2024年11月05日

戒めを行いに   マルコ12:28-34 (B年特定26)

戒めを行いに       2024.11.03 (B年特定26

(3) 2024年11月3日 聖霊降臨後第24主日 説教 小野寺達司祭 - YouTube


 今日の聖書日課福音書は、ある律法学者が主イエスに次のように尋ねたことから始まっています。

 「あらゆる戒めのうちで、どれが第1でしょうか。」

 主イエスはこの質問にこう答えておられます。

 「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる戒めはほかにない(12:29-31)。」

 主イエスがお答えになった言葉の前半は申命記第6章4節の言葉であり、後半の「隣人を自分のように愛しなさい」はレビ記第1918節の言葉です。

 主イエスは、この二つのこと、つまり神を愛することと隣人を愛することは、分けることの出来ない一つのことであり、これにまさる掟は他に無いと教えておられます。

 このことについての記述は、マルコによる福音書だけではなく、マタイによる福音書もルカによる福音書も、それぞれの脈絡の中で取り上げています。しかし、マタイとルカの両福音書の中では、律法学者が主イエスに挑戦的かつ攻撃的に論争を仕掛ける場面の中での出来事であるのに対して、マルコによる福音書では、イエスとユダヤ教指導者たちの激しい論争の中にいた一人の律法学者が進み出て、自分の救いに関わる大切な問題を主イエスに尋ねる場面として置かれており、この律法学者は謙遜な人として描かれているようにも思われます。

 この律法学者は、主イエスの教えに応えて次のように言っています。

 「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』と言われたのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています(12:32,33)。」

 この人は、主イエスの答えに同意して、神と人を愛することは一つのことであり、それはどんな献げ物をするより大切なことであると言っています。

 その当時、ユダヤ教に限らず、多くの宗教では、神の前に進み出る時には献げ物(生け贄)を携えましたが、時にその生け贄は動物や穀物や果物ばかりではなく、人間がいわゆる人身供養として捧げられていました。

 しかし、今日の聖書日課使徒書にも関係することですが、主イエスがご自身を生け贄として十字架の上に献げてくださったことによって、私たちは羊のような動物を生け贄として繰り返して捧げる必要はなくなったのです。これによって、私たちは主イエスを通して神の愛に生かされており、掛け替えのない自分として生きることを許されているのです。私たちは何も持たずに、そのままの自分として、主イエスの名によって神の御前に進み出ることができるようにされました。その意味でも、私たちは主イエスによって旧約聖書の律法を成就した新しい時代に生かされており、その恵みに答えて感謝と賛美の中に生きる者であると言えます。

 その意味で、今日の聖書日課福音書に登場するこの律法学者は、主イエスに「神と人を愛することは、どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています。」と言っているのでしょう。

 このように言うこの律法学者に、主イエスは「あなたは、神の国から遠くない」と言っておられます。この言葉に注目してみたいと思います。

 ここで私たちが心に留めておきたいことは、主イエスはこの律法学者に対してあくまでも「神の国から遠くない」と言っておられるのであって、「あなたは既に神の国にいる」とか「あなたの信仰があなたを救った」と言っておられるのではないということです。

 この律法学者は主イエスとの対話を通して正しい答へと導かれ、主イエスの神と人を愛する教えに同意しています。でも、この人が一番大切な戒めが何であるかを知っていることと実際にその戒めを生きる事との間には、大きな隔たりがあることに気付いている必要があります。

 ルカによる福音書にある並行記事(ルカ10:28)の中では、主イエスはこの人に向かってこう言っています。

 「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

 愛とは自分の目の前の相手の人を大切にして、その人に神の栄光が現されるように、相手にどこまでも関わり続けることです。人は他の人を愛することによって人として生きている意味と価値があるのです。その意味で、愛は論じたり評価することではなく行為なのです。

 例えば、子どもの心の中に愛を育むことについても、「愛のある人に育ちなさい」と幾度諭してもそれだけでは子どもの心の中に他の人を愛する思いは育まれません。周りの人たちが温かな眼差しと言葉と触れ合いの中に愛を溶け込ませて幼子に関わることで、その子どもはその愛を受け、他の人を愛する心が育まれます。

 主イエスの時代の律法学者たちは、613あるとされる戒めの248の「~しなさい(積極的戒律)」と365の「~してはならない(禁止的戒律)」の内容を生活に適用させるために事細かに解釈し、その細かな規定を生活の拠り所として、その口伝律法を忠実に守ることを通して神に受け入れられると考えました。

 例えば、彼らが「隣人を愛すること」を取り上げるとき、先ず自分の隣人とは誰であるかを論じ、その中でも特に律法を守ることのできる仲間を自分の隣人であると定め、その相手に関わることが戒めに忠実に生きることであると考えたのでした。

 これに対して、主イエスは、唯一の神を愛することと自分の隣人を愛することは一つであり、この二つのことで成り立つ「愛の実践」こそ最も大切な戒めであると教えたのでした。たとえ相手が自分たちとは交わりのない異邦人のことも、また「汚れた者」として扱われて交わりを絶たれて「罪人」と見なされる人でも、もし自分の目の前の人が傷み倒れているのなら、その人の命が神と結ばれて再び生かされるように関わり抜いて、神に創られた人間として互いに愛し合うことこそ最も大切な戒めであるとお考えになりました。

 あなたの目の前の人は、誰もが神によって命を与えられ神に愛されている尊い人であり、あなたの愛すべき存在だと主イエスは教えておられます。例えその人が律法に背いても、切り捨てるのではなく、その人の罪が赦され、罪が浄められ、その人が新たにされることこそ神の求めておられることであり、戒めはそのために必要なのです。

 神を愛することと人を愛することは分けることの出来ない一つのことであり、隣人を愛することは律法に強いられて行うことではなく、人として神にお応えする自発的な行為として具体化します。そして神と人を愛することは、神の国に入るための条件なのではなく、自分が神の愛を身に余るほどに受けている事への感謝に基づく行為になるのです。

 この律法学者が主イエスから「あなたは神の国から遠くない」と言われた後、主イエスに質問する者は人はいなくなりました。なぜなら、エルサレム神殿の指導者たちが主イエスに論争を吹きかけることで明らかになってくるのは、指導者たちが人々の重荷を負おうとせずに律法を盾にして我が身を守って生きている姿であり、彼らはその姿をイエスとの議論の中でこれ以上暴かれたくないと考え、イエスに質問する者がいなくなったのでしょう。彼らはこの後イエスを殺す具体的な策を考え始めるのです。

 自分は傷まず汚れず、重荷を負うことを避けてどの戒めが一番大切かを論じることは、神と人への愛が無くても出来ます。その一方で、主イエスが他の人の傷みや汚れをご自分の身に引き受けてその人の重荷や痛みを負うことこそ、主なる神の御心をこの世に実現する行いであり、どの戒めが一番大切であるかを知るあなたは「神の国から遠くない」「あなたはその戒めを実行しなさい」と主イエスはこの律法学者に、そして私たちに語りかけておられます。

 今日の聖書日課福音書には、どの戒めが一番大切であるのかを知りながら重荷を主イエスに負わせて主イエスを十字架の上へと追いやる律法学者の姿と、人々の罪や汚れを全て一身に背負って十字架に向かう主イエスの姿が対照的に描かれています。私たちは、主イエスがご自分の身を捨てて律法を全うしてくださったことによって、神と隣り人を愛して生きることへと招かれています。主イエスは、自己保身や自分中心を捨てて隣り人を愛するように私たちを促しておられます。主イエスはこの戒めを掟を貫いて十字架にあげられました。

 主イエスの招きと促しに応えて、私たちも神と隣り人を愛する恵みと感謝へと導かれていくことができますように。

posted by 聖ルカ住人 at 15:39| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする