2024年02月25日

イエスの受難予告とペトロ  マルコによる福音書8章31-38  大斎節第2主日  2024.02.25

イエスの受難予告とペトロ   マルコによる福音書8章3138  大斎節第2主日  2024.02.25


 今日の聖書日課福音書の中で、主イエスはご自分の受難と死そして復活について予告なさいました。主イエスはその予告を通して、弟子たちがどのように主イエスに従っていくべきかを教えておられます。私たちもこのみ言葉から、どのように主イエスに従っていくべきかを教えられ導きを受けましょう。

 私たちが今日の聖書日課福音書の箇所を理解しようとするとき、マルコによる福音書全体の中でのこの箇所の位置、また前後関係を踏まえておくことが大切でしょう。特に、この箇所の直ぐ前で、ペトロが主イエスへの信仰を表明していますが、そのことを踏まえて今日の箇所を理解すべきであることを心に留めておきたいのです。

 今日の聖書日課福音書の直ぐ前の箇所を確認しておきましょう。

 主イエスは、第829節で、弟子たちに「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになり、ペトロがそれに応えて「あなたはメシア(救い主)です」と言いました。ペトロのこの答は、その時の本当の思いを述べており、嘘や偽りはありません。しかし、この時のペトロは主イエスについての理解はまだ不完全であり不十分でした。この時点でペトロが思い描く救い主と主イエスがこれからたどろうとする神の子メシアとしての歩みの間には、大きな隔たりがありました。

 ペトロがこれまでガリラヤ地方で見てきた主イエスは、目の見えない人や耳の聞こえない人を癒し、飢え乾く多くの群衆に命のパンを与えて飽き足らせ、重い皮膚病(規程の病)の人を清め、ファリサイ派の人々との議論にも負けずに神の国の訪れを示していました。ペトロはその主イエスの弟子として、イエスに自分を委ねることの出来る幸いさえ感じていたことでしょう。ペトロには、これから主イエスがエルサレムに上っていって、そこで十字架刑に処せられると言い出すことなど思いもよらなかったのです。ペトロにとって自分がイエスと一緒にいられることは誇りであり、これからの人生を考えると、ペトロはこの救い主と一緒にいることで自分の前途も開けてくるだろうし、そうであれば舟も網も捨てて主イエスに従って来たことにも十分な意味があったとも思えたことでしょう。

 自分の願いを叶えるような期待をイエスに寄せていたのは、ペトロ一人ではありません。他の弟子たちも皆同様です。そして、主イエスはこのような期待を寄せる弟子たちに向かって、マルコのよる福音書第8章31節にあるように、ご自身の受難を予告なさったのでした。それは、弟子たちにとって思いもよらぬ言葉であり、ペトロは思わず「イエスさま、そんな話はやめて下さい」と言わずにいられませんでした。主イエスは、これからご自分が多くの苦しみを受けユダヤ教の指導者たちに排斥され、殺されることになっていると言われました。ペトロはその主イエスを脇にお連れして、「イエスさま、そんな事を言わないで下さい。あなたはこれからもっと活躍して、あなたが天下を取る時が来るのです。それによってあなたに従ってきた私たちも生かされるのです」と言おうとしたのでしょう。

 ペトロは、主イエスこそ真の救い主であると確信してはいますが、ペトロの理解するイエスと受難のことを予告するイエスとの間には大きな隔たりがありました。ペトロはその隔たりに気付かないまま、イエスが苦しんだり死んだりしてはいけないし、そうなるはずがないと信じて、主イエスを諫め始めたのです。

 主イエスは、ペトロの言葉の背後にある思いを見抜いて、ペトロをお叱りになりました。

 主イエスは、ペトロに「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言ってお叱りになりました。その言葉の前に主イエスは「サタン、引き下がれ(8:33)」とまで言っておられます。主イエスはペトロをとても強く叱っておられますが、この言葉に注目してみましょう。

 33節の「サタン、引き下がれ」という言葉を、聖書の元の言葉であるギリシャ語の言葉を直訳してみると、「行け、私のうしろに、サタンよ。」となります。英語訳では Go behind me,Satan! です。

 この場面で、主イエスはペトロをサタンだと決めつけて追放しようとしているのではなく、ペトロが主イエスの後からついてくることを前提として、主イエスがペトロに「私の後に下がりなさい」と言っておられるのです。ペトロに向けられた主イエスのこの言葉は、ペトロの人格まで否定しているのではありません。主イエスはペトロのことを「私の後ろに回って、私に従いなさい」と招いておられるのです。

 ペトロの中には主イエスに寄せる期待が膨らみ、イエスを誇りに思うペトロにはいつの間にか他の人々に対する優越感が膨らみ、これから主イエスと共に上っていけば人々の上に立って力を振るうことができるかのような思いが大きくなり始めていたのではないでしょうか。そしてペトロは、自分の信仰を表明したメシア(救い主)が苦しんだり殺されてはならないし、自分もまた苦しんだり殺されたりすることなどあり得ないという思いで、主イエスの受難予告を否定したくなったのでしょう。

 このペトロの期待とエルサレムに向かおうとする主イエスとの間には大きな隔たりがあります。ペトロは「あなたは生ける神の子メシアです」と信仰の告白をしましたが、その後すぐに叱られています。それではこのようなペトロの信仰告白は、無意味であり無駄だったのでしょうか。直前のペトロの信仰告白は無に帰してしまったのでしょうか。決してそうではありません。

 この後のペトロが主イエスに一層強く導かれていくためにも、ペトロの信仰告白は大切な節目でした。ペトロがそのように信仰告白をしたからこそ、イエスは弟子たちに受難の予告をしており、このようなプセスを経ながら、ペトロと主イエスの関係は更に深くなっていくのです。そうであるからこそ、イエスは信仰告白の出来るペトロたちにご自身の受難の予告をし、「私の後から自分の十字架を背負って私についてきなさい」と言う招きの言葉をお与えになるのです。

 私たちは、誰も初めから完璧な信仰をもっている者などいません。不完全な信仰の私たちには救い主を理解する仕方にも限界があります。そうであれば、私たちはなおさらペトロのように自分の信仰を主イエスの前にしっかりと表明して、主イエスの後を従っていく必要があるのです。

 私たちも、ペトロのように、主イエスに信仰の誤りを指摘され叱責されることもあります。それは、私たちが絶えず信仰の原点に立ち戻って、その自分を支えていただき受け入れていただきながら導かれる上で、大切な出来事なのです。そうして私たちは今の自分から更に気付きを与えられた自分になり、主なる神との関係を絶えず真実なものにしながら、私たちは信仰の歩みを進めていくのです。信仰告白するのは私たちが信仰を完成した後のことではありません。ペトロを思い起こしてみても、この後にもイエスに叱られ、ペトロは主イエスを裏切りながらも悔い改めて自分の信仰を幾度でも表明しなおし、生涯主イエスについていくのです。

 主イエスは、信仰の歩みを進めていく者を導くために「自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい」と言っておられます。このように考えると、「自分を捨てる」とは、決して自暴自棄になることではなく、自分の本心を押し殺して我慢してイエスに従うことでもなく、どこまでも主なる神の御心に自分を照らされて、神の御心を求めて生きることへと導かれ、神に示された自分の使命を忠実に全うすることへと導かれていくことであると言えます。

 私たちを導いて下さる主イエスに向かって、私たちも「あなたこそメシアです。私を生かしてくださる救い主です」と自分の信仰を表明し、絶えず自分を新たにされて、主にある新しい命に生かされるように歩んでいくことができますように。

 私たちの大斎節の信仰生活が御心によって導かれ、育まれ、主イエスの十字架の死と復活を心より感謝する復活日を迎えることができますように。

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2024年02月18日

サタンの誘惑  マルコによる福音書第1章9-13    大斎節第1主日

サタンの誘惑  マルコによる福音書第1章9-13    大斎節第1主日  2024.02.18


 先週の水曜日から大斎節に入り、最初の主日(大斎節第1主日)を迎えました。

 大斎節は、復活日に洗礼を受ける人たちの準備の時として始まり、やがて教会に集う人々にとって復活日を迎えるための修養の時として意味づけられ、主イエスが荒れ野で4040夜断食して悪魔の誘惑を受けた物語にちなみ、主日を除く40日間に定められるようになりました。旧祈祷所(祈祷書文語式文)が用いられていた時代には、大斎節を「克己修養の時」と表現していましたが、その基本的な姿勢は変わりありません。

 私たちは、今年もこの大斎節を祈りと自己教育の時として、私たちの信仰生活をいっそう主の御心に深く結ばれたものとすることが出来るよう、励んで参りたいと思います。

 今日の福音書は、主イエスが洗礼をお受けになった後、荒れ野で40日間お過ごしになり、主イエスはそこでサタンの誘惑を受けられ、その間、野獣と一緒におられそこに天使たちが仕えていたと、簡潔に告げています。

 今日の福音書の箇所を、マタイ、ルカの同じ物語の箇所と比較してみると、マルコによる福音書には、主イエスの「荒れ野での40日間」の内容が極めて短いことが分かります。

 マルコによる福音書では、主イエスは洗礼をお受けになった後、直ぐに、霊に導かれて荒れ野で40日をお過ごしになったことが記されていますが、主イエスが荒れ野でどのようにお過ごしになったかということについては、マルコによる福音書では、主イエスの上に天使の守りがあったことを簡単に伝えているだけです。

 また、マタイ、ルカの両福音書では、主イエスが荒れ野で40日間断食している間にサタンから「神の子なら石ころをパンに変えたらどうだ」と誘惑されたことをはじめ3つの誘惑を受けた受けたことを記していますが、マルコによる福音書はその内容を全く触れていません。

 このように3つの福音書の並行箇所と読み比べてみると、マルコによる福音書では、主イエスが洗礼をお受けになったことと荒れ野でお過ごしになったことを簡潔に記していることがよく分かるのではないでしょうか。

 そして、このような視点からマルコによる福音書を考えてみると、この福音書は、神さまが主権を執られて神のお働きが主イエスを通して着実に進んでいくことが伝えられているように思われます。

 マルコによる福音書は、そのような記し方をする中でも、主イエスが荒れ野でお過ごしになったのが40日間であったことは記しています。福音記者マルコがサタンがイエスをどのように誘惑したのかは全く記さない中で、その期間が40日であったことを記しているのは何か理由がありそうです。

 聖書には、「40」という数字がしばしば出てきますが、その40日や40年は、多くの場合、「徹底した期間」を意味し、その期間が過ぎると新しい次元へと移っていく時に「40」が用いられています。イエスの荒れ野の40日は一つの大切な転換点であり、しかもその舞台は3つの福音書とも「荒れ野」です。

 「荒れ野」は、昔イスラエルの民が奴隷状態であったエジプトから脱出したあと、水も食べ物も乏しい中、シナイ半島をさまよった所です。その年月も40年でした。荒れ野は頼るべき物が無くなる場所です。人はそこで本当に頼るべきものは何か、何によって人の命は支えられるのかを徹底的に問い返されています。

 主イエスは荒れ野にいます。荒れ野は、食べる物もなくなり、話をする相手もなく、ただ自分一人が存在する事を浮き彫りにされる場所です。主イエスも荒れ野で徹底的に神に向き合い、自分に向き合い、誘惑してくるサタンに向き合いまいた。

 そうであれば、自分の本当の姿を顕わにされることを恐れる者や、この世の悪に無頓着で権力欲や物欲のままに生きる者にとって、荒れ野は耐え難い場所となります。それは、エジプトを脱出したイスラエルの民が荒れ野の生活を強いられると直ぐに「エジプトで奴隷のまま食べ物が与えられる方が良かった」と嘆く姿と重なりました。そして自分を本当に生かす神の力から目をそむけて、神を忘れようとしたり、本当の自分を曝されることを避けて神から逃れ、神に背を向けて生きる誘惑に負けることのなるのです。

 聖書の中の様々な「40」がそうであるように、主イエスが荒れ野で過ごされた40日間は、主イエスがこの後神の国を宣べ伝え、天の国の喜びを伝えるに当たり、自分を振り返り自分と神の関係を練り上げる時であったに違いありません。

 興味深いことに、マルコによる福音書第1章13節によると、主イエスが40日間荒れ野でお過ごしになった時、「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」というのです。私たちは、主イエスが「野獣と一緒におられた」という事について、どのようなイメージを持つでしょうか。

 そのヒントになりそうな聖書の言葉を一つ採り上げてみましょう。それは、旧約聖書イザヤ書第11章6節以下の言葉です。ここでは平和の王が支配している姿を次のように謳っています。

 「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛と若獅子は共に草を食み、小さな子どもがそれを導く。雌牛と熊は草を食み、その子らは共に伏す。獅子も牛のように藁を食べる。乳飲み子はコブラの穴に戯れ、乳離れした子は毒蛇の巣に手を伸ばす。」

 この御言葉は、私たち日本人にとってはあまり平和な世界をイメージできる言葉ではないのですが、本来共に生きていくことが出来そうにもないものが、神の支配の下で共に生き、過ごす姿を描いています。マルコは、主イエスが荒れ野でただ独り悪魔の誘惑を受けながら過ごしておられる時、既に主イエスの周りには平和の王の姿が現れ出ており、このイエスによって真の平和が実現していることを伝えているのでしょう。主イエスのおられるところでは、古い罪の世界、つまり分裂や争いをもたらすものは砕け、すべてのものが共に生きる新しい世界が始まっていることを伝えいると考えられます。そして、この御言葉を聞く私たちも、主のみ名によって生きることで、古い罪の世界から、新しい平和の世界へと開かれていくように招かれているのです。

 私たちの生きる世界は、多くの誘惑がついて回ります。人の力を大きく越えて働いてくる誘惑の力を、昔の人は「サタン」と呼びました。「サタン」の力は私たちの目に見えるほどに判りやすく避けることが難しいのです。

 神ではないものが神のように私たちを惑わし、私たちの目を神から背けさせようとしています。そして資源の浪費、環境の破壊、戦争や分裂へと人びとを誘いますが、私たちはこうした悪魔の試みと戦っていかなくてはなりません。

 荒れ野で過ごす主イエスに天使が仕えます。そして現代の荒れ野で生きていこうとする私たちに、荒れ野で悪魔の誘惑に打ち勝ってくださった主イエスが共にいて下さるのです。私たちも主イエスの平和にあずかることが出来るよう、この大斎節を神の言葉に導かれて生かされていきたいと思います。

 そして40日の大斎節の後、大きな転換点である復活日を自分のこととして感謝と喜びをもって迎えることができますように。

 私たちは、40日間の大斎節を神に仕えることを通して、その先にある主の復活の力を受けることが出来るよう、よい祈りと修養の大斎節を過ごして参りましょう。

 
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2024年02月14日

拡がり (愛恩便り2017年5月)

拡がり

「強く、雄々しくあれ。」 ( ヨシュア記 1:6 ) 


 子どもたちは、愛恩幼稚園で生活する空間にも時間にも慣れ始め、表情の明るさ、柔らかさも増し、言動も意欲的になってきました。

 子どもたちは、それぞれに自分の好きな、遊具、場所、絵本などを見つけ、先生や友だちと一緒に、その楽しみを味わい始めています。これまで知らなかった世界を知り、そこに更に新しい発見があったりその面白さを感じたりすると、子どもたちの心の中には、その経験をとおして、「心の幅や深み」が生まれて来ます。

 そして、その「心の幅や深み」は、子どもたちがこれまで経験したことのない事態に直面した時にも、それに立ち向かう意欲やゆとりになり、他の友だちと関わる上での優しい気持ちや気遣う思いをも育むことへとつながっていきます。

 その意味でも、私は、子どもたちがたくさん遊び、その遊びをとおして良い経験をたくさん積んでほしいと思っています。子どもの遊びが拡がることは、子どもの心の中も拡がることにつながります。そして遊びの拡がりを通してたくさんの経験を積むことは、心の中にも深みが生まれます。

 例えば、クレヨンで絵を描くことが白い画用紙の上に自分を表現する経験になり、鬼ごっこをすることで逃げるだけでなく鬼になって他の友だちを追いかける立場の経験もすることになり、しかもそれらのことを先生や他の友だちと楽しみながら積み重ねていくことで、それぞれの内的な世界がますます拡がり豊かになっていくことになります。

 入園、進級してほぼ一ヶ月経つこの時期、子どもたちは先生や友だちとの交わりをとおして、自分の世界をどんどん拡げていきます。この時期は、子どもたちがこれから多くのことに興味関心を示し、物事に前向きに取り組む姿勢や意欲を方向付ける大切な時期です。

 神さまの大きな御守りの中、子どもたちの力が表現され、その世界が拡がっていくように、共に歩んでいきましょう。


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2024年02月12日

見える世界、見えない世界 (愛恩便り2017年4月)

見える世界、見えない世界                         

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ 4:18 ) 


 新年度を迎えました。保護者の皆さまにはお子さまの入園、進級おめでとうございます。

 今年の春の訪れは、寒い日も多く、やや遅いように思えましたが、園庭には、春の花が咲き、創り主をほめたたえています。その球根や花苗の多くは、昨秋に子どもたちが植えたものです。寒い冬の間もこの花苗や球根は、土の中で根を張り、芽を出し、暖かな春の陽を受けて開花しました。

 寒い冬の間にしっかり根を張ることは、土の中でのことであり、わたしたちの目には見えませんが、花を咲かせ実を結ぶためにはなくてはならない成長の過程です。

 子どもたちの成長にもこのような過程(プロセス)があります。目に見えて何かができるようになる前に、必ずその前提となる訓練や準備の時を過ごしています。それは、日々の何気ないこと、当たり前のことを丁寧に積み重ねていくことの中にありそうです。

 縄跳びを例に挙げれば、縄跳びができるようになる前提として、両足でジャンプする力や手足の動きを調和させる力がついていること、リズム感や空間を認識する力などが必要となります。そしてそのような能力は、いきなりロープを持ってジャンプすることで養われるわけではありません。さかのぼれば、しっかりハイハイすること、歩いたり走ったりすることに始まり、たくさん体を動かして遊び込めるようになる過程が必要です。更にさかのぼれば、まだ赤ちゃんの時からしっかり目と目を合わせて笑顔を交わし合う過程があってこそ、やがて様々な特別な技量や能力が花開かせることへとつながるのです。「縄跳びをする」という目に見えることの背景には、目には見えない沢山の大切な過程があるのです。

 愛恩幼稚園では、子どもたちの目に見えない世界も大切にして理解することを心がけています。そして、子どもたちの成長の過程を教職員もご家族の方々と一緒に味わっていきたいと思います。子どもたちがやがて目に見える大きな成長を遂げる日を夢見ながら、日々の保育の働きに努めて参りたいと思います。

 ご家庭でも、幼稚園でも、子どもたちが周りの人々と豊かに心を通わせることを通して、子どもたちがしっかりと育つように、支援して参りましょう。

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2024年02月11日

主イエスの変容貌  マルコによる福音書9章2-13      大斎節前主日

主イエスの変容貌  マルコによる福音書9章2-13      大斎節前主日  2024.02.11


   教会の暦では今週の水曜日から大斎節に入ります。顕現節から大斎節に移ろうとするこの主日(大斎節前主日)の聖書日課福音書は、毎年、主イエスの変容貌の箇所が朗読されています。

 この物語はマタイ、マルコ、ルカの3福音書にありますが、主イエスの生涯の中で、この変容貌の出来事は、主イエスがエルサレムに向かって歩み始める直前にあります。この出来事は、主イエスの御生涯の中で、一つの大きな転換点(節目)に位置付けられています。つまり、主イエスの宣教の働きの前半部はガリラヤが舞台になっていましたが、この変容貌の出来事を節目に主イエスはエルサレムに上って行かれるのです。

 主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子を連れて、高い山に登られました。すると、主イエスのお姿が弟子たちの見ている前で真っ白く目映く輝きました。そこにエリヤとモーセが共に現れ、3人は語り合っています。ルカによる福音書の同じ物語の箇所には、彼らが語り合っていたのは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期についてであった(9章31)。」と記されています。3人の弟子たちは主イエスのお姿に深く感動しながらも、その出来事をどう受け止めればよいか分からず、何を言えばよいのかも分からず、その場に立ち尽くしていたのでした。

 主イエスの公生涯は、ガリラヤから始まりました。そしてこの変容貌の出来事の前までが、ガリラヤ地方での主イエスを記しており、ここまでが前半部と言えます。主イエスは、悪霊を追い出し、病人を癒し、教えを説き、様々な奇跡を行って沢山の人を導き救いを与えました。主イエスはこの変容貌の出来事の後、エルサレムに向かって歩み始め、エルサレム神殿ではユダヤ教の指導者たちと激しい論争をし、その数日後には十字架の上に処刑されてしまうのです。

 このような、言わば転換点に当たる主イエス変容の出来事は、イエスがどのような意味で救い主なのか、そしてイエスはどのような意味での輝きを放つお方であるのかを示していると言えます。

 主イエスが、ガリラヤ地方で始めた神の国を伝える働きには目覚ましい一面がありました。しかし、人々の多くは、主イエスの働きを見て、主イエスが本来なさろうとすることの思いとは全く違う期待を寄せ、また、自分の願い事を満足させるために主イエスを用いようとしたりする人まで出て来ました。その人々の中には、主イエスを王に仕立てようとする人や反ローマ運動のリーダーにしようとする人もいたのです。

 しかし、それは主イエスの望むことではありませんでした。

 今日の聖書日課福音書の少し前の箇所に、多くの人たちが主イエスにそれぞれに様々な期待を寄せる中で、主イエスがどのような思いでおられたのか伺える言葉があります。

 例えば、第8章34節で主イエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言っておられます。この言葉は、人々が主イエスを用いて自分の思いを満足させようとするのに対して、誰もが神から与えられた自分の十字架を負うこと、つまり神の御心を誠実に全うすべき自分の使命を負うことを教えておられます。

 主イエスの変容貌の出来事は、このような第8章の教えの後に続きます。つまり、主イエスの白く目映いお姿は、武力や財力によって他の人を支配したり征服したりする事で現れる栄光ではなく、病気の人や弱く貧しくされた人々を愛し抜き、支え抜いて、仕えることを通して現れ出る天の輝きを示す出来事なのです。そしてこのことは、主イエスがなぜエルサレムに上っていこうとするのかと言うことに深く関係することだったのです。

 少し、違う視点から考えてみたいと思います。

 マザーテレサは「自分のもの」として所有していたのは修女としての衣服(サリー)2枚とサンダルだけであったと言われています。これほどに自分から貧しくなり、カルカッタの路上で生活する極貧の人々の最期を看取る働きを続けました。彼女は1979年にノーベル平和賞を受賞しましたが、その晩餐会開催を辞退してその費用や賞金を極貧者の支援に用いるように申し出て受け入れられました。世界中の人たちがマザーテレサの生き方の中に主の栄光の輝きを見たのです。この輝きは、自分の物欲や名誉欲を満たす生き方からは生まることはなかったでしょう。また、それは能率や経済性、また合理性を優先させる生き方からも遠く隔たっています。

 こうした彼女の働きはこの地上で貧富を産み出す構造の中では焼け石に水であると評価する人たちもいました。しかし、彼女がこのように生きる力は、1982年にはイスラエルとパレスティナの双方の高官にかけあって武力対立を一時休止させ、戦火の中で身動きがとれなくなっていたベイルートの病院の患者たちを救出する力になりました。

 もし、マザーテレサが、インドの英語学校の校長を続け、その学校に勤務し続けても彼女を高い評価を得る仕事をしていたかもしれません。

 マザーテレサの輝きはそれとは違う姿で現れました。

 彼女は、36歳の時に汽車に乗っていると、「学校から外に出て、貧しい人々と共に住んで、彼らを助けるように」との神の声を聞いたと伝えれらています。この出来事も主イエスが山の上で白く目映く輝いてモーセとエリヤと共に何かを話し合っていたことと同じ意味を持つ出来事であったように、私には思われます。

 私たちが「主イエスに従って生きる」と言う時、その内実は何なのでしょうか。主イエスは、貧しさや困難に打ちひしがれて捨てられ、人間らしく扱われない人々のために生き抜いて、最後には十字架に架けられて死んでいます。そのためにエルサレムに向かう主イエスのお姿が白く目映く輝くのです。

 もし私たちが主イエスに、自分の財産や持ち物が富むこと求めたりこの世の権力を得て輝こうとするのなら、私たちは主イエスの十字架にも復活にも栄光の輝きを見ることはできないでしょう。

 でも、私たちが自分の弱さ、貧しさ、小ささや罪深さを知って、それを悔い嘆き、主イエスの御前に進み出るなら、主イエスはその人を受け容れ、赦し、愛しぬいてくださり、死の先にまで共にいてくださる約束を確かにしてくださるでしょう。その時、私たちは主イエスに対する感謝と喜びを得て、主イエスの十字架に何物にも替えられない輝きを見ることが出来るのです。

 山の上で主イエスが光り輝いている間に雲が表れて、そこにいる人々を覆いました。そして雲の中から「これは私の愛する子。これに聞け」という声がしました。この「これは私の愛する子」という言葉は、主イエスが洗礼をお受けになった時に天から聞こえた言葉であり、私たちにその時のことを連想させます。それは主イエスが公に宣教のお働きを始められるに当たり、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった時に天から聞こえた主なる神の言葉です。

 主イエスは、これからエルサレムに向かいます。十字架に向かう旅の始まりです。その時に、従おうとする3人の弟子たちに、「これはわたしの愛する子」という神の声がかかり、更にその声は「これに聞け」と言う言葉が続きます。

 ここでの「聞く」とは、ただ「耳を傾ける」ことを意味するのではなく、「聞き従う」という意味であり、ここで主なる神は、弟子たちに主イエスの言葉を聞いてその通りに行うことを求めていることは明らかです。神は、主イエスが歩んで行かれるのと同じ道を歩むように弟子たちを招いておられるのです。

 私たちも、主イエスの栄光の姿をしっかりと見上げて、歩んでいきたいと思います。自分の十字架、つまり神が私たち一人ひとりにお与えになっているそれぞれの使命をしっかりと担い、主イエスに導かれることによって、少しずつ主イエスの輝きを自分の身に映し出す恵みを与えられるように育まれ導かれて参りましょう。

 期節は大斎節に入ろうとしています。主イエスが十字架の苦しみを越えて、死の先にまで私たちに希望と力を与えてくださっていることを感謝し、私たちも主イエスの栄光の輝きに与ることが出来るように、自分の十字架を担い、主イエスに聞き、導きを受ける大斎節へと向かって参りましょう。

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タラントン (愛恩便り2017年3月)

タラントン

「お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」(マタイによる福音書25:21)


 神さまは、私たちにいろいろなプレゼントをしてくださっています。そのプレゼントは、多くの場合、「麦の種」のようであり、直ぐに役立つわけではなく、潜在的な可能性として与えられている場合が多いのではないでしょうか。そのプレセントのことを「タラントン」と言い、「才能(タレント)」の語源になっています。

 イエスさまは、そのことを譬え話にしています。

 ある主人が僕たちにお金(タラントン:多額なお金の単位です)を預けて旅に出ました。長い年月が経ち、戻って来た主人は僕たちを集めて預けたお金の決算を求めます。

 ある僕は、「ご主人様、5タラントン預かりましたが、ご覧ください。ほかに5タラントン儲けました」と報告すると、主人は喜んで「お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」と言いました。他の僕も同様でしたが、他の僕が進み出て「あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。これがあなたのお金です」と差し出すと、「怠け者の悪い僕だ。・・・さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、10タラントン持っているものに与えよ」と言ったのです。

 このたとえの主人は、私たちが受けたプレゼントを眠らせておくことを喜ばれず、その僕を厳しく叱っています。

 神は、私たちに与えてくださった様々な賜物を生かし用いることを喜ばれます。もし私たちがその賜物を一所懸命用いて努力しても満足する結果が得られなかったような場合でも、神はそのことを否定なさらず、チャレンジした経験をまた私たちの宝になるようにしてくださるでしょう。

 その意味でも、神さまから与えられた賜物は、使えば使うほど立派な財産として大きくなります。

 神さまからのプレゼントの中には、素晴らしい自然やそこに住む動植物のようなものもあります。でも、それだけではなく、私たちの体と心の中に「種」のように与えてくださったタラントンもあり、それは使えば使うほど素晴らしい才能として成長することを知っておきましょう。

 運動選手や音楽家が、何度も何度も練習するのも、神さまからいただいたタラントンをより素晴らしいものにするためです。

 園児たちも、この一年間、幼稚園でたくさんの経験を積み、神さまからプレゼントを生かし、色々な事が出来るようになってきました。その喜びを分かち合って感謝しつつ、神さまからいただいた賜物を更に豊かに成長させていくことができますように。

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仕えることと祈ること  マルコによる福音書1章29-39      顕現後第5主日

仕えることと祈ること  マルコによる福音書1章2939      顕現後第5主日  2024.02.04


2024年2月4日 顕現後第5主日 説教小野寺司祭 (youtube.com)

 主イエスの宣教の働きは、ガリラヤ地方で、病気の人々を癒し、悪霊を追い出し、福音を宣べ伝えて始まりました。主イエスは、休む暇もなく働いておられます。その一方、第1章35節には、祈る主イエスの姿が描かれています。

 「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた。」

 主イエスが、大勢の病人を癒し悪霊を追い出してお働きになるその源には、祈りにありました。

 主イエスの教えも行いも、祈りに裏打ちされていたと言えます。

 私たちは、主イエスがそのお働きをなさる上で、深く祈っておられることに目を向け、私たちも祈ることを通して主イエスに養われ、導かれながら、人々の良い交わりの中に生かされる者であることを確認したいと思います。

 祈ることについて、思い巡らせてみたいと思います。

 祈りは、神と深く心を通わせることであり、私たちは祈ることによって自分の心の深い思いや言葉に表せない深い呻きを含め、私たちの全てを神に触れていただき、受け入れていただきます。私たちは、祈りを通して自分の全てが神に受け入れられ、愛されていることを確認し、自分を神に委ねて生きることが出来るようになります。主イエスの御名によって神に祈ることは、自分自身とも深く関わり、その中で新たに自分自身と出会うこともあります。

 もし私たちがこのようにして自分自身と深く真実に関わることをしなかったら、私たちはどうして他の人々に関わる者として、真実で落ち着きのある関係をつくり上げることが出来るでしょうか。自分と深く向き合うことの出来ない者が他の人と深く真実な関係を持つことなど出来ません。また、祈りのない生活は、私たちの心の内側の世界に対する自分の感性をも錆び付かせます。

 私たちは、主イエスの十字架を、その縦棒を神との関係に、その横棒を人々の関係として例え、この縦の棒と横の棒の調和によって、私たちと神との関係が成り立つと教えられます。

 私たちは、祈りを通して神と向き合い、自分の心の一番奥深くまで神に触れていただき、私たちが自分で自分を理解するよりももっと深く自分を神に理解していただくことによって、初めて自分でも自分をよりしっかりと把握しながら生きていくことへと導かれるでしょう。そして、そのように自分を深く豊かに知る人が、他の人との関わりに於いても、相手の人としっかりと出会い、相手の人に正面から心と心を向き合わせることによって、相手の人に対しても建設的に支援する関わりを持つことが出来るようになるのです。

 例えば、専門職の心理療法士は、他人の心理的な病や悩みを共にすることを仕事にしますが、養成される過程で、またその仕事をしながら、自分自身がクライエントになって「教育分析」を受けるのです。他の人の内面に関わる者が、信頼のおける専門家のもとで自分がクライエントになって自分の内面に深く関わるのです。

 私たちが祈ることは、主イエスから「教育分析」を受けることに例えることができるでしょう。私たちが、信仰者として人々に関わることと祈ることの双方が車の両輪であり、私たちにとっての祈りは生活の中で欠かせないことなのです。

 私たちは今日の聖書日課福音書の中に「休む間もなく人々に関わる主イエス」と「人々から離れて祈る主イエス」という両面を見ることが出来ます。

 私たちは主イエスのお働きの中に、その両面、「祈り」と「交わり」の両面があることをしっかりと理解しておきたいのです。私たちにとっても、祈りによって神と深くつながることと、私たちの周りの人々に仕えて生きることは、信仰者として表裏一体、車の両輪で切り離すことの出来ない大切なことなのです。

 祈ることは、呪文を唱えることやまじないをするようなことではありません。私たちは、祈りを通して先ず自分が深く神と出会い、神に生かされることを確認することよって初めて、周りの人々に対する関わりもそこに神が共にいてくださる交わりになるのでしょう。

 主イエスの悪霊を追い出す働きも、その人を神に出会わせ、その人を神との交わりの中に生きるように導く働きであり、悪霊を追い出すことは、自分のことを棚に上げて他人の霊を操作することなどではないのです。

 教会は、主イエスの名によって祈ることで成長し、祈りによって示されたことを行いに表して世界に広がってきました。そして教会は、この祈りの力によって祈ることと仕えることの両面の働きを発展させ、礼拝することとこの世に仕えることを一つのこととして宣教の勤めに与ってきました。

 主イエスによって召し出された私たち一人ひとりも、人として成長しようとするなら、忙しさの中にあっても、先ず祈りを通してしっかりと神と向き合うことが求められます。そうすることを通して、私たちは他の人のことをもキリストと結び合わせる働きに与ることが出来るのではないでしょうか。

 私たち一人ひとりが祈りを通して主イエスと一つになることが出来ますように。そして主イエスが神と人に仕えたように、私たちもその働きに与る喜びを与えられますように。

 本日の特祷の言葉にあるとおり、私たちは主なる神への祈りを通して、行うべきことを悟る知恵とそれを忠実に成し遂げる恵みを与えられますように。

 この礼拝の後に予定されている堅信受領者総会が、主の導きのもとに進めることが出来ますように。 

posted by 聖ルカ住人 at 05:00| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする