合いたいと思ったのでしょう。

 エリサベトは子どもが与えられないまま年を取りました。当時の社会では子を産まずに年老いた女性は、「赴任の女」「石の女」と言われ、蔑まれていました。マリアはエリサベトが身ごもっているという知らせを聞き、実際にエリサベトに会って、エリサベトと自分に起こっている事の意味を確かめたいと思い、急いでユダの町へと旅に出たのではないかと考えられます。

 マリアは天使ガブリエルから受胎の告知を受けた時、「お言葉どおりこの身になりますように」と応えましたが、信じられないことが我が身に起こっています。マリアは、それを神に委ねて「神の思いのままになりますように」と祈るほかありません。親類のエリサベトも老齢で子を宿し、何か神の御業を感じているはずです。マリアは直ぐにもエリサベトに会わずにはいられない思いになり、ユダの町へと急いだのでしょう。

 「ユダの町」とはかなり曖昧な広い範囲を意味しますが、ザカリアとエリサベトの住まいは、エルサレム神殿から西に6㎞近く離れた現在のエンカレムであろうと考えられています。今はこの小さなエンカレムの町に、マリアがエリサベトを訪ねたことを記念して建てられた「訪問教会」があります。

 マリアはザカリアの住まい入り、エリサベトに挨拶しました。当時のイスラエルの人にとって「挨拶する」とは、「シャローム」と言ってその人の平安を祈ることであり、マリアもきっとそうしたのでしょう。

 エリサベトはマリアのその言葉を聞いた時、お腹の子(洗礼者ヨハネ)が喜び踊りました。「喜び踊る」とは原語のギリシャ語では「飛び跳ねる」という意味の言葉です。エリサベトのお腹の子はやがて救い主イエスの到来を告げて人々に悔い改めを訴える働きをする人になるのです。エリサベトのお腹の子は、救い主を宿したマリアの訪問に、母エリサベトの胎内で喜び踊った(飛び跳ねた)のです。

 エリサベトは聖霊に満たされて言います。

 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう(1:45)」。

 繰り返しになりますが、マリアは天使の御告げに戸惑いながらも、自分を主の言葉に委ね、その言葉の通りになるようにという思いで、エリサベトを訪ねてきました。エリサベトはマリアに会って、マリアを祝福し、主なる神を褒め称えるのです。そして、イエスより半年早く生まれるヨハネもエリサベトのお腹で、神の子イエスの誕生を喜び踊っています。この喜びの姿はクリスマスの喜びの先取りとも言えるでしょう。

 この物語には、辛さ、苦しさ、厳しさ、驚きの中で人が神と出会い、やがてそのことから感謝と賛美へと導かれる姿がえがかれています。こうしてマリアは三ヶ月ほどエリサベトと共に過ごし、またナザレに帰っていきました。おそらくエリサベトの出産が迫っている頃だったでしょう。

 今日の聖書日課福音書は、ルカによる福音書第1章42節~47節までがエリサベトの言葉です。エリサベトはこの言葉を「聖霊に満たされて、声高らかに」言っています。つまりこれはエリサベトの賛歌です。

 自分が主と信じる神の子の母親となるお方が自分を訪ねてくれたことの幸せと自分の胎内にいる子どもも喜び飛び跳ねていることを歌い、マリアが「主がおっしゃったことは必ず実現する」と信じて自分を訪ねてくれる幸せと、そのように信じるマリアの幸せをエリサベトは歌っています。エリサベトは、神の御心が実現することを信じる者の幸せを声高く歌うのです。

 そして、(ここでは、更にこの先にまで踏み込む余裕はありませんが)マリアはこのエリサベトの祝福の言葉に応えて「マリアの賛歌(マグニフィカート)」を歌うのです。

 マリアがこの賛歌を歌ったのは、マリアとエリサベトが共に人の思いを越えた神のご計画の中で子を宿し、二人が出会って互いに心を通わせ、マリアがエリサベトから祝福された時に、マリアから神を賛美する歌が溢れ出てくるのです。

 マリアの賛歌は、マリアが天使ガブリエルから受胎告知を受けたことに応える歌ではなく、マリアがエシサベトに迎え入れられ祝されたことに応えて生まれた賛歌であることを、私たちは確認しておきましょう。

 エリサベトとマリアは互いに「おめでとう」と言って、共に神に生かされていることを祝福し合うことが出来ました。

 主なる神は、私たちにもそれぞれに働きかけてくださっています。その働きかけは、時に私たちにとって、戸惑いとなり不安や驚きになることもあるかもしれません。神は私たちのことも、人の思いを超えた神の大きなご計画の中にそれぞれを生かしてくださっていることに感謝する時が必ず来るのです。神の御子イエス・キリストはその証となって、お生まれになり、十字架に死に、甦り、天に昇られました。その御子イエス・キリストのご降誕を感謝して祝う日が近づきました。私たちの最も深く暗い所に御子イエス・キリストを迎え入れることができますように。

 その喜びと感謝を信仰告白するクリスマスを迎えられますように。

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2024年12月15日

悔い改めの実を結べ  ルカによる福音書第3章7~18      降臨節第3主日

悔い改めの実を結べ   ルカによる福音書第3章7~18      C年降臨節第3主日    2024.12.15


 主イエス御降誕の備えをする3つ目の主日になりました。

 今日の聖書日課福音書は先主日の箇所を引き継いで、ルカによる福音書第3章7節からの箇所が採用されており、救い主を迎える準備をするように訴えた事が記されています。先主日の福音書の主題は「主の道を備える」ことでしたが、今日の箇所はそれに続けて、洗礼者ヨハネが「悔い改める」ことを厳しい言葉で訴えています。

 今日の福音書のテーマである「悔い改める」ということについて、私たち日本人は「悪かった」とか「間違った」という感情に重点を置いてこの言葉を用いており、悪を行った者に対しても、その人が反省しているならそれ以上波風立てずにその悪い行いを無かったことにし、それ以上関わらないというような、「無節操な赦し」とも言える態度を取る人も少なくありません。

 聖書の伝える「悔い改め」とは、そのような「反省」のことを言うのではなく、生きる基盤を完全に変えること、生きる方向をを完全に転換することを意味していると言うことを先ず理解しておきましょう。

 洗礼者ヨハネは厳しい言葉で人々に悔い改めを説きました。ヨハネは群衆に向かってこう呼びかけます。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか。」

 「蝮の子らよ」とは、「神に逆らい敵対する者の罪を暴き、その責任を問うときに発せられる呼びかけ」です。当時のイスラエルの民は、自分たちは神に選ばれた民であると誇り、特に指導者たちはそのエリート意識の上にあぐらをかいて権力を振るい、律法の枠の中にいられず社会からはじき出された人々や落ちこぼれた人々を罪人扱いしていました。洗礼者ヨハネは、そのような社会を当たり前であるかのように生きる人々に対して悔い改めを迫ったのです。

 旧約聖書の創世記には、この世界の最初の人であるアダムとエバがヘビの巧みな誘いにのって罪を犯した物語があります。「蝮の子ら」とは、自分たちの罪を認めず、ちょうどアダムとエバを罪に引き入れたように、神に敵対して他の人々を神の御心から引き離す者への呼びかけの言葉なのです。

 洗礼者ヨハネのことを振り返ってみましょう。洗礼者ヨハネの父は祭司ザカリアです。祭司職はレビ族によって受け継がれる世襲の職務ですから、ヨハネも当然祭司として、ユダヤ教の伝統によって神殿での儀式を行なって生きていくはずでした。しかしヨハネは30歳を過ぎた頃、荒れ野に出て、駱駝の毛衣を身にまとい、いなごや野密を食べ物とする清貧の生活へと転身し、救い主を迎える備えをすることを宣べ伝える預言者として生きるようになります。ヨハネは、自分の人生を、当時のユダヤの伝統に則って神殿での儀式を行っていればそれで良しとするのではなく、来たるべき救い主にお会いするにはどうすべきかを真剣に考え、父ザカリアまで続いた祭司職を捨てて、荒れ野に出て、そこから人々に厳しく悔い改めを促す働きを始めたのです。

 ヨハネは言います。「悔い改めにふさわしい実を結べ。」

 ヨハネは、悔い改めにふさわしい結果を示すように贅沢に生きる人、徴税人、兵士などに、具体的な生活の悔い改めを教えます。ヨハネがこのように徹底した悔い改めを訴えることには、自分の直ぐ後に登場する救い主についての確信がありました。その確信は、「自分の後に来るお方が、人々に完全な赦しと愛を与えて下さるのであり、その徴として聖霊と火による洗礼を授けてくださる」ということでした。

 そのお方を迎え入れるためには、「悔い改め」が必要なのです。

 私たちが生きる上で、パウロが経験したような大きな回心につながる「悔い改め」が起こることもあるでしょう。でも、私たちには、日毎の生活の中での「悔い改め」が必要であることを、別の視点から考えてみたいと思います。

 今から半世紀以上前の教会教育の中で、人間の成長について説明するために「ジョハリの窓」という考えの枠組みが用いられるようになりました。

 人間の心の中には4つの窓があります。四角形の中に縦の棒と横の棒を書いて、そこに出来る4つの領域を心の4つの窓として想像してみると良いかと思います。

 「ジョハリの窓」の4つの窓のうちの一つは、自分も他人も知っている(open)窓です。二つ目の窓は、自分では知っているけれど他の人は知らず共有されていない(hidden)窓です。三つ目は、自分のことでありながら自分では知らず気付かないのに他の人は気付き知っている(blind)窓です。そして、四つ目はopenの対極の自分も他人も知らず気付いていない(dark)窓です。人は他の者と関わりながら、自分を開き、また他者に映し出される自分を受け入れたり他者からの反応(feedback)を受けて色々な気付きを与えられ、先に述べた自分ではまだ気付いていない窓(blinddark)の領域を開き、掘り起こして、openの窓の領域を広げていくことが人間の心理的精神的な成長につながると説明しています。

 私たちの心にはこの4つの窓があって、私たちは他者との交わりの中で、共にそれぞれにopenの窓を開いていくのです。私たちは人と人との交わりの中にいてくださる神から共にメッセージを受けながら、それぞれの心の窓を開いていくものなのです。

 悔い改めず心を頑なにする者は、自分の領域の壁を厚くして、自分にとって不都合なことや気付いていないことなどを拒否する者のことであり、それは神が送ってくださる自分の思いを超えたメッセージを拒むことにつながります。それは、自分の中にある罪に目を向けず、自分に見えている窓の部分だけで意地を張り、我を押し通すようなことにもつながります。

 自分の罪に気付きその自分を認めることは、時には辛さや苦しさを伴うかもしれません。でも、自分の罪を認めることは、ありのままの自分として、本当の自分として、地に足の着いた本物の自分になって生かされるためには必要なことなのではないでしょうか。

 その意味でも、救い主を迎え入れるために、悔い改めることが必要であり、洗礼者ヨハネは厳しい言葉で悔い改めを迫るのです。

 また、悔い改めず、悔い改めを迫る者を拒否する者の例として、ヘロデ・アンテパスは洗礼者ヨハネの首をはね、ユダヤ教指導者たちは主イエスを十字架へと追いやることなどへとつながっていくことを、福音記者たちは物語っているのです。

 洗礼者ヨハネは、人々のえぐり出してその罪を責め立てるために悔い改めを説いたのではなく、自分の後に来る救い主を迎え入れ、そのお方によって赦された喜びを知り、神の御心に立ち返って生きることが出来るように、悔い改めを説きました。ヨハネは「自分の心の中に巣くう罪に気付き、悔い改めて、救い主を受け入れて、神の御心に生かされる者となれ!」と訴えたのでしょう。そして、それがヨハネの言う「主の道を備える」ことになるのです。

 私たちは、今日の聖書日課福音書から、悔い改めとは単に道徳に反する行為を止めるということではなく、心を神に向けて開くことであることを学び、心に刻みたいと思います。洗礼者ヨハネが悔い改めを説くその直ぐ後には、救い主の訪れが準備されていることを私たちは知っています。

 自分の罪を知りそれを認めることは、神に裁かれて捨てられることではなく、救い主イエスによって示された神の愛へ招かれ導かれる恵みであることを覚えたいと思います。

 救い主イエスのご降誕を祝う準備をするこの期節に、私たちは洗礼者ヨハネを通して与えられている悔い改めのメッセージを心に深く受け止め、一人ひとりが救い主イエスをお迎えできるよう、良き備えを進めて参りましょう。

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2024年12月09日

伝えておくべきこと(自分の葬儀のこと)

伝えておくべきこと(自分の葬儀のこと)

  ご高齢の教会員が逝去され、葬送式を致しました。この方は以前よりご家族に「私の葬式は教会でしてくれ」と伝えていたと伺いました。

 自分の信仰をしっかり家族に伝えていないと、その人の信仰とは違う形式で葬儀が行われてしまう例があります。誰も自分で自分の葬儀を行うことは出来ませんので、自分の葬儀は他者に委ねなければなりません。

 私は幼児洗礼を受けながら少年時代には教会から離れていました。しかし、祖母の葬儀が教会で行われ、皆が祈り聖歌を歌い祖母を神の御許に送ってくださる中で、自分の死後を他者に委ねなければならないことに気づき、私はそれまでの自分の傲慢さをへし折られる思いになりました。

 「自分は誰に送ってもらうのだろう。どのように、どこに送ってもらうのだろう。」

 それは、自分が何を根拠にどのように生きるのかということに基づく大切な課題であることにも思い至りました。

 自分の信仰に拠らない葬儀は、例えて言えば、自分の魂が青森に行くのに遺族が大阪行きのホームに集まって別れの儀式をされてしまうようなすれ違いの姿です。

 私はそうなりたくないと思い、自分の信仰を明らかにする決心をしました。それは、放蕩息子の帰還でした。

 信徒は「私が死んだらキリスト教で葬式をしてね。」と家族にしっかり伝えましょう。できればそれに続けて「自分で自分の葬式は出せないよ。あなたも教会につながって一緒に礼拝しましょう。イエス様に迎えていただく備えを一緒にしましょう」と教会の礼拝にご家族の方をお誘いください。

 そして、このような聖歌を歌いつつ、同じ信仰をもつ人々と信仰生活を送り、主なる神の御許に送られたら、私は安らかに逝けるように思うのです。

 「いつくしみ深き主の手にひかれて

 この世の旅路を歩むぞ 嬉しき

 いつくしみ深き主の友となりて

 み手に導かれ 喜びて歩まん](聖歌520)

2024年12月1日


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2024年12月08日

主の道を整える   ルカによる福音書第3章1~6節

主の道を整える   ルカによる福音書第3章1~6節      降臨節第2主日   2024.12.08

(39) 2024年12月8日 - YouTube この日の説教動画 


 主イエスの御降誕を待ち望む期節(降臨節)の二つ目の主日になりました。

 今日の主日の主題は「主の道を整える」ことであり、特祷も聖書日課は旧約、使徒書、福音書とも、主の道を備えることに触れられています。

 現在、私たちの聖餐式で拝読される聖書日課は3年周期になっており、降臨節から来年の11月の末まで、今年はC年の日課を用いる年です。C年の聖餐式聖書日課では、ルカによる福音書を中心に学び導きを受けることになりますが、降臨節第2主日の福音書の箇所は洗礼者ヨハネが荒れ野で罪の赦しを得させるための洗礼を受けるように人々に宣べ伝えた箇所がとり上げられています。

 洗礼者ヨハネは「主の道を備えよ、その道筋を整えよ」と大声で人々に訴えました。その頃、世の中は救い主の到来を待ち望む気運が高まっていました。人々の中には、こうして叫ぶ洗礼者ヨハネのことを、この人が待ち望んでいた救い主ではないか、と考える人もいました。でも、ヨハネは間もなく現れるであろう救い主にお会いするために、人々にそれに相応しく準備するように訴え、救い主を指し示す者として徹しています。

 このことについては、マタイ、マルコ、ルカの3福音書とも同じ観点で記されていますが、今日の聖書日課福音書の箇所を他の福音書を比較してみると、ルカによる福音書の特長がはっきりしてきます。

 その特長の一つは、ルカによる福音書は、第31,2節に見られるように、洗礼者ヨハネの出現を、世界の歴史とその中でのユダヤの歴史の中にしっかりと位置付けているということです。それは、世界の歴史の中で事実として起こった出来事である事を伝えるだけでなく、洗礼者ヨハネが先駆けとなって指し示す救い主が世界史の中でどのような意味を持つのかということに関わるその時代設定をはっきりさせている、定位させているということです。

 もう一つ、ルカによる福音書のこの箇所の特長を挙げれば、マタイ、マルコ、ルカの3福音書はどれも旧約聖書イザヤ書第40章3節の言葉を引用して洗礼者ヨハネの働きを説明していますが、ルカによる福音書はイザヤ書第40章3節だけでなく3節から5節までを引用しているということです。

 マタイとマルコはイザヤ書の「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」までを引用していますが、福音書ルカはそれ以降の「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人はみな神の救いを仰ぎ見る」までを引用しています。

 福音記者ルカが、このようにイザヤ書の引用部分を他の福音書よりも長く用いているのには、その意図があります。

 それはマタイもマルコも、この場面設定の中で、洗礼者ヨハネに「主の道を整える」ことを訴える役割を取らせているのに対して、ルカはそれ以上のことを伝えようとしていることが想像できます。つまり、マタイとマルコは「主にお会いするために相応しい道を整えよ」と伝えているのに対して、ルカはそれだけでなく「そうすれば主自らがあなたの道を整えてくださる」ということを読者である私たちに伝えようとしている、ということです。

 「道」という言葉は、色々な意味を含んでいます。ヨハネによる福音書では、主イエスが「私は道であり、真理であり、命である(ヨハネ14:6)」と言っておられます。「道」は単に人や車が行き交う「道路」を意味するだけではなく、しばしば、目的、生き方、教義、方向性などを意味して用いられます。それは、旧約聖書でも新約聖書でも、人の生き方、或いは人が人として踏み外せない目標への歩みや方向性などを意味して用いられています。そして、今日の主日のテーマである「主の道を整える」ことも、私たちの心の内に主ご自身をお迎えする思いをもって、その思いを真っ直ぐに主なる神に向けるべきことを意味していると言えるでしょう。

 この「道」は、私たちが主なる神と出会う道です。洗礼者ヨハネや預言者たちを通して語られてきた言葉が私たちの現実とぶつかり合って、そこから私たちが更に深く主なる神にを迎え入れるための道です。

 教会は昔から聖書の言葉を前にして祈り、静想することを大切にしてきました。それは自分の中に「主の道を備え、整え」、主の御言葉によって自分が導かれるようになるための大切な方法でした。

 もっと身近な事例を挙げるとすれば、私がかつてある教会に招かれて聖餐式の司式と説教の奉仕をした時のことです。その教会では主日の礼拝が終わると、礼拝に出席した殆どの人が聖堂脇の小さな集会室に移って、ささやかな「お茶の会」になります。その教会の「お茶の会」は、礼拝出席者が教役者を囲み、その日に受けた聖書箇所の内容や説教についての思いを語り合い聞き合う事が自然に行われていました。そこには、御言葉が大切にされ、自分が御言葉によって養われるために「主の道を整える」習慣が身に付いた素敵な会衆があり、聖書を中心にした良い交わりが持てている教会の姿に感服したことがありました。こうした交わりの助けを得て、信仰者はいっそう主の道を整え、この主の道を通って私たちは主に向かい、また、私たちを現状から御国へを導き出していただくことになるのでしょう。

 聖書の言葉が私たちを養い導きます。そのみ言葉をしっかりと心に受ける事が「主の道」を整えることにつながります。

 ヤコブの手紙第4章4節に次の言葉があります。

 「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」

 主の道を備えることは、私たちが主なる神に近づくための道を備えることであり、それは取りも直さず神が私たちに近づいて来てくださるのです。

 私たちは、御子イエス・キリストを迎える「道」を自分の内に整えたいと思います。

 一方、こうした教会の姿の対極にあるような、主の道の備えのない姿を、旧約の預言者アモスが次のように預言していることを思い起こしてみたいのです。

 「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。

 私は地に飢えを送る。

 それは、パンの飢えでも水の乾きでもなく、

 主の言葉を聞くことへの飢え渇きなのだ(アモス8:11)。」

 この「飢えと渇き」は、パンや水の飢え乾きのように直接身体的に自覚される飢え渇きではなく、それは自覚されないままに暴力や次元の低い快楽などの代用物に魂を奪われ、自分が飢え乾いていても御言葉そのものを慕い求めることのできない「魂の飢餓」(魂の栄養失調)です。

 こうしたことを踏まえると、福音記者ルカがイザヤ書第40章の言葉を引用している意図が見えてきます。

 私たちが自ら主の道を整えることで、主ご自身が私たちに近づいてくださり、イザヤの言葉のとおり「人は皆神の救いを仰ぎ見る」ことへと導かれるのです。

 洗礼者ヨハネが活動を始め、それが荒れ野で「主に道を備えよ」という意味の働きであったことは、私たちに対して、救い主と出会い救い主を迎えることへの促しとなり、人を生きる基本へと立ち返らせる促しになります。

 主イエスがお生まれになる頃のイスラエルは、政治的にはローマ帝国に占領され、民の中には神の国イスラエルを政治的に独立させることこそ解放であると考えて、武力による反抗を企て、テロに走る人々もいた時代です。そのような時代に洗礼者ヨハネは告げました。

 「救い主は近い。あなたの中に主の道を整えよ、あなたが主と出会う道筋をまっすぐにせよ。そうする者には主ご自身があなたを導く道を整えてくださり、救い主があなたをお導き下さる。」

 教会暦の降臨節は、私たちが一人ひとりが、洗礼者ヨハネの促しに応えつつ、御子イエス・キリストを迎え入れる準備をする期節です。小さなお姿で貧しくこの世界にお出で下さった主イエスを迎えるために、私たちは自分の心の内に「主に道」をしっかりと整え、救い主にお会いする喜びへと導かれますように。この降臨節に、主なる神のみ言葉に整えられ、導かれ、救い主を迎える備えを進めることが出来ますように。
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2024年12月05日

「人の子」とお会いする  ルカによる福音書第21章25~31節  降臨節第1主日

「人の子」とお会いする     ルカによる福音書第21章25~31節  降臨節第1主日   2024.12.01


 教会暦は年が改まりました。降臨節第1主日に与えられている聖書日課は、旧約聖書、使徒書、福音書ともに「終わりの時」について記しています。
 私たちは、日々、ニケヤ信経や使徒信経によって信仰の告白をしていますが、その中で天に昇った主イエスが再び「生きている人と死んだ人とをさばくために来られます」と唱えます。また、今日の福音書の中にも、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを人々は見る」と記しています。
 始めに「人の子」という言葉に触れておきたいと思います。
 「人の子」とは、「アダムの子」つまり「神に創られた人間の子」を意味して用いられる場合と、特別に「神の国における権能を授けられた者」のという別の意味で用いらる言葉であり、今日の聖書日課福音書の箇所では、主イエスが「人の子」という言葉を用いてご自身が「神の子、救い主、裁き主」であることを含みつつ用いられています。
 新約聖書は、どの書も主イエスの死と復活と昇天の後に救い主イエスを証して記されており、天に昇った救い主イエスは最終的に神の御心が完成する時に再びおいでになるという考えがあます。この考えを教会は古くから「キリストの再臨」と言い、キリスト教の教理や思想が体系化する上での一つの大切な要素になりました。救い主イエスが再び雲に乗ってこの世に来るという考えは、科学的に証明されることが正しいことと考える時代の世界観による理解とは異なり、現代にはなかなか受け入れられなくなり誤解される事も多くなっています。また、キリスト教から派生した宗教団体や色々な宗教の思想を寄せ集めて教義とする宗教団体の中には、聖書の教える「終わりの時」を本来の考えとは違う意味で教え、人々の不安を煽ったり、「終わりの時」の日時までをほのめかしてその異端の教理に従うように誘う人たちがいます。
 そうした状況の中で、私たちは聖書が告げている「終わりの時」についてどう考え、どのような態度でいるべきなのでしょうか。また私たちはどのように「終わりの時」に備えるべきなのでしょうか。
 今から2千年近く前の中東やヨーロッパの人々の世界観を簡単に思い起こしてみましょう。
 現代のように実験で証明する科学の世界観と違い、当時の人々は天地の動きも含めて世界の全てが神の支配下にあると考えました。天地の変動も神の御手の業であり、自然の動きも神の意思の表れと考えられ、その大きな変動は神が何か特別なことを起こすことに連動すること考えられました。ことに当時のユダヤ人にとって大きな地震や火山の噴火などの現象は人の子(つまり裁き主)来臨の前兆とも理解されていました。そのため、ことに占星術などを行う学者たちの中には、最終的な審判の開始が告げられる前触れと理解する者もいたのです。
 今日の聖書日課福音書の中でも、第21章25節から27節にかけて、主イエスは当時のそのような世界観を前提にしてお話しになっている様子が伺えます。
 そのような世界観の中にあれば、日頃神の御心から離れている人々にとっての天変地異は、神からの裁きとして我が身を振り返らざるを得ない出来事になったのではないでしょうか。当時の人々が本当に恐れていたのは天変地異そのものといより、その現象と共に起こる「人の子の来臨」であり「神の審判」であったことが想像されます。そうであれば、「諸国の民」(21:25)や「人々」(21:26)にとって、人の子の到来は恐ろしい出来事と思われたことでしょう。もしその時が来たら、多くの人々は怯えて人の子から顔をそらし、為す術もなく地にひれ伏すほか無かったのかもしれません。
 しかし、主イエスはこう言っておられます。
 「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ(21:18)。」
 イエスを救い主と信じない人々にとって、最終的な裁きは不安であり恐怖でさえあるでしょう。でも、イエスを救い主として受け入れ信じて生きる人々にとって、最終的に神の御前に立つことは不安や恐怖ではなく、自分の大切な人に迎え入れてもらえることにも似て、いやそれ以上に、神に受け入れられる喜びであり、救いに導かれることなのです。
 今日の聖書日課福音書の箇所を更に先まで読んでいくと、主イエスは第21章34節で次のように言っておられます。
 「放縦や深酒の生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなた方を襲うことになる。」
 今から2千年前にも、罪の中にあって心に不安や恐れを抱えたまま生活を乱し、酒に溺れ、生きる意欲を失う人がいたようです。でも、主イエスを救い主として受け入れて信じる人々には、人の子の来臨は全てを赦されて解放される時になるのだから、その時のために安心して自分の成すべき勤めを行う希望になるのです。人の子の来臨がいつであれ、その時にそのままの自分が人の子の前に進み出れば、私たちはしっかりと神の御許に受け入れていただけるのです。そうであれば、私たちはいつ「人の子」にお会いしても良いのであり、日々神の御心に応えて誠実に生きているのであれば、私たちはやがて神の御許に迎えられる希望と喜びの中で生きていくことができるのです。
 パウロはテサロニケの信徒への手紙Ⅰ第5章1節以下の箇所で次のように言っています。
 「兄弟たち、その時と時期についてはあなたがたに書き記す必要はありません。盗人が夜やってくるように、主の日は来ると言うことを、あなたがた自身よく知っているからです。」
 主イエス・キリストが再び来られる日を私たち人間の側で、何時、どのように、などと決めてはならないし、決める事など出来ません。なぜなら、神のなさることを人が出来るかのように思い上がったり、神に生かされている私たちが勝手に主の再臨の時が何時か等と決めつけることは、私たち人間の考えの中に神の働きを閉じこめて神の働きを人間の考えの中に留めようとする傲慢に他ならないことだからです。
 もし私たちに、救い主イエスがの来臨の時がいつなのかが分かったとして、私たちがその時だけのために自分の体裁を整えるのであれば、それはあまりに不誠実であり、そのようにして繕わなければならない自分であることを神と周囲の人々に示していることに他なりません。
 主イエスが再びおいで下さることを待ち望む人は、何時その時を迎えるのか分からない中で、目の前のこと一つひとつを大切にして、何時主イエスにお会いしても良いように悔いのないように生きているはずです。仮に人生の半ばで自分の命が絶えるような時が来たとしても、本当に主の来臨を待ち望んでいる人であれば、与えられた自分の人生の限界の中で、常に自分らしく精一杯生きる事を通して神の御心を現して生きていこうとすることでしょう。
 その意味で、「神の国が近づいている」こととは、神の御心によって私たち一人一人の生き方を問い返されつつ、神に応えて生きることに深くつながっているのです。
 神の光に照らされる私たちは、その時に私たちは神の愛と赦しがなければ、罪と過ちだらけの自分がクッキリと照らし出されて耐えることが出来なくなることでしょう。でも、そのような自分であっても、私たちは既に主イエスによって罪の赦しを与えられ、私たちは神の完全な愛によって受け入れられています。
主イエスを救い主として受け入れ信じる私たちには、裁き主なる神とお会いすることは恐れではなく既に喜びに変えられています。
 神の永遠のお働きの中で、私たちは誰もが取るに足りない小さな存在ではありますが、一人ひとりが神に愛され、赦されて、終わりの時に救い主イエスとお会いすることに向かって生きています。そのように生きるとき、私たちを再び来られる主イエスとお会いすることは恐れではなく、希望であり、喜びであり、その希望と喜びはこの世に生きることに避けられない多くの苦しみや悲しみの時を短くしてくれると主イエスは教えてくださいました。
 主イエスは私たちをを滅ぼすためではなく生かすために、貧しいお姿で生まれ、十字架にお架かりになり、死んで葬られ、復活し、天に昇られました。そして私たちを神の御心が完成した世界へと招くために再び来られることを私たちは信じています。
 降臨節に入りました。私たちは、今から二千年前に私たちのためにお生まれになった主イエスに思いを向けると同時に、再びおいでになる主イエスを迎える備えしつつ、今年も御子のご降誕を記念する日を共に感謝して迎えることができますように。
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2024年12月04日

お言葉どおりこの身になりますように

お言葉どおりこの身になりますように

   司祭 ヨハネ 小野寺 達

 天使ガブリエルがガリラヤのナザレに遣わされ、おとめマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と告げました。マリアはこの言葉に戸惑い、これは一体何の挨拶かと考え込みました。マリアが天使ガブリエルから告げられたのは、「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」という事でした。マリアは天使の話に「どうして、そんなことがありえましょうか。」と言いますが、やりとりの後にマリアは「私は主の仕え女です。お言葉どおりこの身に成りますように。」と応えました。

このマリアの応答は、言葉を換えれば「私の思いではなく、主なる神の思いが私を通して実現しますように。」ということです。

幼稚園などで子どもたちは聖誕劇(ページェント)で救い主イエスのご降誕を祝いますが、聖誕劇は多くの場合、この「受胎告知」の場面から始まります。私は、イエスの母マリアを思うと、この場面に胸が詰まる思いになります。

マリアはこの御告げのとおりイエスの母親になります。

でも、その出産の場所は強いられた旅での貧しい家畜小屋で、産湯も無く産まれた嬰児を飼い葉桶に寝かせました。成人した我が子は家族を離れて「神の国運動」に没頭し、エルサレムに上って行き、殺されてしまいます。マリアは、我が子が十字架の上で苦しみながら、悔い改める罪人にパラダイスの約束を与え、大声で自分の霊を主なる神の御手に委ねて死んでいくのを目の当たりにしました。

天使ガブリエルはその33年ほど前に、マリアにその子の受胎を告げて「おめでとう、恵まれた方」と言い、マリアは「お言葉どおりこの身に成りますように。」と言ったのでした。これが神の御心だったのです。

多くの場合、母親が恵まれることと言えば、家族が仲睦まじく暮らせることや家計を含めた日毎の生活にゆとりがあること等を連想することでしょう。そして、その恵みに応えて感謝と賛美の祈りを献げながら生きることが信仰的な幸いであると思う人も多いことでしょう。でも、天使ガブリエルは、イエスの母親になるマリアにそのような意味での「恵み」を約束したわけではなく、キリストの母としてあがめ讃えられる生涯を保証したわけでもありませんでした。

マリアは産まれてくる子どもがどのようは生涯を送ることになるのかを予知していたわけではありません。マリアは天使ガブリエルの告知に応えて「お言葉どおりこの身に成りますように。」と言って自分を主なる神に委ねています。マリアは息子イエスの生涯に胸を痛めたことでしょう。マリアがイエスの母親であったからこそ負わねばならなかった重荷に、私は胸が詰まる思いになるのです。

そして、マリアの「お言葉どおりこの身に成りますように」という意味は、「主なる神よ、あなたが共にいてくださって、楽しく豊かで幸いな時ばかりでなく厳しく辛く悲しい時にもあなたに従い続けさせてください。そして、私をあなたの御心のままに用いてください。」という祈りを込めたマリアの信仰的応答の言葉であると、私には思えてきます。

救い主イエスのご降誕のプロローグに、天使の御告げに対するマリアの信仰的応答があることを思い巡らせつつ降臨節を過ごし、神の御子イエスのお生まれを心から感謝するご降誕の日を迎えることが出来ますように。

『我が牧者』(東松山聖ルカ教会教会報 2024年冬季号 復刊第394号)

posted by 聖ルカ住人 at 17:31| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする