2024年11月26日

「王であるキリスト」  ヨハネによる福音書18:31-37 (B年特定29)

「王であるキリスト」  ヨハネによる福音書183137 降臨節前主日 B年特定29   2024.11.24


(当日の動画)2024年11月24日 降臨節前主日 説教 小野寺達司祭


 今日は、教会暦では降臨節前主日であり、年間最後の主日です。この主日は「王であるキリストの主日」とされています。

 今日の特祷にもこの主日の意図がよく表現されています。私たちは、この主日の特祷で、この世に生きる全ての人が「王であるキリスト」によってあらゆる捕らわれ解放されまた一つとされることを願って祈りました。

 この主日のテーマ「主イエスが王である」ということから、自分を振り返ってみると、私たちは今の時代の中で本当に王とすべきお方を王とし、人がこの世に生かされている意味を深く求めて生きているのだろうかと考えないわけにはいかなくなります。私たちは何を一番大切にしているのか、何を、誰を最後の(究極の)判断基準にしているのか、つまり王としているのかを振り返り、真理の王である主イエスによって生かされる恵みを覚えたいと思います。

 こうしたことを念頭に置きつつ、今日の聖書日課福音書から導きを受けたいと思います。

 今日の聖書日課福音書の箇所は、私にとってなかなか理解しにくい内容でした。個人訳を含めた6種類の日本語訳聖書でこの箇所を読み比べ、この場面の主イエスとピラトのやりとりを読み解くことを試みてみました。

 この場面は、主イエスがローマ総督ピラトから尋問されており、このピラトとイエスのやりとりが、主イエスを十字架に向かわせるのか回避させるのかの極めて緊張した場面です。

 この箇所の少し前の場面から、今日の福音書の脈絡を振り返ってみます。

 お手元の聖書を開いて、ヨハネによる福音書第1829節からの箇所をご覧になってください。

 ユダヤ教指導者たちは、イスカリオテのユダの裏切りによって、夜の闇の中でイエスを捕縛し、先ずイエスを大祭司カイアファのしゅうとであるアンナスの所へ連行し取り調べました。彼らはその後直ちに主イエスを大祭司カイアファのもとに送ります。主イエスは大祭司カイアイファのもとでも縛られたまま尋問されますが、イエスを処刑することしか念頭にないユダヤ教指導者たちは時を置かずにイエスを神殿に隣接する総督ピラトの官邸に連れて行きました。夜が明けようとしています。

 ユダヤ教の指導者たちは、官邸の入り口までピラトを呼びつけました。彼らは異邦人との交わりは汚れを受ける事であり、とりわけ過越祭が始まろうとする時に、異邦人の館に入って汚れることを避け、総督官邸の前にピラトを呼び出し、イエスを引き渡して、死刑にするための取り調べを求めたのでした。

 ピラトは彼らの強引で無礼なやり方に腹を立てながら官邸の門まで出てきて、ユダヤ教の指導者たちに問いかけます。

 「この男のことで、あなたたちはどんな訴えを起こすのか(18:29)。」

 この時、ピラトは既に文書で訴状を受け、それを読んでいたはずです。ピラトは、「これはあなたたちユダヤ人の問題だから、あなたたちの律法と言い伝えの決め事で裁けば良いだろう。」と思っていたことでしょう。

 ユダヤの指導者たちは、ピラトに言い返して「この男(イエス)が悪事を働いたからあなたの所に彼を引き渡しに来たのだ。そうでなければ、引き渡したりはしない。」とイエスを押し付けるよう応じます。

 今日の聖書日課福音書の箇所は、ここから始まっています。

 ピラトは、第1831節で、ユダヤ指導者に「あなたがたがイエスを引き取って、あなたがたの律法に従って裁くがよい。」と言いますが、彼らは自分たちには政治犯を裁く権限はないと言って、ローマ総督ピラトによるイエス死刑の判決を下すことを求めるのです。

 ピラトは、過越祭が始まろうとする日に官邸前で騒動を起こされることを望まず、イエスを官邸の中に入れて、形ばかりの取り調べをした上で、この男(イエス)を釈放しようと想像されます。

 ピラトの尋問とイエスの応答が始まります。

 ピラトはイエスに「お前はユダヤ人の王なのか(33)。」と尋ねました。

 もし、イエスが自分はユダヤ人の王であると認めれば、ピラトはイエスをローマに対する政治犯として十字架刑にことができます。そうでなければ、ピラトには取り調べるまでも無いユダヤ教分派の教師の一人に過ぎませんでした。

 イエスは「あなたは自分の考えでそう言うのか。それとも他の者が私にそう言うので尋ねているのか(34)。」と応じます。主イエスのこの答えは「あなたは何を根拠にその質問をするのか。」ということであり、ピラトの態度、立ち位置、生き方を問う質問でした。

 ピラトは35節で、「私はそのようなことを問題にして議論するあなたたちのようなユダヤ人ではない。お前と同じ民族の人たちとその祭司長たちがお前を私に引き渡したから、こうして取り調べをしているのだ。このようにお前と同じユダヤ人から訴えられるからには、お前は何をやったのか。」と問うのです。

 イエスはその質問に直接答えるのではなく、33節の「お前はユダヤ人の王なのか」というピラトの問いに答えます。

 「例え私が王であったとしても、私の国はこの世のものではない。私がこの世の王なら、私の部下が私をユダヤ人に引き渡さないように、私のために戦ったであろう。実際、私の国はこの世の国ではない。」

 ピラトは、37節で言います。「それではあなたは王であることには違いないのだな。」

 イエスは答えます。「私が王だとあなたが言っている(あなたが言うとおり私は王だ。確かに私は王だ。)」

 イエスは、自分が王であることを認めます。しかし、自分は一定の領地(国土)をもって君臨しその民を支配するこの世の王ではなく、真理に属し、真理を伝えるための王であることを、次のように訴えます。

 「私は真理について証しをするために生まれ、真理を証するめに世に来た。真理から出た者(真理に属する者)は皆、羊が飼い主の声を聞き分けるように、私の声を聞き分けるのだ。私の民は、私の語ることを聞いて理解するのだ。」

 今日の聖書日課福音書はここまでですが、38節は、ピラトがイエスに「真理とは何か」と問う言葉が続きます。

 主イエスとピラトのやりとりは、イエスが真理に基づく王であることを告げて終わり、ピラトは官邸門前のユダヤ人のところに出て行って「私はあの男に何の罪も見出せない(18:38)。」と告げています。

 この世の王が、政治的、社会的に民を支配し、君臨することにのみ関心を持つのであれば、真理を証されても理解できないのです。そして、ローマ総督ピラトはユダヤ教指導者たちの所に行って「私はあの男に何の罪も見出さない。」としか言えませんでした。

 夜が明けています。

 イスラエルの人々はユダヤ教指導者たちに煽動されて勢いに乗り、イエスを十字架に付けろと叫び始めることになります。こうして、ローマの総督ピラトもイスラエルの指導者たちも民衆も、真理に基ずかないで、イエスを十字架に押し上げることになります。

 私たちは、この主日の主題である「王であるキリスト」に感謝して生きる者であるのなら、私たちは、何を、誰を、自分の王として生きているのかをもう一度新たに思い起こしたいと思います。

 主イエスは「私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」と言っておられます。

 「真理(aληθeιaアレーセイア)」という言葉で「曲げない、飾らない、不純なものを混ぜない」という意味から発生しています。私たちは、私物を数多く所有し経済的に豊かであることや他者を支配する原理を真理と取り違えて、かえって真理を見る目を眩まされてしまったり曇らされてしまっているのかもしれません。

 私たちは科学的に証明できることや自分にとって都合よく心地よくすることが真理を生きることであるかのように錯覚し、かえって真理を見る目が曇ってしまうことはないでしょうか。総督ピラトもユダヤ教の大祭司たちや律法学者対も、真理に生きるよりイエスを厄介払いすることに腐心して、真理に目を向けていません。

 目利きの宝石商人は「ダイヤモンドの本物と贋物を区別して、本物の質の高いダイヤモンドを見抜くためにはどうしたらいいですか」と尋ねられると、決まって「自分の目で本物を宝石を沢山見て、自分の眼力を養うことです」と答えます。それと同じように、私たちは救い主イエスご自身がお示しになる「真理」を受け容れることによって、真理と真理でない物事とを見分け区別することが出来るようになり、神から与えられたそれぞれの命の大切さを真理の現れと受け止め、お互いに豊かに育み合えるように生かされています。

 主イエスは、「私は道であり真理であり命である(14:6)」と言っておられます。主イエスは、本物の最高級の宝石にも喩えられる真理を示し、救いをこの世界にお与えくださいました。その生涯は、ご自身を十字架の上に渡すことにつながっていきまが、悲惨で、酷く、不当な十字架刑を受けながらも、そのイエスに真理があることを身をもって示してくださいました。

 そして、私たちがこの真理を受け容れこの真理によって一人一人が罪から解放され、自由にされるように導いてくださいました。ここに主イエスが人々のために献げてくださった天の国の王の姿があるのです。

 私たちは、主イエスがご自身をかけて身をもって証してくださったった真理を大切にしながら、教会としても成長していきたいのです。教会は真理である主イエスを土台として建て上げられています。もし、この真理を疎かにすれば、私たちの教会も目先の損得や様々な感情に振り回されて、キリストの香りなど全く感じられない集団に成り下がってしまうでしょう。

 教会の暦ではこの1週間で一年を終わろうとしています。命と真理の源である主イエスの守りと導きによって生かされていることを覚え、イエス・キリストを私たちの中に深くお迎えする備えを進めて参りましょう。

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2024年11月25日

「終わりの時を生きる」 マルコ13:14-23(B年特定28)  

「終末の時を生きる」 マルコ131423(B年特定28)     2024.11.17

 今日の聖書日課福音書はマルコによる福音書第13章14節以下の箇所であり、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら、-読者は悟れ-その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」という言葉から始まっています。

 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」という謎めいた言い方は、旧約聖書ダニエル書の1211節の「日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日が定められている」という言葉に関連しており、これは当時のある出来事が反映してると考えられています。

 イスラエルの民は、神殿で献げ物をすることをとても大切な信仰表現にしていましたが、その聖なる務めが「憎むべき荒廃をもたらすもの」によって侮辱される出来事がありました。それは、紀元前167年のことです。その当時ユダヤを支配していたのはシリア王アンティオコス4世エピファネスは、ユダヤ教の根絶を狙い、エルサレム神殿の祭壇にギリシャの神ゼウス像を据えたのでした。そのような行為が、イスラエルの民にとって、どれほどの怒りや憤懣をもたらすことになるか、それは私たちの想像を越えることでした。そのような行為は、主なる神への最大の冒瀆であり、神の民を自負するイスラエルに与える侮辱の極みでした。この時にシリアの王の政策に従わなかった多くのイスラエルの民は酷い拷問の末に殺されていますが、当時の文書は「この殉教者たちは律法に従い続けて雄々しく死んでいった」と伝えています。

 イスラエルの民はこの出来事をきっかけに反乱を起こします。マカベヤのユダを指導者として団結したイスラエルの民は、シリアを打ち破って400年ぶりに自分たちの国の独立を獲得し、いわゆるマカベヤ王朝が成立したのです。それは、紀元前164年のことでした。

 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」とは、このシリアの王アンティオコス4世による神殿冒瀆の出来事のことを背景にしていると考えられています。そして、今日の聖書日課福音書では、イスラエルの民のこの記憶と重ね合わせながら、「終わりの時」という考えの中で、来たるべきその終末にどのように備えるべきかについて、またその時に民を襲うであろう多くの苦難の中でどう生きるべきかにつて、主イエスが教えておられるのです。

 主イエスと弟子たちの一行は、ガリラヤからエルサレムにやって来ました。辺鄙なガリラヤ出身の弟子たちは、神殿の豪華さに圧倒されたことでしょう。

 主イエスは、あの神殿でユダヤ教の指導者たちと激しい論争をしましたが、弟子たちと共に神殿を後にして、オリーブ山のあたりにまで来ています。そこからエルサレムの丘に映える神殿を見て、弟子たちは再び感嘆の声をあげたことでしょう。

 主イエスの時代の神殿は、かつてマカベア朝ユダの時代に一度は独立を回復し、「憎むべき破壊者」を追い出した神殿です。しかし、イスラエルはその後紀元前63年にローマに侵略されて、また独立を失ってしまいます。そしてその時に壊された神殿はヘロデ王の時に修復が始まりました。その神殿が谷をはさんで夕日に映えています。主イエスは、あの神殿も崩壊する時が来るけれど、神の言葉は永遠に残ることをお教えになるのです。

 イスラエルの民は、出エジプトの出来事やバビロン捕囚からの解放を経験しました。また、マカベヤのユダによる独立回復などを通して、イスラエルの中には、自分たちの思いや力を超えた主なる神が歴史を動かし、自分たちを守り、その偉大な力によって生かされていることを感じ、そのように信じるようになります。

 主イエスの時代、イスラエルはローマの国に占領されて、その属領になっていました。民衆や指導的立場にいる人の中には、「あのエジプトからの解放のように、あのバビロンニアからの解放のように、あるいはマカベアのユダの時のように、主なる神が私たちの歴史に介入して来られ、私たちを救って下さる時が来る」と考え、教える者も少なくなかったのです。

 大国に占領された弱小国イスラエルの民がどんなに自分の力を頼りにしようとしても、武力や財力ではローマのような大国にはとてもかないません。イスラエルの民の中に次第に大きくなる考えは「主なる神は、このように抑圧されている私たちを解放し、御心から離れた古い世界をご自身の手で滅ぼす時が来る。その破壊に伴う大きな苦難の後で、神はご自身の計画を完成しさせて終わりの時がくる」という「終末思想」だったのです。

 そのような時代には、「偽預言者」や「偽キリスト」が現われて、混乱や不安な状況がうまれ、正しい人も迫害や弾圧を受けるが、その後に主なる神が御心によってこの世界を完成させるときが来ると考えられたのです。

 このような時代状況を念頭に置いて、マルコによる福音書第13章を見渡してみると、この箇所で主イエスが何を伝えようとしているのかが少し見えてくるのではないでしょうか。

 今日の聖書日課福音書の箇所に続けて、主イエスは、信仰者が受ける大きな苦難の中にも救い主は働いて下さること、その時のしるしを見逃す事のないようにいつも目を覚ましているように教えておられます。

 イスラエルの民は、その歴史を通して「自分たちは神に選ばれた尊い民である」という自覚を深めています。その自己認識そのものは、信仰を維持し更に強くする上でとても大切です。しかしその一方で、その自己認識はファイリサイ派の律法学者にも見られるように、その自尊心が異国人や律法の枠に入れない人々を差別し、神の具体的な働きを見る目を曇らせることになります。

 一方、主イエスを救い主と信じる人々の間では、天変地異を伴う「終末」がなかなか来ないことから、この「終末」を信仰者一人ひとりが裁きの座の前に立って信仰の有り様を問われる時として考える人々が出てくるのです。

 「終末(終わりの時)」とは、未来のいつかの時点に想定して考える一方で、どこか遠い未来の一点のことではなく、主イエスによって「今もたらされている」とも考えられるようになるのです。

 つまり、私たちは今も「終わりの時」が既に主イエスによってもたらされている緊張感と、更に、主イエスが再びこの世においでになることで神のお働きを最終的に完成させてくださるという希望との中に生かされていると考えるのです。私たちは神ご自身が御心のうちに備えてくださる一瞬一瞬の時を神にお応えすることを繰り返しつつ生きています。私たちは、その一瞬一瞬の時を「終わりの時」と捕らえて、絶えず神の御心にお応えして導かれながら生きる者なのです。

 私たちが用いている『祈祷書』の聖餐式聖別祷〔Ⅱ〕では、「あなたはこの終わりの時に、み子を救い主、贖い主、またみ旨の使者としてこの世にお遣わしになりました。」(p.177)と祈ります。この「終わりの時」とは例えば地球が破滅する時というような意味ではなく、主イエスによって神のお働きが成し遂げられた時という意味であり、私たちはその完成者である主イエスにこの聖餐を通してお会いする時を意味しています。

 私たちは、二度と帰らないこの時の一瞬一瞬を主イエスが共にいて下さる中で生かされています。私たちの目の前の出来事が神に与えられた出来事であり、私たちは神への応答として今を生きていく者です。それが「終末(終わりの時)を生きる」と言うことにつながるのです。

 そうであれば、終わりの時に出現する「憎むべき破壊者」とは、「聖霊の宮」であるはずの私たちの心の中心に「異教の神」を据えてしまうことを意味していると考えられるのです。私たちは、いつの間にか自分から「憎むべき破壊者」を据えてしまうことのないように、絶えず自分の信仰を吟味して祈ることが求められるのです。

 私たちが、日頃から自分も相手も神から与えられた人生の2度と戻らない時を神に応えて生きることへと招かれています。「終わりの時」についての意識をしっかり保って生きることと、そのような問題意識もなく生きることを比べてみれば、そこに働く神の御言葉の受け止め方の違いがやがて天と地ほどの違いになるのです。

 私たちは日々、「終わりの時」を生かされています。永遠の中の2度と戻らない終わりの時を生かされていることを感謝し、天の国の栄光に与らせていただけるように主イエスに導かれて歩んで参りましょう。

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2024年11月10日

主に全てを献げる  マルコ12:38-44

主に全てを献げる  マルコ12:3844(B年特定27) 2024.11.10

2024年11月10日 聖霊降臨後第25主日 説教小野寺達司祭 (はじめの2、3分過ぎより)

 今日の聖書日課福音書は、律法学者たちが敬虔を装いながらも実際は神のことを思わず人目を気にしたり貧しい人を食いものにしているのに対して、貧しいやもめが心からの献げ物をする姿を対照的き、主イエスがその貧しいやもめに目を留められた物語の箇所が取り上げられています。

 今日の聖書日課福音書の後半の「やもめの献金」の箇所は、簡潔な記述でそのメッセージも明確ですが、この箇所を旧約聖書との関わりを意識しながら学びたいと思います。

 旧約聖書の中には、イスラエルの民に対して、貧しい人々や弱い立場の人々を配慮すべきことを教えている箇所が沢山あります。

 例えば、申命記第15章には「負債の免除」や「奴隷の解放」のことが記されており、第1511節では「この地に住むあなたの同胞、苦しむ者、貧しい者にあなたの手を大きく広げなさい。」と教えています。イスラエルの民の間では、親を失った子や夫に先立たれた女性など身寄りのない人を世話していくことが当然のことと考えられました。その実践例として、人々は3年ごとにその年の収穫から十分の一を取り分けて蓄えていたことなどが挙げられます。そのようにして、耕す土地のない異国からの寄留者や身寄りのない子どもや老女たちも食物を得ることが出来るように配慮したのでした。

 申命記にはその他にも、金を貸す時に不当に高い利息を取ってはならないことや、7年に1度畑を休耕にして、その年にその休耕畑が生んだ作物は貧しい人々が自由に収穫することを認める掟なども記されています。

 また、レビ記の中には、麦を収穫する時に、やもめや身寄りのない子どもたち、寄留の異国人のために畑の隅を刈り取らずに残すこと、束ねる時に落とした穂は拾い上げずにそのまま畑に残しておくように(19:9-10,23:22)と記されています。ミレーの名画『落ち穂拾い』もこうした思想を背景に、聖書の物語を題材にして描かれたものであり、畑の持ち主が一本残らず無駄のないように落ち穂を集めている様子を描いた作品ではありません。

 こうした旧約聖書の律法の言葉の土台になっている精神は、イスラエルの民の中で互いに助け合うことや弱い立場の貧しい人々を配慮することであり、それは神に選ばれた民として当然のことと考えられました。そのような信仰が、次第に体系化されて制度となり、律法の文言は更に詳細に口伝として伝えられるようになったと言えるでしょ。

 しかし、主イエスの時代のイスラエルの社会状況は、必ずしも旧約の律法の精神が人々の間に浸透していたわけではありませんでした。また、律法学者たちの言動も、必ずしも神の御心をこの世界に具体化するのに相応しいものではありませんでした。

 今日の聖書日課福音書の前半で主イエスが指摘して厳しく批判しているように、当時の律法学者は自分の身分の高さを人前で誇り、神殿の境内で人々から尊敬の目を向けられることを喜び、神殿や会堂でも、また宴の席でも上席に座る者であることを自慢していたのでした。

 主イエスは、ユダヤ教の指導者たちが敬虔ぶった姿を人々に示して見せかけの長い祈りをする一方で、弱く貧しい立場の人々を少しもかえりみようとしない姿を見抜いておられました。そして、主イエスはそのような律法学者を含めた神殿の指導者たちを厳しく批判なさったのでした。

 主イエスは律法学者のことを「やもめの家を食い物にする」と言って批判しておられます。この批判は、多くの人々が孤児ややもめなどのために捧げる献金や献げ物を律法学者たちが自分たちの都合のよいようにあれこれと理由をつけて横取りし、私腹を肥やしてたことによると考えられます。

 今日の聖書日課福音書の出来事は主イエスが十字架にお架かりになる直ぐ前の火曜日の出来事であり、この日は「論争の火曜日」と言われています。主イエスが十字架へと向かわせたのは、主イエスがこの日の論争で祭司長や律法学者などユダヤ教の指導者たちをハッキリとしかも厳しく批判したことが大きな原因、口実になりました。主イエスは、自分の言葉や行いが十字架に向かうことになっても、神殿の指導者たちが弱く貧しい人々を少しも顧みず特権意識の上にあぐらをかいている姿を見過ごしにすることが出来なかったのです。

 今、主イエスはエルサレム神殿の外庭にいます。律法学者たちが何とかしてイエスを言葉の罠にかけてイエスの言葉尻を捕らえようと無理難題を持ちかけましたが、主イエスは彼らの挑戦を悉く打ち砕きました。恐らく指導者たちは主イエスの批判を逃れるために、イエスの前から引き下がっていったのでしょう。

 そのような時、主イエスは一人の貧しい女性が神殿の中庭(女性の庭)に入って来たことに目を留められました。この貧しいやもめは、その身なりも見るからに貧しくみすぼらしかったことでしょう。幾つか置かれている献金箱は金属のラッパの口のような受け皿があり、お金を入れると音がしました。多くの人が意図的に大きな音を立てて献金をする仲、貧しいやもめは静かに祈りレプトン銅貨2枚をそっと献金箱に入れました。レプトンは当時の一番小さな単位の貨幣で、1レプトンは当時の労働者一日の賃金1デナリオンの128分の1です。(一日の労賃が12,800円とすれば1レプトンは128円です。)レプトン2枚が今このやもめの持っている全てであり、この人はそれを2枚ともお献げしたのでした。神殿の指導者や大金持ちたちはこのやもめには目もくれず、もしかしたら主イエスの弟子たちでさえこの女性を気に留めなかったと思われます。

 でも、主イエスは、このやもめが神に心を向けて心からの献げ物をしていることに目を留められたのです。

 主イエスは弟子たちを呼び寄せて言われました。「よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物すべて、生活費を全部入れたからである(12:43,44)。」

 主イエスがこう言われた時、神殿には普段とは違う空気が流れました。権力や財力とは別の観点から、神のお喜びになる出来事が起きていることが、主イエスによって指摘されたのです。

 エルサレム神殿について少し別の視点から考えてみたいと思います。

 主イエスの時代よりも千年前、イスラエルの王になったダビデはエルサレムに神殿を建てたいと考えました。しかし、主なる神は軍人であるダビデに主の宮を建てることをお許しになりませんでした。そこでダビデは息子ソロモンに神殿建設の夢を託してダビデはそのための資金を用意するのです。自分の金銀財宝を神殿建設のために差し出し、家来たちにも主の宮を建てるための寄進を呼びかけます。すると、ダビデの周りの高官や側近たちも自分の財産を差し出して神殿建設の資金が奉献されたのでした。

 その時、ダビデはイスラエルの全会衆の前で主を讃えてこう言いました。

 「取るに足りない私と、私の民が、このように自ら進んで献げたとしても、すべてはあなたからいただいたもの。私たちは御手から受け取って、差し出したに過ぎません(歴代誌上29:14)。」

 レプトン2枚を献げたこの貧しいやもめも、自分の全ては主の御手から受けたものであり、主から受けたものを主にお捧げする思いで、例えレプトン2枚であっても、自分の全てを主に献げたのでしょう。人の目に映る華やかさの点ではダビデのようではなかったとしても、その信仰の点では、一千年前に同じ場所でダビデが祈ったのと同じ姿がこの貧しいやもめによって再現されていると言えます。しかもその出来事は、ユダヤ教の指導者たちによってではなく他の人からは見向きもされない貧しいやもめによって現わされているのです。主イエスは、神の宮である神殿が権力や財力が支配する場所になることを喜ばず、自分の全てが捧げられる礼拝の場となることを望んでおられたのでしょう。

 主イエスは私たちのことをこうして主に宮に招いてくださいました。私たちはこの礼拝で、貧しいやもめと同じように主イエスの眼差しを受けています。私たちは全身全霊の礼拝を献げ、ここから各自が遣わされていく生活の場で、各自の思いと言葉と行いの全てが礼拝の行為となるように遣わされていきます。私たちは、神と人に仕えることを通して私たちの全てが神を誉め讃え神を証しする者となるように促されています。

 私たちは自分を神に喜ばれる生きた聖なる供え物とし「すべてのものは主の賜物、私たちは主から受けて主にささげたのです」と主なる神の恵みに応えて、主イエスに導かれて、祝福のうちに生かされて参りましょう。
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2024年11月05日

戒めを行いに   マルコ12:28-34 (B年特定26)

戒めを行いに       2024.11.03 (B年特定26

(3) 2024年11月3日 聖霊降臨後第24主日 説教 小野寺達司祭 - YouTube


 今日の聖書日課福音書は、ある律法学者が主イエスに次のように尋ねたことから始まっています。

 「あらゆる戒めのうちで、どれが第1でしょうか。」

 主イエスはこの質問にこう答えておられます。

 「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる戒めはほかにない(12:29-31)。」

 主イエスがお答えになった言葉の前半は申命記第6章4節の言葉であり、後半の「隣人を自分のように愛しなさい」はレビ記第1918節の言葉です。

 主イエスは、この二つのこと、つまり神を愛することと隣人を愛することは、分けることの出来ない一つのことであり、これにまさる掟は他に無いと教えておられます。

 このことについての記述は、マルコによる福音書だけではなく、マタイによる福音書もルカによる福音書も、それぞれの脈絡の中で取り上げています。しかし、マタイとルカの両福音書の中では、律法学者が主イエスに挑戦的かつ攻撃的に論争を仕掛ける場面の中での出来事であるのに対して、マルコによる福音書では、イエスとユダヤ教指導者たちの激しい論争の中にいた一人の律法学者が進み出て、自分の救いに関わる大切な問題を主イエスに尋ねる場面として置かれており、この律法学者は謙遜な人として描かれているようにも思われます。

 この律法学者は、主イエスの教えに応えて次のように言っています。

 「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』と言われたのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています(12:32,33)。」

 この人は、主イエスの答えに同意して、神と人を愛することは一つのことであり、それはどんな献げ物をするより大切なことであると言っています。

 その当時、ユダヤ教に限らず、多くの宗教では、神の前に進み出る時には献げ物(生け贄)を携えましたが、時にその生け贄は動物や穀物や果物ばかりではなく、人間がいわゆる人身供養として捧げられていました。

 しかし、今日の聖書日課使徒書にも関係することですが、主イエスがご自身を生け贄として十字架の上に献げてくださったことによって、私たちは羊のような動物を生け贄として繰り返して捧げる必要はなくなったのです。これによって、私たちは主イエスを通して神の愛に生かされており、掛け替えのない自分として生きることを許されているのです。私たちは何も持たずに、そのままの自分として、主イエスの名によって神の御前に進み出ることができるようにされました。その意味でも、私たちは主イエスによって旧約聖書の律法を成就した新しい時代に生かされており、その恵みに答えて感謝と賛美の中に生きる者であると言えます。

 その意味で、今日の聖書日課福音書に登場するこの律法学者は、主イエスに「神と人を愛することは、どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています。」と言っているのでしょう。

 このように言うこの律法学者に、主イエスは「あなたは、神の国から遠くない」と言っておられます。この言葉に注目してみたいと思います。

 ここで私たちが心に留めておきたいことは、主イエスはこの律法学者に対してあくまでも「神の国から遠くない」と言っておられるのであって、「あなたは既に神の国にいる」とか「あなたの信仰があなたを救った」と言っておられるのではないということです。

 この律法学者は主イエスとの対話を通して正しい答へと導かれ、主イエスの神と人を愛する教えに同意しています。でも、この人が一番大切な戒めが何であるかを知っていることと実際にその戒めを生きる事との間には、大きな隔たりがあることに気付いている必要があります。

 ルカによる福音書にある並行記事(ルカ10:28)の中では、主イエスはこの人に向かってこう言っています。

 「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

 愛とは自分の目の前の相手の人を大切にして、その人に神の栄光が現されるように、相手にどこまでも関わり続けることです。人は他の人を愛することによって人として生きている意味と価値があるのです。その意味で、愛は論じたり評価することではなく行為なのです。

 例えば、子どもの心の中に愛を育むことについても、「愛のある人に育ちなさい」と幾度諭してもそれだけでは子どもの心の中に他の人を愛する思いは育まれません。周りの人たちが温かな眼差しと言葉と触れ合いの中に愛を溶け込ませて幼子に関わることで、その子どもはその愛を受け、他の人を愛する心が育まれます。

 主イエスの時代の律法学者たちは、613あるとされる戒めの248の「~しなさい(積極的戒律)」と365の「~してはならない(禁止的戒律)」の内容を生活に適用させるために事細かに解釈し、その細かな規定を生活の拠り所として、その口伝律法を忠実に守ることを通して神に受け入れられると考えました。

 例えば、彼らが「隣人を愛すること」を取り上げるとき、先ず自分の隣人とは誰であるかを論じ、その中でも特に律法を守ることのできる仲間を自分の隣人であると定め、その相手に関わることが戒めに忠実に生きることであると考えたのでした。

 これに対して、主イエスは、唯一の神を愛することと自分の隣人を愛することは一つであり、この二つのことで成り立つ「愛の実践」こそ最も大切な戒めであると教えたのでした。たとえ相手が自分たちとは交わりのない異邦人のことも、また「汚れた者」として扱われて交わりを絶たれて「罪人」と見なされる人でも、もし自分の目の前の人が傷み倒れているのなら、その人の命が神と結ばれて再び生かされるように関わり抜いて、神に創られた人間として互いに愛し合うことこそ最も大切な戒めであるとお考えになりました。

 あなたの目の前の人は、誰もが神によって命を与えられ神に愛されている尊い人であり、あなたの愛すべき存在だと主イエスは教えておられます。例えその人が律法に背いても、切り捨てるのではなく、その人の罪が赦され、罪が浄められ、その人が新たにされることこそ神の求めておられることであり、戒めはそのために必要なのです。

 神を愛することと人を愛することは分けることの出来ない一つのことであり、隣人を愛することは律法に強いられて行うことではなく、人として神にお応えする自発的な行為として具体化します。そして神と人を愛することは、神の国に入るための条件なのではなく、自分が神の愛を身に余るほどに受けている事への感謝に基づく行為になるのです。

 この律法学者が主イエスから「あなたは神の国から遠くない」と言われた後、主イエスに質問する者は人はいなくなりました。なぜなら、エルサレム神殿の指導者たちが主イエスに論争を吹きかけることで明らかになってくるのは、指導者たちが人々の重荷を負おうとせずに律法を盾にして我が身を守って生きている姿であり、彼らはその姿をイエスとの議論の中でこれ以上暴かれたくないと考え、イエスに質問する者がいなくなったのでしょう。彼らはこの後イエスを殺す具体的な策を考え始めるのです。

 自分は傷まず汚れず、重荷を負うことを避けてどの戒めが一番大切かを論じることは、神と人への愛が無くても出来ます。その一方で、主イエスが他の人の傷みや汚れをご自分の身に引き受けてその人の重荷や痛みを負うことこそ、主なる神の御心をこの世に実現する行いであり、どの戒めが一番大切であるかを知るあなたは「神の国から遠くない」「あなたはその戒めを実行しなさい」と主イエスはこの律法学者に、そして私たちに語りかけておられます。

 今日の聖書日課福音書には、どの戒めが一番大切であるのかを知りながら重荷を主イエスに負わせて主イエスを十字架の上へと追いやる律法学者の姿と、人々の罪や汚れを全て一身に背負って十字架に向かう主イエスの姿が対照的に描かれています。私たちは、主イエスがご自分の身を捨てて律法を全うしてくださったことによって、神と隣り人を愛して生きることへと招かれています。主イエスは、自己保身や自分中心を捨てて隣り人を愛するように私たちを促しておられます。主イエスはこの戒めを掟を貫いて十字架にあげられました。

 主イエスの招きと促しに応えて、私たちも神と隣り人を愛する恵みと感謝へと導かれていくことができますように。

posted by 聖ルカ住人 at 15:39| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする