2024年10月28日

バルティマイの叫び   マルコ10:46-52(B年特定25)

バルティマイの叫び    マルコ10:46-52(B年特定25)  2024.10.27


 バルティマイは、エリコの町の門のそばで物乞いをする盲人でした。

 時は、過越祭が近づき、聖地エルサレムでその祭りを祝おうとする多くの人がエルサレムに向かって旅をしています。ヨルダン川近くにあるエリコから南西に28㎞ほど、標高差1000mほどを南西に上っていくとエルサレムです。エルサレムに向かう人の多くがこのエリコで一泊し、翌朝にエルサレムに向かって行きました。

 今日の聖書日課福音書は、次のような言葉で始まります。

 「一行はエリコに来た。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出られると・・・(マルコ10:46)」。

 エリコの町を出てエルサレムに向かう道端で、バルティマイは物乞いをしていました。座り込んだバルティマイのすぐ脇を大勢の人が通り過ぎていきます。

 バルティマイはその人通りの様子が明らかに変わってくるのを感じました。主イエスと弟子たちの一行が、自分が座っている前を通って、エルサレムに向かおうとしているのです。バルティマイは、今主イエスが歩いていると思う方向に大声で叫びました。

 バルティマイは、これまでにもイエスというお方の噂や評判を耳にして、このイエスこそ真の救い主であるという思いを強くしていたと思われます。聞くところによれば、ナザレのイエスは見えない人の目を開き、聞こえない人の耳を開き、歩けない人を立ち上がらせ、悪霊を追い出し、そのお方の居られるところには神の国の姿が現れ出ているということであり、目の見えないバルティマイには、このイエスこそ私の罪を赦してくださるメシアであるという思いを強くしていたのでしょう。

 主イエスの時代に、「目の見えない人」がどのように見なされていたのかについて、その一例をヨハネによる福音書第9章1節からの箇所に見ることができます。

 その箇所では、弟子たちは主イエスに次のように尋ねています。

 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

 当時、目が見えないことは、その本人か先祖の誰かが罪を犯し、その結果、神から受けた罰が身体に徴となって表れることと考えられいたことが分かります。

 バルティマイは、盲目であるが故に、これまで周りの人々から罪人と呼ばれ、差別され、幾度も不快な言葉を浴びせられてきたことでしょう。そのようなバルティマイは、心を閉ざして自分の本当の気持ちと向き合うことやその思いを他の人に話すこともなく、ただただ日々道ばたに座って物乞いをしていたのではないでしょうか。

 でも、バルティマイは、ナザレのイエスが、今、自分の前を通り過ぎようとしておられると思うと、心の中に凍り付いていた自分の思いが一気に湧き上がり、大声で叫ばずにはいられませんでした。

 「ダビデの子イエスよ。私を憐れんでください。」

 人々は、このバルティマイを叱り付けて黙らせようとします。それでも、バルティマイはますます激しく主イエスに向かって「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫ばずにはいられませんでした。

 「ダビデの子」とは、イスラエルの民が待ち望んでいるメシア(救い主)の称号です。バルティマイは今通り過ぎようとしておられる主イエスに向かって、「あなたは来たるべきメシアです」、「あなたの憐れみをお与えください」と信仰の告白をして、メシアの憐れみを懇願しているのです。

 イスラエルの指導者たちにとって、目の見えない物乞いがこのように大声で、しかも社会を惑わしているイエスに向かって、「ダビデの子イエスよ」と叫ぶことなど考えられず、また許し難いことであったでしょう。

 そのような中、バルティマイの声が主イエスに届きました。主イエスは、立ち止まってこう言われました。「あの人を呼んできなさい」(10:49)

 そして、主イエスは御前に連れて来られたバルティマイに、「あなたの信仰があなたを救った」と言ってバルティマイを祝福なさると、バルトロマイの目は開かれたのです。

 バルティマイに限らず、誰でも信仰の始まりは、自分の心の奥深くにある叫びを主イエスに届けることです。もし他の誰かに邪魔されたとか中傷されたと言って、主イエスに叫び求めることを止めるなら、主イエスとのつながりはそれ以上に進まないでしょう。それは何と愚かなことでしょう。また、もし私たちが自分の深い心の叫びを主イエスに届けることを躊躇ったり怠っていたりするのなら、私たちにどうして主イエスと真実な関係を深めていくことが出来るでしょう。主イエスに向かって自分の思いを叫び届けることにより、私たちは主イエスの前に呼び出され、主イエスとの真実な対話が始まるのです。

 主イエスはバルティマイの叫びに応えてお尋ねになります。

 「何をして欲しいのか(10:51)。」

 バルティマイは答えます。「先生、目が見えるようになりたいのです。」

 バルティマイの答は簡潔で単純です。この短い言葉の中に、バルティマイのこれまでの一生の思いが凝縮しています。罪人と決めつけられ、自分として生きることの出来ない無念さ、悔しさ。罪人であることが当たり前とされ、物乞いとしてしか生きられなくなっていた自分。そのバルティマイが主イエスの御前で「先生、見えるようになりたいのです」と心を開いて願います。

 先ほどお話ししたように、目が見えていないことが本人や先祖の罪の徴がその人に表れ出ていることだとしたら、見えなかった人の目が開かれて見えるようになることや寝たきりだった人が起き上がって歩くことは、その人の罪が赦されて神の御心としっかり結び合わされていることの徴になるはずです。

 主イエスはバルティマイの信仰を認めて彼を祝福しました。その時にバルティマイの目が開かれています。今日、私たちは、バルティマイの信仰が深まっていくプロセスをしっかりと確認しておきたいのです。

 私たちもバルティマイと同じように、主イエスに向かって叫び、立ち上がってイエスに向かって歩き出し、イエスに問われ、イエスに自分の本心を伝え、救われ、更にイエスに従って自分の生涯を生きて行く者であり、救われた者の喜びと感謝のうちに生きていく者なのです。

 私たちは、聖餐式の始めにいつも「主よ、憐れみをお与えください(「キリエ・エレイソン」と唱えます。その意味は「キリエ(κυριοs「主」の呼格)」、「エレイソン(eλeeω「憐れむ」の命令形)」ということです。私たちは、今日も、バルティマイが主イエスを求めて必死で叫んだのと同じ言葉でこの聖餐式を始めました。

 私たちは、主イエスの御前に進み出る時、それぞれに主イエスに叫び訴えたい心の叫びを携えています。或いはそのような自分が主イエスに召し出された感謝と喜びがあるはずです。私たちはバルティマイと同じようにそれの心の思いを携えて「主よ、憐れんでください」と叫びながら信仰のプロセスを歩むのです。

 主イエスに向かって自分の本当の叫びを届け、「私に何をして欲しいのか」と言って下さる主イエスにお応えする信仰の生活を生きていきたいと思います。「あなたの信仰があなたを救った」と言っていただける恵みを思い、心の奥底の叫びを主イエスにお届けし、導きの中に生かされて参りましょう。

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2024年10月20日

苦難を負う者   イザヤ書53:4-12(B年特定24)

苦難を負う者   イザヤ書53:4-12(B年特定24)        2024.10.20


 今日の聖餐式日課旧約聖書はイザヤ書第534節以下の箇所が採用されています。

 「イザヤ書第53章」と聞くと直ぐに「苦難の僕」という言葉を連想なさる人も多いのではないでしょうか。

 イザヤ書は66章から成る大きな文書です。このイザヤ書の後半には「主の僕の歌」と呼ばれる箇所が4つありますが、ことにイザヤ書第5213節から53章にかけては、「苦難の僕の歌」と呼ばれています。この箇所は、主イエスの働きを旧約聖書との関係の中で考える時に最も注目される箇所の一つであると言えます。

 今日の旧約聖書日課のはじめの部分(イザヤ書53:4)を読んでみましょう。

 「彼が担ったのは、私たちの病、

  彼が負ったのは私たちの痛みであった。

  しかし、私たしたちは思っていた。

  彼は病に冒され、神に打たれて、苦められたのだと。」

 私たちは、どこまで他の人の苦難を担うことが出来るでしょうか。多くの場合、私たちが他の人を配慮したり気遣ったり出来るのはせいぜい自分が傷つかない程度までであり、私たちが本当に苦難を負った人に出会うと、その苦難を共に担うどころかその場から遠ざかったり知らない振りをしたりすることさえあるのではないでしょうか。

 パウロは「喜ぶ者と共に喜び、泣くものと共に泣きなさい」と言いました。私たちはそうしようとしても、喜んだり泣いたりしている人の心の深みまで共にすることの難しさに尻込みしたりたじろいだりする者であることを認めないわけにはいきません。

 主イエスの弟子たちも、イエスが十字架につけられる前の晩に、イエスからゲッセマネの園で一緒に祈るように求められました。主イエスは血の汗を滴らせて祈ります。でも、弟子たちは、少し離れたところで、眠ってしまいました。また、主イエスが兵士たちに捕らえられる時、弟子たちは皆われ先に逃げ出しました。このような弟子の姿の中に、私たちは自分自身を見出すのです。

 私たちが他の人の大きくあるいは深い苦難に出会う時、私たちもイエスの弟子と同じで、自分はその苦難に向き合えずに逃げ出したくなることの方が多いのではないでしょうか。そればかりか、時々私たちは本来自分で負わなければならない苦難を、弱い人、小さい人、力のない人に負わせて、自分の負うべき痛みをその人になすりつけていることさえあるのではないでしょうか。その典型的事例は、一向に減らない「いじめ」の問題であり、弱く、小さく、貧しい人々が、謂われのない苦難を負わされ、軽蔑されたり愚弄されたりしているのです。裏を返せば、多くの人が、他の人にいわれのない痛みを味わわせ、弱さや貧しさを押しつけ、苦難を負わせることによってやっと自分を保っているのであり、その認識や自覚がないがゆえに、こうした問題は一向に解決しないのかも知れません。

 こうした心の奥深くから生じている問題は、いくら制度の表面をいじっても、「イジメをやめよう」と声高に叫んでも、なかなか根本的な解決に向かうことが出来ないでいるのです。

 こうしたことを念頭に置きつつ、今日の旧約聖書日課を見てみましょう。

 イザヤ書は全部で66章ありますが、第39章の終わりと第40章の始まりの部分で大きく二つに分けられ、1章から39章までを「第一イザヤ」、そして40章以降を更に二つに分けて、40章から54章までを「第二イザヤ」、それ以降を「第三イザヤ」と呼ぶのが一般的です。このように分けるのは、それぞれの部分が記された時代に違いがあり、イザヤ書全体を一人の預言者イザヤが記したのではないと考えられるからです。3つに分ける各書が記された時期は、その内容から考えると、二百年以上の隔たりがあると考えられます。第53章を含む「第二イザヤ」の部分は、バビロン補囚からそれ以降の時代(紀元前562538年の頃)に記されたと考えられています。

 イスラエルの国はダビデやその子ソロモンが王であった時代の後、直ぐに南北に分裂し、北イスラエル国は紀元前722年に滅亡してしまい、南のユダ王国も紀元前586年にバビロニアに占領され、多くのイスラエルの民が捕虜となり遠くバビロンの地に引いていかれました。いわゆる「バビロン捕囚」と呼ばれる出来事です。

 しかし紀元前539年、大国であったバビロニアは新興国ペルシャによって滅び、ペルシャ王キュロスは補囚となっていたイスラエルの民が故郷に戻ることを許したのでした。補囚の民は故郷バレスチナの地に戻ってきて、破壊されたままになっていたエルサレム神殿の跡地に祭壇を築き、神殿再建に取りかかります。人々の心は燃えました。多くの人はこうして自分の国に戻り神殿を再建することで神の守りと民族の救いが与えられるとと考えました。

 しかし、第2イザヤは、そのような喜びや期待の中には本当の神の働きを認めることは出来ませんでした。バビロンの地で捕囚の民であった人々は、解放されて祖国に戻り神殿を再建できることを神の祝福と受け止めました。しかし、イザヤにはそうした人々も依然として罪の中にあることには変わらず、たとえ神殿を再建しても、神とイスラエルの民との真の関係はそれだけでは回復していかない姿を嫌というほど見ていたのです。

 「主の僕」の働きは、政治的な力を振るったり物の豊かさを与えて人々の欲望を満ちたらせたりする働きではなく、人々が神との関係を失ってしまったが故に負わなければならない苦難を自分で負っているのだ、とイザヤは語ります。人々の苦難を我が事として担い、まるで本人が神から懲らしめを受けているかのような姿をとりながら、黙々と主の働きを行う僕の姿をイザヤは語るのです。多くの人はこのような主の僕をあざ笑い罵りさえするでしょう。しかし、それでもなお人々の負えない苦難や担えない重荷を我が身に引き受けて歩む主の僕をイザヤは人々に伝えます。祖国に戻った多くの人が、イザヤが語る主の僕の姿を理解せず、受け入れず、更にはイザヤ自身も人々からバカにされ罵られることになっていきます。

 イザヤは第53章4節で次のように言います。

 「彼が担ったのは、私たちの病、

  彼が負ったのは私たちの痛みであった。

  しかし、私たしたちは思っていた。

  彼は病に冒され、神に打たれて、苦められたのだと。」

 何も見返りを求めず他の人の痛みや弱さを担ってくれる者、自分が傷つき痛み審かれる身となっても私たちの生まれ変わりを信じてくれる者、その結果裏切られても私たちの苦難を担ってくれる者、そのようなお方に出会いそのお方に生かされることで人は初めて心の底から新しい人となって生きることができるのです。そうでなければ、補囚からの解放の喜びも神殿再建の希望も一時的なものに過ぎず、本当に神との関係を強く深くしていくことにはならないのです。

 イザヤがこのように「苦難の僕」を語っても、多くの人はイザヤの言葉に耳を貸すことはありませんでした。そしてその後500年以上この「苦難の僕」のことは殆ど顧みられなかったのです。

 「第二イザヤ」の時代から560年ほど経った頃、一人の男がガリラヤのナザレに現れました。当時、イスラエルの国はローマに占領されており、イスラエルの民はローマ帝国の支配を覆す政治的指導者を待ち望み、例えばダビデのような政治的指導者としてのメシア(救い主)の姿を思い描いていました。

 ナザレで育ったイエスは、この世に神の国の実現を望んでその働きのために尽くしますが、その働きは、弱く貧しい人々の重荷を負い、汚れた人と交わってその悲しみや苦しみを担うものでした。そのお働きは、当時のユダヤ教の指導者や上層部からは律法を守らず民族の一致や団結を乱す者として嫌われ、下層階級の支持を集める危険人物と見なされ、最後にはエルサレムで十字架につけられて、人々からも神からも見捨てられたかのように死んでいきました。

 その後、この男(ナザレのイエス)の働きは、「第二イザヤ」が語った言葉によって意味づけられ、この男が何者であったのかが「苦難の僕」の光を浴びることによって鮮明に浮かび上がるのです。多くの人が、イエスの生涯は第二イザヤがかつて語った「苦難の僕」そのものであったことを理解し、このイエスこそ真の救い主であることの意味に気付き始めるのです。

 主イエスがイザヤ書を詳しく理解していたかどうかは定かではありませんし、イエス自身がイザヤ書の言葉を引用して神の国を説いたのかどうかも明らかではありません。しかし、福音書の記者たち-とりわけマタイによる福音書-や使徒パウロは、イエスがどのような意味での神の子であり救い主であったのかを、イザヤ書の多くを引用しながら記しています。

 主イエスはその生涯を通して、疲れた者、重荷を負う者を誰でもご自身の御許にお招きになり、その重荷を負って下さり、その人を十字架の死の先にまで招きながら共に生きてくださいました。

 イザヤは主の僕を思い描いて第5312節でこう言っています。

「彼が自分の命を死に至るまで注ぎだし、背く者の一人に数えられたからだ。多くの罪を担い、背く者のために執り成したのはこの人であった。」

 主イエスは、私たちのために自らをなげうち、死んで、罪人の一人に数えられました。私たちの罪を背負って、神に背いた私たちのために主なる神に執り成してくださったのは、このイエスです。私たちの罪のすべてが主イエスによって担われ、私たちは主イエスによって神のみ前に執り成しを受けています。イザヤ書はこのように「苦難の僕」の観点から救い主イエスを預言していたのです。

 主イエスが私たちの罪を担い、私たちを執り成し、私たちのために自らをなげうってくださった恵みを感謝し、この恵みに応えて神の愛に応えて生かされる者でありたいと願います。

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2024年10月13日

永遠の命を受けつぐ  マルコ10:17-27

永遠の命を受けつぐ       (B年特定23.マルコ10:17-27)    2024.10.12

    

 今日の聖書日課福音書の冒頭の言葉は新共同訳では「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って」と訳されていますが、聖書協会共同訳の聖書では「イエスが道に出て行かれると、ある人が走り寄り」と訳しています。私には、後者の訳の方が、主イエスがエルサレムに向かって歩み始められた様子がより一層伝わってくるように思われます。

 ご自身の十字架に向かう歩みを踏み出された主イエスに走り寄って来た人がいました。その人は、主イエスの前に跪いて尋ねました。

「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか(マルコ10:17)。」

 今日の聖書日課福音書を理解し導きを受けるために、先ず「永遠の命」という言葉に着目してみたいと思います。

 この「永遠」という言葉は、時間的に果てしなく続くと言うよりも、むしろ時間や空間によって影響されたり変化することのない「絶対性」「究極性」を意味していると考えると理解しやすいのではないでしょうか。「永遠の命」という言葉も、不老不死の生命のことや肉体的な死のない生命を意味するのではなく、生物としての命が終わるとしても、この世に生を受けて生かされたことには消えることのない意味や価値があるということを意味していると言えます。

 主イエスがエルサレムに向かって歩み始めた時、一人の青年が主イエスの前に跪き、「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか。」と尋ねました。 今日の聖書日課福音書の物語は、マタイとルカの両福音書にも載っています。この「ある人」は、マタイによる福音書では青年であり、ルカによる福音書では金持ちの議員です。この人は、きっと若くして財を築き、地位も名誉も手に入れている人であり、この世の成功者であったと言えるでしょう。でも、この人には、こうして主イエスの前に跪いて「永遠の命」を求めないわけにはいかない思いがありました。この人はユダヤ教の中心にいる人でありながらも、心の中に、自分の救いについての不安があり、自分の過去と将来に、自分は本当に神の民の一人として救いを約束されているのだろうか、自分はそれに相応しいのだろうか、自分は神との契約のしるしである律法をしっかり守っているけれどこれで十分なのだろうかという、不安や心配が付きまとっていたのでしょう。

 この人に限らず、人は誰でも自分の一生が終わる時、築いた財産も得た地位や名誉もみな自分の手から離さなければなりません。イエスの前に跪いたこの人も「こうして生きてきた自分は何者なのだ。全てを手放した私には何が残るのか。自分がこの世に生きていることに本当に意味があるのだろうか。自分は財産も名誉も得たけれど、それらを手放して裸の身になった時の自分の価値を認めてくれる者はいるのだろうか。」と自分に問い返してみれば、イエスの前に跪かないわけにはいかなかったのでしょう。

 「永遠の命」についての確信を得たいと思って、どれほど律法を守ることに努めてみても、この人はその確信を得られなかったのではないでしょうか。

 パウロも、ローマの信徒への手紙第7章で、回心する前の自分を振り返り、律法について完全であろうとすればする程、罪の意識が強くならざるを得なかったと言っています。

 主イエスの前に跪いたこの人も、主イエスに出会う前には、永遠の命を得るためには律法に基づいて善行を更に積み重ねることが必要だと考えていたのでしょう。

 主イエスは、この人の質問に答えて、十戒を思い起こさせ、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」と言われました。

 彼はすかさず「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」と模範的に答えています。彼は実際そうしてきたことでしょう。でも、彼の心は満たされず、不安なのです。なぜならこの人は、回心前にパウロのように、自分の力で永遠の命を獲得しようとしているのです。所詮、限りある存在が、お金や物を掻き集めるように「永遠」を生きる術を求めても、それは永遠にはなりません。仮に「永遠なるもの」があってこの人がそれを手に入れたとしても、限りある私たちは何時かはそれを手放さなければなりません。私たちは、自分の力によって「永遠なるもの」を獲得するのではなく、私たちが永遠なる神の働きの中に捉えられて、この永遠なる神に受け容れられてこそ、自分の限界を超えて永遠なる神の御手の中に生かされるのです。

 今この人の前に居られる「永遠なるお方」である主イエスは、エルサレムに上って行こうとしておられます。それは、十字架の上で全ての人が神に愛されていることをお示しくださり、赦し抜き愛し抜き、ご自身は虚しく滅ぶかのようでありながらも、甦ってこの主イエスにこそ永遠の命があることを示そうとしておられるのです。

 主イエスは自分の力で永遠の命を受け継ごうともがいているこの人を見つめ慈しんでおられます。この「慈しむ」という言葉は、神の絶対的な愛を表すアガペー(αγαπη)という言葉の動詞形が用いられています。つまり、主イエスがこの人に「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい(10:21)」と言っておられるのは、そのように出来ないこの人を裁いて切り捨てるために言っておられるのではなく、主イエスがこの人を愛し、慈しんで、この人の望む永遠の命へとお招きになっておられる言葉なのです。

 言葉を換えれば、主イエスはこの人に「それを自分の力で得ようとするのではなく、私に委ねて従って来なさい」という意味で言っておられるのです。

 「貧しい人々に施しなさい」と言うことは、「自分の力で自分の救いを得ることを目指すのではなく、主イエスを通して神の愛を受け、その愛で人々を愛し、貧しく弱く小さい人々に仕えなさい」と言うことです。

 永遠の命を受け継ぐことは、これまでの生き方の上に主イエスの教えを付け加えることではなく、これまでの自分中心の生き方を捨てて主イエスに全てを委ねる事によって初めて可能になるのです。また、この人にとってこれまでのように十戒を中心とした律法を厳格に守ることは、自分の克己、修養にこそなれ、それは「自分を愛するように隣人を愛する」ことにはつながっていかないのです。 私たちも、今日の聖書日課福音書を通して、エルサレムに向かう主イエスに従う覚悟があるのかを問われています。

 私たちがこのように集い、礼拝を通して神の前に進み出ることが出来るのは、神ご自身が人の貧しさや弱さを知っておられ、神ご自身の方から私たちに近付いてくださり、救いをお与え下さるからであり、私たちが永遠の命を受けつぐことも、神の慈しみを受け容れることではじめて出来る事なのです。

 自分を中心に生きるこの人は、更に「救いの保証」を積み上げようとする態度を変えることができず、結局自分の財産を失うことを嫌がり、悲しい顔をして主イエスの許から立ち去っていったのでした。

 主イエスはご自身が貧しいお姿をとって私たちのところに来て下さり、命を投げ出して下さいました。ご自身を与え尽くしてくださった主イエスに対して、私たちはどのようにお応えするのでしょうか。自分のためになお主イエスを用いようとするのでしょうか。それとも、貧しく小さな人々の中におられる主イエスに従い仕えるのでしょうか。小さく貧しい存在に過ぎない私たちも、既に主イエスを通して主なる神に受け入れられ、時も所も超えて掛け替えのない大切な存在とされています。このことこそ、「永遠の命を受けつぐ」と言うことに他なりません。

 私たちは、主イエスを通して示された「永遠の命」を受け容れるのでしょうか、それともこの青年のように拒むのでしょうか。

 今日の福音書の個所では、主イエスは十字架に向かってエルサレムへ向かう旅が始まっています。私たちが自分の負うべき十字架を既に主イエスが負ってくださっています。私たちは「永遠の命」を継ぐ者にとして招かれています。私たちは主イエスに従い、主イエスに仕え、神の国の働きの中に私たちが用いられ意味づけられ、いつも主イエス・キリストとの導きと養いを受け、永遠の命へと招かれていくことができますように。

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2024年10月06日

永遠のパートナー 創世記2:18-22 (B年特定22)     

永遠のパートナー       創世記2:1822(B年特定22) 2024.10.06    


 この主日のみ言葉(聖餐式聖書日課)は、旧約聖書、使徒書、福音書ともに、私たちが生きる上での「相手、他者」について教えています。これらの聖書の箇所は結婚式の時にもよく読まれる箇所ですが、今日は旧約聖書日課を中心に人が生きる上での「相手、他者」ということについて教えられ、導かれたいと思います。

 初めの人アダムが創られ、エデンの園に住むことを許されました。でも、アダムは孤独でした。創世記の第1章には神がお創りになった世界はとても良かったと記されています。その素晴らしい世界にいてもアダムは孤独なのです。神は「人が独りでいるのは良くない」と言われます。アダムだけではなく、人は誰でも、他の人との交わりがなかったら、思い考えることは次第に現実から離れて、独り善がりになり、更に自分勝手になってしまうことも多いのです。もし人が、生まれた後あらゆる事をたった独りでやっていかなければならないのなら、おそらく3日と生きていられないでしょう。あるいはまた、生まれたばかりの赤ちゃんが、たとえどれほど豊富な栄養を摂取できたとしても、もし、人から言葉もかけられずあやされることもなく視線を交わす相手もなく、ただ寝かされているだけだとしたら、その赤ちゃんは情緒の安定した豊かな人に育つことは困難になってしまいます。

 私たちは、もしたった独りで居るしかないとしたら、たとえそれがエデンの園の中であったとしても、何と寂しく不幸なことでしょう。人は何不自由のない暮らしをしていても、もし本当に心を通わせる相手が一人も居なかったら、不安定になり精神的に病理的な言動を起こすことにもつながっていくことでしょう。また、せっかく他者との豊かな交わりに生きる可能性を与えられているにもかかわらず、人と共に生きることのできない寂しさややるせなさを感じている人は意外と多いのではないでしょうか。

 創世記の第1章で、主なる神は野の全ての獣や空の鳥を創り、人にその管理をお任せになりました。でも、野の獣や空の鳥は、人の究極的な相手にはなり得ませんでした。このような人の姿をご覧になって、神は人を深い眠りに落とし、その人が深く眠り込んだとき、その人の体からあばら骨の一部を抜き取りその骨で相手となる女の人をお創りになったのでした。

 なぜ、主なる神はこんな事をなさったのでしょう。

 主が人の体からあばら骨を取り出したことに着目してみましょう。昔、ユダヤの人々は人間の感情は胸から発する(感情の座は胸にある)と考えました。日本語でも「腹が立つ」「胸が痛む」「頭にくる」と言うように、私たちはしばしば感情の動きを体のある部分を用いて表現します。主なる神は、人の胸の中をガードするあばら骨の一部を抜き取って、その骨で相手となる女の人をお創りになったのです。つまり、神は、人の心、人の感情、情動の固い守りを少しはずし、その守りを薄くして、人の相手になる存在をお創りになったのです。こうして人は自分の感じていることや思っていることを他の人に伝えるように、そして相手の言動に自分の心が共感し、その思いをまた目の前の相手に伝えて共に生きるための「相手」を創って下さったのです。人はお互いに深く心が通い合う存在であり、お互いに相手の心の内を理解し合ってこそ、自分が生きていることを実感し喜び合える存在として創られたのです。私たちは、もし自分の本当の気持ちをいつも押し隠すだけで他の人と分かち合おうとしないのなら、その人がたとえどれほど多弁であっても、どこか空々しく虚しい思いになるのではないでしょうか。

 主なる神さまが人のあばら骨の一部を抜き取って創られた相手を聖書では「助ける者」と訳しています。この言葉は「ヘルパー」とか「援助する人」という意味ではなく、「パートナー」とか「コンパニオン」という意味を持つ言葉です。今日の旧約聖書日課の箇所で、人(アダム)は自分の身辺の世話をしてくれる人を与えられたのではなく、お互いに心を開き、分かち合い、理解し合う存在、共に生きる相手を与えられたのです。

 このパートナーが与えられたとき、アダムは言いました。

 「これこそ、私の骨の骨、私の肉に肉(2:23)。」

 相手はまさに自分の分身なのです。お互いに相手と自分を分け合い、心を開いて語り合って理解し合える時、その相手は互いに自分の分身なのです。アダムは更に続けて言います。「これを女(イシャー)と名付けよう。これは男(イシュ)から取られたからである(2:23)。」神が男のあばら骨を分けて創られた女は、神がお互いのために創って与えた良きパートナーであり共に生きる相手なのです。新共同訳では、旧約聖書の元の言葉であるヘブライ語をカッコの中に入れて、男イシュ、女イシャーと記して、発音上でも男と女は共に呼び掛け合い響き合う存在であることを示しています。つまり、男と女はこのように呼応し共感し、互いを理解し合う存在であることをヘブル語の発音の上でも響き合うことを紹介して示していました。

 ユダヤ人の哲学者で19世紀後半から20世紀半ばを生きたマルチン・ブーバーという人がいます。この人が人間関係を「我-汝」という言葉で説明していますが、その一文を引用してましょう。

 『世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。その二つとは「我-汝」と「我-それ」の世界である。私たちがある人と向かい合う時、その人の外見、特徴を見抜こうとする。これは「我-それ」の世界である。実際、人間はこのような「我-それ」の関係だけで生きるのは真の人間ではない。その人の全人格を認める「我-汝」の関係が根底になければならない。』

 ブーバーのこの言葉は、神が人()のあばら骨から相手となる人()を創り出した物語の意味を哲学の言葉にして的確に表現しているように思われます。そしてブーバーは、この「我-汝」の関係に生きる態度が重要であると指摘しています。私たち人間は自分中心に独りで生きることによってではなく、他者との交わりに中で自分と相手の命を育み、そこに人間としての価値を示すのです。アダムは、そのような意味で相手となる人を見た時、「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、肉の肉。」と言っているのです。

 しかし、創世記を今日の日課の先まで読み進めていくと、神が人をせっかくこのように生きる可能性を開いて下さったのに、罪を犯す人が描かれるようになります。人はエデンの園にいたとき、神が良しとした中に生かされていましたが、その時でさえ、人は神とのつながりを忘れて罪を犯すのです。そして、お互いに罪の責任を他者になすり付け合い傷付け合う姿、少しも本当の自分を開かず、分かち合わず、心に壁をつくり、自分を固く防衛して傷つけ合う者へと成り下がる姿を描きます。人は良きパートナーが与えられても、神の御心に開かれていなければ、それだけでは罪の中をさまよい歩く者に過ぎないことを、聖書は物語るのです。

 創世記は、人間の誕生の物語、アダムとエバに罪が入り込んでエデンの園から追放される物語の後、第4章のカインとアベルの物語へと続きます。エデンの園を追放された人間は更に神の御心から離れ、その他者の存在を否定し、カインは弟アベルを殺して知らぬ顔をするという身勝手で傲慢な者へと成り下がって行きます。そして人々の中に不信感が生まれ、心を開いて分かち合うことを止め、お互いは相手を自分の欲望と野心を満たすために利用する道具としか考えなくなるのです。

 それでは、お互いを信頼して怖れなく心を開いて愛によって共鳴し合う世界は完全に永遠に失われてしまったのでしょうか。それはもう回復出来ないのでしょうか。

 そうではありません。

 神は、人が自分の力では回復できなくなってしまったこの信頼の関係を、神ご自身が主イエスを遣わすことによって取り戻して下さいました。

  主なる神は、主イエスに貧しいお姿を取らせ、神が人を愛し信頼してくださるしるしを飼い葉桶の中に与えてくださいました。たとえ私たちが孤独になり罪に悩むこをを逃れられないと思えても、神は私たちの生きるこの世界に人の姿を取って入り込み、私たちの「助け手」となって下さったのです。

 主イエスは、徴税人、病を負った人、汚れたもの扱いされる人と共にいて、その人々と「我-汝」の関係をとってどこまでも共にいて下さり、誰もが神から与えられた自分の命を全うして生きることが出来るように仕えて下さいました。そして、最期には誰一人主イエスのパートナーになる者などいない中で、十字架の上で他者の罪の苦しみを担い、罪人の姿をとって死んで行かれました。こうして主イエスは、ただ一人孤独のうちに見捨てられて死に行く人とも共にいて下さり、死の先にまで共にいて下さる事を身をもって示して下さったのです。このような「究極のパートナー」である主イエスに生かされて、限りある私たちでも、お互いに「助け手」となり合い、互いのパートナーになれる道を開いてくださいました。

 私たちはこの主イエスを自分の良き同伴者として、主イエスを通して神の前に自分の全てを開き、生きる幸いを与えられています。主によって生かされ、お互いに「良き助け手」として仕え合う交わりを、教会の中に育て上げていきましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 16:22| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする