2024年11月25日

「終わりの時を生きる」 マルコ13:14-23(B年特定28)  

「終末の時を生きる」 マルコ131423(B年特定28)     2024.11.17

 今日の聖書日課福音書はマルコによる福音書第13章14節以下の箇所であり、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら、-読者は悟れ-その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」という言葉から始まっています。

 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」という謎めいた言い方は、旧約聖書ダニエル書の1211節の「日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日が定められている」という言葉に関連しており、これは当時のある出来事が反映してると考えられています。

 イスラエルの民は、神殿で献げ物をすることをとても大切な信仰表現にしていましたが、その聖なる務めが「憎むべき荒廃をもたらすもの」によって侮辱される出来事がありました。それは、紀元前167年のことです。その当時ユダヤを支配していたのはシリア王アンティオコス4世エピファネスは、ユダヤ教の根絶を狙い、エルサレム神殿の祭壇にギリシャの神ゼウス像を据えたのでした。そのような行為が、イスラエルの民にとって、どれほどの怒りや憤懣をもたらすことになるか、それは私たちの想像を越えることでした。そのような行為は、主なる神への最大の冒瀆であり、神の民を自負するイスラエルに与える侮辱の極みでした。この時にシリアの王の政策に従わなかった多くのイスラエルの民は酷い拷問の末に殺されていますが、当時の文書は「この殉教者たちは律法に従い続けて雄々しく死んでいった」と伝えています。

 イスラエルの民はこの出来事をきっかけに反乱を起こします。マカベヤのユダを指導者として団結したイスラエルの民は、シリアを打ち破って400年ぶりに自分たちの国の独立を獲得し、いわゆるマカベヤ王朝が成立したのです。それは、紀元前164年のことでした。

 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」とは、このシリアの王アンティオコス4世による神殿冒瀆の出来事のことを背景にしていると考えられています。そして、今日の聖書日課福音書では、イスラエルの民のこの記憶と重ね合わせながら、「終わりの時」という考えの中で、来たるべきその終末にどのように備えるべきかについて、またその時に民を襲うであろう多くの苦難の中でどう生きるべきかにつて、主イエスが教えておられるのです。

 主イエスと弟子たちの一行は、ガリラヤからエルサレムにやって来ました。辺鄙なガリラヤ出身の弟子たちは、神殿の豪華さに圧倒されたことでしょう。

 主イエスは、あの神殿でユダヤ教の指導者たちと激しい論争をしましたが、弟子たちと共に神殿を後にして、オリーブ山のあたりにまで来ています。そこからエルサレムの丘に映える神殿を見て、弟子たちは再び感嘆の声をあげたことでしょう。

 主イエスの時代の神殿は、かつてマカベア朝ユダの時代に一度は独立を回復し、「憎むべき破壊者」を追い出した神殿です。しかし、イスラエルはその後紀元前63年にローマに侵略されて、また独立を失ってしまいます。そしてその時に壊された神殿はヘロデ王の時に修復が始まりました。その神殿が谷をはさんで夕日に映えています。主イエスは、あの神殿も崩壊する時が来るけれど、神の言葉は永遠に残ることをお教えになるのです。

 イスラエルの民は、出エジプトの出来事やバビロン捕囚からの解放を経験しました。また、マカベヤのユダによる独立回復などを通して、イスラエルの中には、自分たちの思いや力を超えた主なる神が歴史を動かし、自分たちを守り、その偉大な力によって生かされていることを感じ、そのように信じるようになります。

 主イエスの時代、イスラエルはローマの国に占領されて、その属領になっていました。民衆や指導的立場にいる人の中には、「あのエジプトからの解放のように、あのバビロンニアからの解放のように、あるいはマカベアのユダの時のように、主なる神が私たちの歴史に介入して来られ、私たちを救って下さる時が来る」と考え、教える者も少なくなかったのです。

 大国に占領された弱小国イスラエルの民がどんなに自分の力を頼りにしようとしても、武力や財力ではローマのような大国にはとてもかないません。イスラエルの民の中に次第に大きくなる考えは「主なる神は、このように抑圧されている私たちを解放し、御心から離れた古い世界をご自身の手で滅ぼす時が来る。その破壊に伴う大きな苦難の後で、神はご自身の計画を完成しさせて終わりの時がくる」という「終末思想」だったのです。

 そのような時代には、「偽預言者」や「偽キリスト」が現われて、混乱や不安な状況がうまれ、正しい人も迫害や弾圧を受けるが、その後に主なる神が御心によってこの世界を完成させるときが来ると考えられたのです。

 このような時代状況を念頭に置いて、マルコによる福音書第13章を見渡してみると、この箇所で主イエスが何を伝えようとしているのかが少し見えてくるのではないでしょうか。

 今日の聖書日課福音書の箇所に続けて、主イエスは、信仰者が受ける大きな苦難の中にも救い主は働いて下さること、その時のしるしを見逃す事のないようにいつも目を覚ましているように教えておられます。

 イスラエルの民は、その歴史を通して「自分たちは神に選ばれた尊い民である」という自覚を深めています。その自己認識そのものは、信仰を維持し更に強くする上でとても大切です。しかしその一方で、その自己認識はファイリサイ派の律法学者にも見られるように、その自尊心が異国人や律法の枠に入れない人々を差別し、神の具体的な働きを見る目を曇らせることになります。

 一方、主イエスを救い主と信じる人々の間では、天変地異を伴う「終末」がなかなか来ないことから、この「終末」を信仰者一人ひとりが裁きの座の前に立って信仰の有り様を問われる時として考える人々が出てくるのです。

 「終末(終わりの時)」とは、未来のいつかの時点に想定して考える一方で、どこか遠い未来の一点のことではなく、主イエスによって「今もたらされている」とも考えられるようになるのです。

 つまり、私たちは今も「終わりの時」が既に主イエスによってもたらされている緊張感と、更に、主イエスが再びこの世においでになることで神のお働きを最終的に完成させてくださるという希望との中に生かされていると考えるのです。私たちは神ご自身が御心のうちに備えてくださる一瞬一瞬の時を神にお応えすることを繰り返しつつ生きています。私たちは、その一瞬一瞬の時を「終わりの時」と捕らえて、絶えず神の御心にお応えして導かれながら生きる者なのです。

 私たちが用いている『祈祷書』の聖餐式聖別祷〔Ⅱ〕では、「あなたはこの終わりの時に、み子を救い主、贖い主、またみ旨の使者としてこの世にお遣わしになりました。」(p.177)と祈ります。この「終わりの時」とは例えば地球が破滅する時というような意味ではなく、主イエスによって神のお働きが成し遂げられた時という意味であり、私たちはその完成者である主イエスにこの聖餐を通してお会いする時を意味しています。

 私たちは、二度と帰らないこの時の一瞬一瞬を主イエスが共にいて下さる中で生かされています。私たちの目の前の出来事が神に与えられた出来事であり、私たちは神への応答として今を生きていく者です。それが「終末(終わりの時)を生きる」と言うことにつながるのです。

 そうであれば、終わりの時に出現する「憎むべき破壊者」とは、「聖霊の宮」であるはずの私たちの心の中心に「異教の神」を据えてしまうことを意味していると考えられるのです。私たちは、いつの間にか自分から「憎むべき破壊者」を据えてしまうことのないように、絶えず自分の信仰を吟味して祈ることが求められるのです。

 私たちが、日頃から自分も相手も神から与えられた人生の2度と戻らない時を神に応えて生きることへと招かれています。「終わりの時」についての意識をしっかり保って生きることと、そのような問題意識もなく生きることを比べてみれば、そこに働く神の御言葉の受け止め方の違いがやがて天と地ほどの違いになるのです。

 私たちは日々、「終わりの時」を生かされています。永遠の中の2度と戻らない終わりの時を生かされていることを感謝し、天の国の栄光に与らせていただけるように主イエスに導かれて歩んで参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 11:43| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする