「王であるキリスト」 ヨハネによる福音書18:31-37 降臨節前主日 B年特定29 2024.11.24
(当日の動画)2024年11月24日 降臨節前主日 説教 小野寺達司祭
今日は、教会暦では降臨節前主日であり、年間最後の主日です。この主日は「王であるキリストの主日」とされています。
今日の特祷にもこの主日の意図がよく表現されています。私たちは、この主日の特祷で、この世に生きる全ての人が「王であるキリスト」によってあらゆる捕らわれ解放されまた一つとされることを願って祈りました。
この主日のテーマ「主イエスが王である」ということから、自分を振り返ってみると、私たちは今の時代の中で本当に王とすべきお方を王とし、人がこの世に生かされている意味を深く求めて生きているのだろうかと考えないわけにはいかなくなります。私たちは何を一番大切にしているのか、何を、誰を最後の(究極の)判断基準にしているのか、つまり王としているのかを振り返り、真理の王である主イエスによって生かされる恵みを覚えたいと思います。
こうしたことを念頭に置きつつ、今日の聖書日課福音書から導きを受けたいと思います。
今日の聖書日課福音書の箇所は、私にとってなかなか理解しにくい内容でした。個人訳を含めた6種類の日本語訳聖書でこの箇所を読み比べ、この場面の主イエスとピラトのやりとりを読み解くことを試みてみました。
この場面は、主イエスがローマ総督ピラトから尋問されており、このピラトとイエスのやりとりが、主イエスを十字架に向かわせるのか回避させるのかの極めて緊張した場面です。
この箇所の少し前の場面から、今日の福音書の脈絡を振り返ってみます。
お手元の聖書を開いて、ヨハネによる福音書第18章29節からの箇所をご覧になってください。
ユダヤ教指導者たちは、イスカリオテのユダの裏切りによって、夜の闇の中でイエスを捕縛し、先ずイエスを大祭司カイアファのしゅうとであるアンナスの所へ連行し取り調べました。彼らはその後直ちに主イエスを大祭司カイアファのもとに送ります。主イエスは大祭司カイアイファのもとでも縛られたまま尋問されますが、イエスを処刑することしか念頭にないユダヤ教指導者たちは時を置かずにイエスを神殿に隣接する総督ピラトの官邸に連れて行きました。夜が明けようとしています。
ユダヤ教の指導者たちは、官邸の入り口までピラトを呼びつけました。彼らは異邦人との交わりは汚れを受ける事であり、とりわけ過越祭が始まろうとする時に、異邦人の館に入って汚れることを避け、総督官邸の前にピラトを呼び出し、イエスを引き渡して、死刑にするための取り調べを求めたのでした。
ピラトは彼らの強引で無礼なやり方に腹を立てながら官邸の門まで出てきて、ユダヤ教の指導者たちに問いかけます。
「この男のことで、あなたたちはどんな訴えを起こすのか(18:29)。」
この時、ピラトは既に文書で訴状を受け、それを読んでいたはずです。ピラトは、「これはあなたたちユダヤ人の問題だから、あなたたちの律法と言い伝えの決め事で裁けば良いだろう。」と思っていたことでしょう。
ユダヤの指導者たちは、ピラトに言い返して「この男(イエス)が悪事を働いたからあなたの所に彼を引き渡しに来たのだ。そうでなければ、引き渡したりはしない。」とイエスを押し付けるよう応じます。
今日の聖書日課福音書の箇所は、ここから始まっています。
ピラトは、第18章31節で、ユダヤ指導者に「あなたがたがイエスを引き取って、あなたがたの律法に従って裁くがよい。」と言いますが、彼らは自分たちには政治犯を裁く権限はないと言って、ローマ総督ピラトによるイエス死刑の判決を下すことを求めるのです。
ピラトは、過越祭が始まろうとする日に官邸前で騒動を起こされることを望まず、イエスを官邸の中に入れて、形ばかりの取り調べをした上で、この男(イエス)を釈放しようと想像されます。
ピラトの尋問とイエスの応答が始まります。
ピラトはイエスに「お前はユダヤ人の王なのか(33節)。」と尋ねました。
もし、イエスが自分はユダヤ人の王であると認めれば、ピラトはイエスをローマに対する政治犯として十字架刑にことができます。そうでなければ、ピラトには取り調べるまでも無いユダヤ教分派の教師の一人に過ぎませんでした。
イエスは「あなたは自分の考えでそう言うのか。それとも他の者が私にそう言うので尋ねているのか(34節)。」と応じます。主イエスのこの答えは「あなたは何を根拠にその質問をするのか。」ということであり、ピラトの態度、立ち位置、生き方を問う質問でした。
ピラトは35節で、「私はそのようなことを問題にして議論するあなたたちのようなユダヤ人ではない。お前と同じ民族の人たちとその祭司長たちがお前を私に引き渡したから、こうして取り調べをしているのだ。このようにお前と同じユダヤ人から訴えられるからには、お前は何をやったのか。」と問うのです。
イエスはその質問に直接答えるのではなく、33節の「お前はユダヤ人の王なのか」というピラトの問いに答えます。
「例え私が王であったとしても、私の国はこの世のものではない。私がこの世の王なら、私の部下が私をユダヤ人に引き渡さないように、私のために戦ったであろう。実際、私の国はこの世の国ではない。」
ピラトは、37節で言います。「それではあなたは王であることには違いないのだな。」
イエスは答えます。「私が王だとあなたが言っている(あなたが言うとおり私は王だ。確かに私は王だ。)」
イエスは、自分が王であることを認めます。しかし、自分は一定の領地(国土)をもって君臨しその民を支配するこの世の王ではなく、真理に属し、真理を伝えるための王であることを、次のように訴えます。
「私は真理について証しをするために生まれ、真理を証するめに世に来た。真理から出た者(真理に属する者)は皆、羊が飼い主の声を聞き分けるように、私の声を聞き分けるのだ。私の民は、私の語ることを聞いて理解するのだ。」
今日の聖書日課福音書はここまでですが、38節は、ピラトがイエスに「真理とは何か」と問う言葉が続きます。
主イエスとピラトのやりとりは、イエスが真理に基づく王であることを告げて終わり、ピラトは官邸門前のユダヤ人のところに出て行って「私はあの男に何の罪も見出せない(18:38)。」と告げています。
この世の王が、政治的、社会的に民を支配し、君臨することにのみ関心を持つのであれば、真理を証されても理解できないのです。そして、ローマ総督ピラトはユダヤ教指導者たちの所に行って「私はあの男に何の罪も見出さない。」としか言えませんでした。
夜が明けています。
イスラエルの人々はユダヤ教指導者たちに煽動されて勢いに乗り、イエスを十字架に付けろと叫び始めることになります。こうして、ローマの総督ピラトもイスラエルの指導者たちも民衆も、真理に基ずかないで、イエスを十字架に押し上げることになります。
私たちは、この主日の主題である「王であるキリスト」に感謝して生きる者であるのなら、私たちは、何を、誰を、自分の王として生きているのかをもう一度新たに思い起こしたいと思います。
主イエスは「私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」と言っておられます。
「真理(aληθeιaアレーセイア)」という言葉で「曲げない、飾らない、不純なものを混ぜない」という意味から発生しています。私たちは、私物を数多く所有し経済的に豊かであることや他者を支配する原理を真理と取り違えて、かえって真理を見る目を眩まされてしまったり曇らされてしまっているのかもしれません。
私たちは科学的に証明できることや自分にとって都合よく心地よくすることが真理を生きることであるかのように錯覚し、かえって真理を見る目が曇ってしまうことはないでしょうか。総督ピラトもユダヤ教の大祭司たちや律法学者対も、真理に生きるよりイエスを厄介払いすることに腐心して、真理に目を向けていません。
目利きの宝石商人は「ダイヤモンドの本物と贋物を区別して、本物の質の高いダイヤモンドを見抜くためにはどうしたらいいですか」と尋ねられると、決まって「自分の目で本物を宝石を沢山見て、自分の眼力を養うことです」と答えます。それと同じように、私たちは救い主イエスご自身がお示しになる「真理」を受け容れることによって、真理と真理でない物事とを見分け区別することが出来るようになり、神から与えられたそれぞれの命の大切さを真理の現れと受け止め、お互いに豊かに育み合えるように生かされています。
主イエスは、「私は道であり真理であり命である(14:6)」と言っておられます。主イエスは、本物の最高級の宝石にも喩えられる真理を示し、救いをこの世界にお与えくださいました。その生涯は、ご自身を十字架の上に渡すことにつながっていきまが、悲惨で、酷く、不当な十字架刑を受けながらも、そのイエスに真理があることを身をもって示してくださいました。
そして、私たちがこの真理を受け容れこの真理によって一人一人が罪から解放され、自由にされるように導いてくださいました。ここに主イエスが人々のために献げてくださった天の国の王の姿があるのです。
私たちは、主イエスがご自身をかけて身をもって証してくださったった真理を大切にしながら、教会としても成長していきたいのです。教会は真理である主イエスを土台として建て上げられています。もし、この真理を疎かにすれば、私たちの教会も目先の損得や様々な感情に振り回されて、キリストの香りなど全く感じられない集団に成り下がってしまうでしょう。
教会の暦ではこの1週間で一年を終わろうとしています。命と真理の源である主イエスの守りと導きによって生かされていることを覚え、イエス・キリストを私たちの中に深くお迎えする備えを進めて参りましょう。