2024年10月28日

バルティマイの叫び   マルコ10:46-52(B年特定25)

バルティマイの叫び    マルコ10:46-52(B年特定25)  2024.10.27


 バルティマイは、エリコの町の門のそばで物乞いをする盲人でした。

 時は、過越祭が近づき、聖地エルサレムでその祭りを祝おうとする多くの人がエルサレムに向かって旅をしています。ヨルダン川近くにあるエリコから南西に28㎞ほど、標高差1000mほどを南西に上っていくとエルサレムです。エルサレムに向かう人の多くがこのエリコで一泊し、翌朝にエルサレムに向かって行きました。

 今日の聖書日課福音書は、次のような言葉で始まります。

 「一行はエリコに来た。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出られると・・・(マルコ10:46)」。

 エリコの町を出てエルサレムに向かう道端で、バルティマイは物乞いをしていました。座り込んだバルティマイのすぐ脇を大勢の人が通り過ぎていきます。

 バルティマイはその人通りの様子が明らかに変わってくるのを感じました。主イエスと弟子たちの一行が、自分が座っている前を通って、エルサレムに向かおうとしているのです。バルティマイは、今主イエスが歩いていると思う方向に大声で叫びました。

 バルティマイは、これまでにもイエスというお方の噂や評判を耳にして、このイエスこそ真の救い主であるという思いを強くしていたと思われます。聞くところによれば、ナザレのイエスは見えない人の目を開き、聞こえない人の耳を開き、歩けない人を立ち上がらせ、悪霊を追い出し、そのお方の居られるところには神の国の姿が現れ出ているということであり、目の見えないバルティマイには、このイエスこそ私の罪を赦してくださるメシアであるという思いを強くしていたのでしょう。

 主イエスの時代に、「目の見えない人」がどのように見なされていたのかについて、その一例をヨハネによる福音書第9章1節からの箇所に見ることができます。

 その箇所では、弟子たちは主イエスに次のように尋ねています。

 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

 当時、目が見えないことは、その本人か先祖の誰かが罪を犯し、その結果、神から受けた罰が身体に徴となって表れることと考えられいたことが分かります。

 バルティマイは、盲目であるが故に、これまで周りの人々から罪人と呼ばれ、差別され、幾度も不快な言葉を浴びせられてきたことでしょう。そのようなバルティマイは、心を閉ざして自分の本当の気持ちと向き合うことやその思いを他の人に話すこともなく、ただただ日々道ばたに座って物乞いをしていたのではないでしょうか。

 でも、バルティマイは、ナザレのイエスが、今、自分の前を通り過ぎようとしておられると思うと、心の中に凍り付いていた自分の思いが一気に湧き上がり、大声で叫ばずにはいられませんでした。

 「ダビデの子イエスよ。私を憐れんでください。」

 人々は、このバルティマイを叱り付けて黙らせようとします。それでも、バルティマイはますます激しく主イエスに向かって「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫ばずにはいられませんでした。

 「ダビデの子」とは、イスラエルの民が待ち望んでいるメシア(救い主)の称号です。バルティマイは今通り過ぎようとしておられる主イエスに向かって、「あなたは来たるべきメシアです」、「あなたの憐れみをお与えください」と信仰の告白をして、メシアの憐れみを懇願しているのです。

 イスラエルの指導者たちにとって、目の見えない物乞いがこのように大声で、しかも社会を惑わしているイエスに向かって、「ダビデの子イエスよ」と叫ぶことなど考えられず、また許し難いことであったでしょう。

 そのような中、バルティマイの声が主イエスに届きました。主イエスは、立ち止まってこう言われました。「あの人を呼んできなさい」(10:49)

 そして、主イエスは御前に連れて来られたバルティマイに、「あなたの信仰があなたを救った」と言ってバルティマイを祝福なさると、バルトロマイの目は開かれたのです。

 バルティマイに限らず、誰でも信仰の始まりは、自分の心の奥深くにある叫びを主イエスに届けることです。もし他の誰かに邪魔されたとか中傷されたと言って、主イエスに叫び求めることを止めるなら、主イエスとのつながりはそれ以上に進まないでしょう。それは何と愚かなことでしょう。また、もし私たちが自分の深い心の叫びを主イエスに届けることを躊躇ったり怠っていたりするのなら、私たちにどうして主イエスと真実な関係を深めていくことが出来るでしょう。主イエスに向かって自分の思いを叫び届けることにより、私たちは主イエスの前に呼び出され、主イエスとの真実な対話が始まるのです。

 主イエスはバルティマイの叫びに応えてお尋ねになります。

 「何をして欲しいのか(10:51)。」

 バルティマイは答えます。「先生、目が見えるようになりたいのです。」

 バルティマイの答は簡潔で単純です。この短い言葉の中に、バルティマイのこれまでの一生の思いが凝縮しています。罪人と決めつけられ、自分として生きることの出来ない無念さ、悔しさ。罪人であることが当たり前とされ、物乞いとしてしか生きられなくなっていた自分。そのバルティマイが主イエスの御前で「先生、見えるようになりたいのです」と心を開いて願います。

 先ほどお話ししたように、目が見えていないことが本人や先祖の罪の徴がその人に表れ出ていることだとしたら、見えなかった人の目が開かれて見えるようになることや寝たきりだった人が起き上がって歩くことは、その人の罪が赦されて神の御心としっかり結び合わされていることの徴になるはずです。

 主イエスはバルティマイの信仰を認めて彼を祝福しました。その時にバルティマイの目が開かれています。今日、私たちは、バルティマイの信仰が深まっていくプロセスをしっかりと確認しておきたいのです。

 私たちもバルティマイと同じように、主イエスに向かって叫び、立ち上がってイエスに向かって歩き出し、イエスに問われ、イエスに自分の本心を伝え、救われ、更にイエスに従って自分の生涯を生きて行く者であり、救われた者の喜びと感謝のうちに生きていく者なのです。

 私たちは、聖餐式の始めにいつも「主よ、憐れみをお与えください(「キリエ・エレイソン」と唱えます。その意味は「キリエ(κυριοs「主」の呼格)」、「エレイソン(eλeeω「憐れむ」の命令形)」ということです。私たちは、今日も、バルティマイが主イエスを求めて必死で叫んだのと同じ言葉でこの聖餐式を始めました。

 私たちは、主イエスの御前に進み出る時、それぞれに主イエスに叫び訴えたい心の叫びを携えています。或いはそのような自分が主イエスに召し出された感謝と喜びがあるはずです。私たちはバルティマイと同じようにそれの心の思いを携えて「主よ、憐れんでください」と叫びながら信仰のプロセスを歩むのです。

 主イエスに向かって自分の本当の叫びを届け、「私に何をして欲しいのか」と言って下さる主イエスにお応えする信仰の生活を生きていきたいと思います。「あなたの信仰があなたを救った」と言っていただける恵みを思い、心の奥底の叫びを主イエスにお届けし、導きの中に生かされて参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 09:06| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする