2023年12月31日

「静かに夜露の降る如く」  ヨハネによる福音書第1章1~18節 2023.12.31

ヨハネによる福音書第1章118  2023.12.31  降誕後第一主日 


 今日は、降誕日の直後の主日です。改めて主イエス・キリストのご降誕を静かに思い巡らせてみたいと思います。

 ローマ皇帝アウグストから出た住民登録の勅令のために、人々は自分の生まれ故郷に帰る旅を急いでいます。強いられた旅をする人々が行き交うユダヤの町は、どこもごった返していました。とりわけダビデ家の由緒ある町であったベツレヘムは、住民登録をするために戻って来た人々で溢れかえっていました。人々は、我先に宿を確保しようとして高ぶり、町はいつになく騒がしい姿になっていました。

 ヨセフが、出産を控えたマリアを連れて、やっとベツレヘムに着いた頃、町の中にはこの二人が宿を取る余地はありませんでした。彼らが町からはじき出されるように、体を休めるために見つけた場所は町外れの家畜小屋だったのです。この家畜小屋とは、旅する人がロバやラクダをつないでおくための洞窟のようはところであったと考えられています。

 マリアは、このような場所で子を産み、その子は温かな産湯も産着もないまま、あり合わせの布にくるまれて飼い葉桶の中に寝かされたのでした。そこは、時々、動物たちの鼻息が聞こえる動物小屋で、静けさの中に、幼子の産声が響いた様子が想像されます。そこには、街中のざわめきとは対照的な静けさがありました。

 そして、救い主誕生の知らせを真っ先に受けたのも、住民登録の人々でごった返す町の喧噪からは離れた野原にいる羊飼いでした。もし今の世にキリストがお生まれになったとしたら、そのことに誰が気付くのだろうかと私は思うのです。

 もし現代に救い主がお生まれになるのなら、それは今から2000年前のあの日と同じように、現代の力や騒がしさに隠されて、私たちに気付き難く見え難い所であり、そのメッセージが届けられるのは、あの時が羊飼いたちの所であったように、町の喧噪から追い出されたような人々のいる辺境の場所であり、あるいはまた今の世の中で悩みや困難の中にあって明るみに出てこない人に対してなのではないか、と思うのです。

 そして、私はその良い知らせを受けることが出来るのだろうか、などと考えてしまいます。

 このことは単に都会と田舎という問題ではなく、私たち一人ひとりの心の中の事として考えてみる必要のあることなのではないでしょうか。

 このようなことを思い巡らしながらこの説教の準備をしていると、昔のある出来事を思い出しました。

 かつて、私が経験したある音楽会での事です。

 その音楽会の観客席には多くの子どもたちが集まっていました。もう演奏が始まろうというのに、会場の子どもたちは演奏会の嬉しさいつまでも浮ついてざわざわしています。私は演奏者のことを思うと少々はらはらしてきました。

 そのような会場で演奏会が始まろうとする時に、演奏者は挨拶の中で、静かにこう言ったのです。

 「私たちは、沈黙の緊張感の上に立って演奏したいと思います。演奏中はぜひ皆さんの沈黙でその緊張感をつくってください。」

 わたしは本当にそうだと思いました。このことは、音楽だけではなくこうした礼拝でも、またキリスト降誕を受け入れる心についても言えるではないかと思いました。そして私は、その時から「沈黙の緊張感」という言葉が大切な言葉になっています。

 私は、キリストの降誕についても、この「沈黙の緊張感」の中で思い巡らせ、御子の降誕の恵みを受け容れるべきだと思うのです。

 この「沈黙の緊張感」を汚れの無い白い紙に例えれば、書道や墨絵もこれと共通することが言えると思います。紙の白さの上に描き出される墨の色合いは紙の白さと対比して浮かび上がります。もし紙が汚れていては、書家は筆を動かそうという意欲が引き出されないし、仮に書いたとしても作品の美しさは紙の汚れに邪魔されるでしょう。音楽の場合も、沈黙の静けさとその緊張感を必要とします。演奏者は、沈黙の緊張感によって引き出されてくる演奏への思いを表現し、それが聴く人は自分の心の深いところにその演奏を共鳴させるからこそ、演奏者と聴衆の間に一体感が生まれるのです。この大切な沈黙が損なわれてしまっているところで演奏するのであれば、演奏する人の意欲がどうなるのか、私のような凡人でも少しは想像できます。

  神さまからの救いのメッセージも、馬小屋の深い静けさの中で、弱く小さな姿をとってこの世に与えられています。ヨセフとマリアは、人口調査の慌ただしさの中で誰にも配慮してもらえずに、町の外にはじき出されるように家畜小屋へと追いやられ、その静けさの中で初子を産み飼い葉桶に寝かせました。

 救い主は、静けさの中で、その緊張感の中で、この世界に宿りました。神は、人々を威圧するのでもなく屈服させるわけでもなく、静かに夜露の降る如くに、この世界にそっと救いのメッセージを届けて下さったのです。

 人口調査の慌ただしさの外で、静かな野原で、このメッセージを聴いて受け入れたのは誰だったでしょう。

 それは、ローマ皇帝による住民登録の対象にさえならない無法者の羊飼いたちでした。羊飼いたちはこの日、夜の静けさの中で、自分の生きざまとその心の深みとに届けられるメッセージとが出会う緊張感を味わいます。彼らは静けさの中にいたからこそ、町の喧噪の中では決して聞こえてこない神のメッセージを受けることになるのです。

 私は、このことを私たち一人ひとりの心の中の事として考えてみる必要があると思うのです。

 ある哲学者がこのようなことを言っています。

 誰にでも心の中に他の人と分かち合う事のできない密やかな片隅があって、神はそこで私たちと出会ってくださる。私たちはそこでしか神と出会えないのかもしれない。

 仮に自分が傲慢であってその傲慢さを顧みようとしないなら、私たちの心の中には神の宿る余地はありません。私たちが自分の心の密やかな片隅を思って静まるとき、わたしたちはそこに神が語りかけてくださ小さな声に気づけるのではないでしょうか。

 福音は、声高で華やかなメッセージであるとは限りません。

 キリスト誕生の物語は、どれも静かです。乙女マリアへの受胎告知、夫になるヨセフにマリアを迎えるようにという夢のお告げ。飼い葉桶の幼児イエス。羊飼いへの御告げや三人の博士の来訪までどれも静かです。その一方で先を争って宿を求めたであろうベツレヘムの街中の人々や幼子の殺害を企てるヘロデ王は声高であり、居丈高でした。このように、聖書は静寂の中で神のメッセージを聞き取る人と聞き取れずかえって踏みにじる姿を対照的に描き出します。

 静かにこの世に生まれた御子イエス・キリストを、私たちは心の中のどこに迎えようとするのでしょうか。弱く貧しく小さな姿をとって私たちに宿ってこの世に来てくださった救い主を、心の片隅の密やかなところに迎え入れることができますように。

 主イエス不在の世俗のクリスマスシーズンは既に去りましたが、私たちのクリスマス(キリストの降誕を感謝して祝う期節)は降誕日から12日間続いています。神の御前に心を静め、私たちの内に静かに来てくださったイエス・キリストを感謝し、神の子の訪れを私たちの内に宿ってくださっている恵みを受け止める時を過ごしましょう。

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2023年12月27日

「お言葉どおり、この身に成りますように」  ルカによる福音書第1章26-38節 降臨節第4主日  2023.12.24

「お言葉どおり、この身に成りますように」  ルカによる福音書第1章2638節 降臨節第4主日  2023.12.24

  今日の聖書日課福音書には、いわゆる受胎告知の物語が取り上げられています。天使ガブリエルがマリアに現れ、マリアに告げました。

 「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」

 マタイによる福音書の第1章の物語の中に、また、このルカによる福音書の第1章の中に、マリアはヨセフの許婚であったことが記されています。

 天使ガブリエルはマリアの前に姿を現してこう言いました。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」29節によれば、マリアはこの言葉に戸惑っています。マリアは、驚き、恐れ、おののきながら、天使ガブリエルの「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」という言葉を聞きました。そして、マリアは一度は「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしはまだ男の人を知りませんのに。」と言いますが、最後には天使ガブリエルに従って「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。

 ヨセフとマリアのことについては、マタイによる福音書第118節~にも記されていますが、そこでは夫になるはずであったヨセフがマリアの懐妊を知って思い悩んだ様子が記されています。ヨセフばかりでなく、マリアもこの出来事にどれほど心を揺さぶられたかということは、私たちの想像の域を遥かに超えているのではないでしょうか。

 その当時、婚約することは律法の上で結婚に等しく見なされることで、未婚の女が子を宿すことは律法に反する事であり、姦通の罪を犯した者として町の外に引きずり出されて石打の刑に処せられる可能性もありました。

 マタイによる福音書第1章では、夫になるはずのヨセフがマリアの受胎について悩み抜き、一度は離縁する決心をしたと記されています。それにも関わらずマリアは、天使のみ告げを受けて「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と答えています。

 マリアの答は、深い呻きを伴う祈りの言葉であったに違いありません。

 私たちは、この受胎告知に物語で、28節で天使ガブリエルの「おめでとう、恵まれた方」という言葉を聞くと、この言葉だけを切り取って、マリアがまるで大きな幸運を手にする女性であるかのように考えてしまうのではないでしょうか。また、今日の福音書の直ぐ後の箇所で、マリアがエリサベトから祝福の言葉を受けていることや、マリアが神を誉め讃えて「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」と歌うのを聞けば、私たちはマリアが幸運で幸福で明るく過ごして天国に迎えられる人であるかのようにも思えてくるかも知れません。

 でも、イエスの母マリアは、見方によれば、決して幸運でもないし幸福でもなく、むしろ生涯にわたって重荷を負い、イエスの母としての辛さや苦しさをも味わい尽くしたのではないかと私には思ます。

 周りの人々から未婚の母と見なされるに違いない受胎告知を「お言葉のとおりこの身に成りますように」と受け入れ、やがて勅令によるナザレからベツレヘムへの強いられた旅。子を産むための場所もなく身を横たえたのは旅する人々がロバやラクダをつないでおく街外れの家畜小屋。周囲の人々の刺すような視線を受けながら育て上げた息子イエスは30才になった頃に家族を離れて神の国の運動に没頭していきました。そのような我が子に会いに行くと、我が子から返って言葉は「わたしの母、兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」でした。それはマリアにとって親子関係を否定されるように響く言葉になったことでしょう。それでも、マリアはイエスの母親として息子を愛し続けますが、やがてイエスはエルサレムに上り、そこで理不尽にもユダヤ教の権力者ちによって犯罪人に仕立てられ、十字架刑に処せられてしまうのです。母マリアは我が子が神殿の指導者たちや群衆に罵られながら十字架の上に死んでいく様を見ました。

 「お言葉どおり、この身に成りますように。」

 こう言って、自分の全てを主に委ねて生きたマリアの人生は辛く苦しいものであったに違いありません。そして、この母親から生まれ育ったイエスは、マリアと同じように、それだけでなくマリア以上に全てを主に委ねて生涯を送りました。

 主イエスは、殺されることになる前の晩に、オリーブ山で血の汗を流して祈りました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください(22:42)」。

 イエスは十字架につけられた最期にも「父よ、わたしの霊を御手に委ねます(23:46)」と叫んで息を引き取りました。

 マリアから生まれマリアに育てられたイエスは、母親と同じように自分を神に委ねて一生を過ごします。イエスの最期は無惨な死であり、その時にもあの受胎告知の時のマリアと同じ言葉で息子イエスが全てを主なる神に委ねる姿を、マリアは仰ぐことになるのです。それは、マリアが天使ガブリエルに「お言葉のとおりになりますように」と答えてから33年近くが経った時でした。

 マリアは、受胎告知を受けた時ばかりでなく、おそらく一生を「お言葉どおりこの身に成りますように」と祈り通したことでしょうし、そう祈らないわけにはいかな生涯だったことでしょう。そして、イエスは幼い頃から、母マリアの腕の中で、繰り返し繰り返し母マリアの言葉を聞いて育ったはずです。

 「お言葉どおり、この身に成りますように。」

 天使ガブリエルは、マリアに受胎を告げる時、「おめでとう、恵まれた方」と呼びかけ、「あなたは神から恵みをいただいた」と語りかけました。マリアの生涯は「いったい、なぜ、これが恵みなのですか!」と幾たびも叫ばずにはいられない思いだったことでしょう。

 天使ガブリエルの言う「恵み」はどこに現れるのでしょう。

 それは、主イエスが十字架の死と甦りを通して、神の子の救いのみ業がこの世界にハッキリと示され、イエスを救い主として受け入れ信じる人々が生まれてくることによって、初めてマリアの恵みを確認することができるのではないでしょうか。つまり、私たちが信仰者として主イエスを救い主として受け入れ信じて生きることで、マリアの恵みはハッキリと現れ出るのです。

 この恵みは、マリアに限らず、神の働きが自分の身をとおして行われことを通して現れ出るものであり、言葉を変えれば、私たちが神の御心を表す器となる時に、マリアが苦しみを忍び、辛さを耐えて祈りながら生きたことの意味が明らかになるのです。そして、私たちも神の言葉が実現するように働いて生かされる時、「おめでとう、恵まれた方」という天の祝福を、マリアと共にいただく者とされるでしょう。

 マリアは自分を「主のはした女(仕え女)」と言いました。マリアは、自分を神に委ねて生きる事の中に働く神の恵みと祝福を信じて多くの苦労を担う生涯をおくり、自分の身を通して神の御心が成し遂げられる出来事の器となり続け、そこに示される神の祝福を受けながら生きて、神の御心を証しました。

 マリアが天使ガブリエルから告げられた恵みは、神に選ばれ、神の働きに招かれた者が受ける「恵み」です。この「選び」の「恵み」に対してマリアは「お言葉どおりこの身に成りますように」と応えているのです。

 私たちも、この世界に命を与えられ、この世の舞台に送り出されています。私たちは、神に選ばれ、神に招かれたことを自覚して生きる者であり、私たちは、マリアと同じ恵みと祝福の中に生かされています。

 私たちも、マリアと共に「神よ、私を御心を現す器として用いてください」、「お言葉どおり、この身に成りますように」と祈りつつ生かされて参りましょう。

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2023年12月26日

「感動」と「自己表現」(愛恩便り2016年10月)

「感動」と「自己表現」

賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 12:4-5 ) 


 かつて、ある絵画教育の作品展を見学した時のことです。まるで大人が描いたような作品がずらりと並んでいました。見ている人の中には「じょうずねぇ、幼稚園生が描いたとは思えないわね」という人もいましたが、私はその作品を見ながら、次第にある種の気分の悪さを感じ始めていました。

 そこに並んでいる絵は、極端に言えば、描き方の訓練を受けた子どもの技術の発表であり、その技巧ばかりが目立って年齢相応の感性が封じ込められていて、残念ながらそれらの作品からは一人ひとりの「存在感」が伝わって来なかったのです。

 たとえば、絵画の場合にはクレヨンや絵の具の基本的な使い方や、版画の場合には彫刻刀の基本的な扱い方や注意事項を子どもに教える必要があるでしょう。また、習字の筆の扱いのように、止め、払いなどの部分的な練習が必要になることもあるでしょう。でも、芸術の根底になくてはならないのは技巧ではなく、先ず「感動」です。

 わたしがかつて出会った子どもに、生き生きとした絵を描く子どもがいました。ある時、その子は魚が泡を吐く様子を描きながら、小さな声で「ブクブクブク・・・」と言っていました。きっとその子どもは実際に魚が泡を吐く姿を見て感動し、興味を持ち、その様子を思い浮かべながら絵に表現していたのでしょう。脇にいるわたしにもその子の「ブクブクブク・・・」と言っている思いが伝わってくるようで、楽しくなりました。

 ある著名な日本画家がひどいスランプに陥った時の有名な話があります。

 彼は、ある時期に絵を描く意欲がわかず、しばらく絵筆を持つことから遠ざかっていました。ある日、森を歩いていると、一本の木が突然「わたしを描いてください」と迫ってきて、彼は夢中でその木の絵を描きました。その時をきっかけに彼は絵描きとしての自分を取り戻した、というのです。

 人は誰でも、好きなことには熱心になれますし、感動することが意欲につながります。好きなことに夢中で取り組むとき、その成果も目に見えて上がり、ますますその事に意欲的になり、そこで新たな感動を得ることになります。子どもたちもそのような夢中になれる「楽しみ」と出会えるといいな、と思います。かつて、わたしの息子が所属していた大学野球部のモットーは「エンジョイ・ベースボール」でした。この「エンジョイ」とは、ただ愉快にやるということではなく、目標に向かって自分から練習にも工夫を凝らし精一杯挑戦するという意味が込められているのだそうです。そうであればこそ、強いられてすることでは味わえない充実感や達成感が得られ、自分から挑戦して限界を超えていく経験をエイジョイすることも出来るのでしょう。

 子どもたちも、自分の感動から表現の広がりや深まりを獲得していく経験を沢山して欲しいと思います。その時、それぞれの個性が一層光り始めるでしょう。それは、運動、絵画や造形、音楽等の表現についても言えることです。

 そして、そのためには、わたしたち大人が子どもの小さな感動に共感することが求められます。子どもは、自分の感動に共感してもらうことで、その感動を自分の中に確かなものとして定着させます。それは、物事を感じる自分を再確認し、自信を持ち、自分の存在感を高めることにつながります。それは更に、怖れなくのびのびと自分を表現する力になるのです。子どもたちが自分の感動を豊かに表現できるように、わたしたちは子どもの感動を受け止め、共感し、子どもの表現を共に喜ぶものでありたいと思います。

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神の愛を受信する ヨハネによる福音書1:1~14 降誕日

神の愛を受信する   降誕日 ヨハネによる福音書第1章1~14節  2023.12.25


 かつて、私が勤務していた教会に宇野徹主教が巡回してくださった日がちょうど教区の児童の日であり、子どもたちも礼拝に出席する中で主教さまに説教をしていただいた事がありました。その時に主教さまはある道具を持参され、それを示しながら説教をして下さったことを印象深く記憶しております。その道具とは、一つが携帯ラジオ、もう一つは玩具のラジコンカーでした。その説教は私にとっても興味深いものでした。

 主教さまは、そのラジオのスイッチを入れて、ダイヤルを動かしながら、「電波は目には見えないけれど、こうして電波の周波数に合わせるとラジオはその電波を受信して放送を聞くことが出来ます。放送局からの番組を受信するにはその電波の波長に正しくダイヤルを合わせることが必要です。それと同じように、私たちも神さまが与え続けている愛の力を正しく受けられるように、日々の生活を霊性を祈りつつ育てていく必要があります」とお話になりました。

 また、ラジコンカーを前後させながら、「目には見えない電波を受ける車とコントローラが発する電波の周波数が合っている時にはじめて車が動きます。わたしたちも神の愛の力を受けてはじめて生かされるのです。だから、私たちは聖書を学ぶことや毎日の生活の中で神の導きを求めて祈ることにより、神の御心にピタリ合う生き方に励み、福音の喜びに満たされるようになりたいですね」という主旨のお話をしてくださったのです。

 今日の聖書日課福音書であるヨハネによる福音書の冒頭は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と伝えていますが、今述べたラジオのたとえで言えば、人間の方ではまだ電波を受信できるほどに信仰が育っていない時でも、神はこの世に生きる私たちに愛の電波を今も絶えることなく発信し続けておられ、これからもずっと発信し続けて下さるのです。その愛の電波のことを、ヨハネによる福音書では「言(ロゴス)」と言っています。

 「言(ロゴス)」という箇所を「神が発信する愛の電波」と置き換えて、今日の福音書の冒頭の部分を読みなおしてみます。

 「神が発信する愛の電波は初めからあった。電波は神と共にあった。愛の電波は神であった。この愛の電波は、初めに神と共にあった。万物は愛の電波によって成った。成ったものでそれによらずに成ったものは何一つなかった。この愛の電波の内に命があった。」

 しかし、「神の愛の電波」は、人々になかなか理解されませんでした。それは人の目には見えず、人はこの電波だけを抜き出して目に見て確かめることが出来ないからです。愛は何か具体的な行いの中に現れ出るのです。そして、私たちがこの愛の電波を確かめるためには、その電波をキャッチするための受信装置が必要になります。電波を受信した時にも、電波そのものを見るのではなく、電波を音なり映像なり動力に変換してはじめて、その電波の内容を確かめることが出来るのです。

 神さまがこの世に送ってくださった「言(ロゴス)つまり神の愛」についてもこれと同じことが言えます。神は天地をお造りになった初めからこの世界と人々を祝福し、愛し、関わり続けてきてくださいました。でも、私たち人間は、神さまの送る愛そのものを自分たちの目でしっかりと見て確認することが出来ませんでした。

 人は神の愛や守りが見えなくなったり感じられなくなったりすると、安易に目に見えるもの、触れて確かめられるものを求めて、そこに安心を得たくなります。神から離れて神を見失ってしまってもそのことに気付かないで、自分で思い描いき造り上げたイメージの神(偶像)を神として奉り、愛ではない物を愛であるかのように仕立て上げて、その幻想の中に生きようとしてしまうのです。私たちのまわりにも、本当は神からの愛によってしか癒されないはずなのに、お金に拠り頼んで他の人の財産までだまし取る者のニュースが後を絶たなかったり、権力にすがって他の人を踏みにじる者がおり、アルコールに溺れる者がおり、他の人の気を引くような事をして注目を集めて一時の快楽や満足を得たりうっぷんを晴らそうとする者もいるのです。しかし、それでは神の愛を受信する感性は鈍くなり、神の愛をキャッチして動き出すことからますます離れてしまうでしょう。

 主イエスの働きを快く思わず、十字架へと追いやった人々もそうでした。文字の上だけで愛を論じる律法学者たちは、神の本当の愛を実感できませんでした。また自分の身を守り形式的に儀式を繰り返し、それを民衆に強要する祭司長たちにとって、神の愛は邪魔であり面倒くさかったのです。

 そのような人々が支配するこの世に、神は、人の目に見える姿をとってご自身の愛を具体的に示して下さいました。それが神の子イエス・キリストの降誕です。神の子イエス・キリストは、人の上に立って支配し君臨するのではなく、貧しく小さなお姿を取って、人々の目に見える存在となってくださいました。ヨハネによる福音書第1章14節に「私たちはその栄光を見た」と記しています。

 私たちは主イエスを通して真の神の愛に触れて、目には見えない神の愛を実際に見て知り信じることが出来ました。文字の上でしか知らなかった「神の愛」の本当の姿を、主イエスを通して具体的に知らされ、その愛を受けた者は愛の電波の中継者となって人々を愛し、神の愛を伝える者へと変えられていくのです。

 律法によって「愛せよ」と幾度厳しく突き付けられても愛を実感できなかった人々は、律法を守れない人々を裁くようになります。律法を守れず裁かれた人々は、自分でも自分を否定してさまよい自分を見失ってしまいます。でも、そのような人々も、イエスによって自分も愛し抜かれていると言うことを心から理解できた時、本当の自分を取り戻して神の愛に生きるように回心するのです。

 神は、主イエスを通して私たちに神の愛を教えてくださいました。主イエスが示した「神の愛」をさらに世界に伝えていく働きは、その弟子たちに受け継がれ、使徒たちを通してやがて世界に拡がり、私たちの所にも届きました。

 神の愛を受信した私たちは、今度はこの「神の愛の電波」の中継基地となって、正しくこの神の愛の電波を中継して、人々に伝えていきたいのです。

 「言が世に来た」ことや「言は肉となって私たちの内に宿った」ということは、神の愛が主イエスをとおして具体的にこの世界に働いたことを意味しています。

 私たちはこの世で、時には弱り、時には悲しみにも出会います。でも、私たちは既に目に見える神の愛を与えられ、神の愛は私たちの中に深く宿っていて下さいます。馬小屋の飼い葉桶の中に、神の愛の姿を宿して下さった恵みを深く受けとめ、私たちも神さまの愛の電波を受信して中継する器として、それぞれの生活と働きを通して用いられるように祈り求めたいと思います。

 神の言が私たちのところに来て下さった喜びを一人ひとりが自分のものとすることが出来ますように。また、神の言をこの世界に中継し、それぞれの生活と働きの中で映し出す道具として働く喜びを与えられますように。

 主イエス・キリストのご降誕を感謝し、神の言を一人ひとりがしっかりと受信することができますように。

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2023年12月17日

証し人洗礼者ヨハネ ヨハネによる福音書第1章6-8,19-28節 降臨節第3主日(B年) 2023.12.17

証し人洗礼者ヨハネ  ヨハネによる福音書第1章6-8,19-28節 降臨節第3主日(B) 2023.12.17


 降臨節第3主日の聖書日課福音書には、洗礼者ヨハネが来たるべき救い主の先駆けとして現れた場面が採り上げられています。洗礼者ヨハネは、救い主イエスを指し示して証しました。私たちは、再び来られる主イエスを迎える備えをしつつ今年の降誕日を迎えようとしていますが、洗礼者ヨハネの証に心を向け、主イエスを救い主として私たちの心に深く迎え入れることができるように、今日のみ言葉による導きを受けたいと思います。

 先主日の聖書日課福音書でも、マルコによる福音書の冒頭の部分をテキストとして、洗礼者ヨハネのことを学びました。私たちは洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて、救い主イエスを迎えるための道筋を整え、心を主イエスに向けるべきことを促されてました。

 今日は、洗礼者ヨハネが主イエスを指し示して証して生きた姿から、私たちも光である主イエスを迎え入れて、その光を輝かせ、主イエスを証しする生き方へと導かれたいと思います。

 ヨハネによる福音書第1章の7節、8節に、洗礼者ヨハネは「イエスを証するために来た」という言葉が出てきます。この箇所に限らず、洗礼者ヨハネはイエスを指し示して証しているという言葉は福音書の中に幾度も出てきます。まさに洗礼者ヨハネの生涯は救い主イエスを証するものですいた。

 「証する」という言葉は、例えば裁判で証言をするという意味もありますが、「身をもって示す」、「断言する」という言葉で、それに徹した結果としての「殉教する」という意味を含むこともあります。「証する」とは、本当の事、真実である事に自分の命を懸けて示す事だと言えるでしょう。

 洗礼者ヨハネは、主イエスの先駆けとして現れ、主イエスを指し示して証する生涯を送りましたが、その時代は不安定な情勢にありました。

 当時、イスラエルはローマの国に占領されてその属領となり、ヘロデ家がローマの支配下で皇帝のご機嫌を取りながらその傀儡としての統治を任されていました。イスラエルの人々の中には、ローマからの政治的独立を願って抵抗運動する者や反乱をおこす者もあり、民は精神的にも不安定になっていました。また、いわゆる「偽キリスト」も現れ、民衆を扇動して社会を混乱させていました。

 洗礼者ヨハネやイエスが現れたのはそのような時代です。洗礼者ヨハネは救い主の訪れは間近に迫っており、救い主の到来に備えて悔い改めの洗礼を受けるように訴えました。その姿を見た民衆の中には、このヨハネこそ来たるべき救い主ではないか、或いはその先駆けとして来ると言い伝えられている再来のエリヤではないかと評価する者も出てきていました。しかし、洗礼者ヨハネは、イエスが救い主であることを証して指し示すことに自分を限定し、その働きに徹した人であったのです。

 エルサレムの権力者たちは、洗礼者ヨハネを調査し審問するために祭司やレビ人を遣わしていますが、派遣された者たちから「あなたはどなたですか」と尋ねられたヨハネは、公にハッキリと「わたしはメシアではない(1:20)」と言い、更にイザヤ書の言葉を用いて「わたしは荒れ野で叫ぶ声である(1:23)」と答えています。

 洗礼者ヨハネは更に第127節で主イエスのことをしっかりと証して、「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履き物のひもを解く資格もない(1:27)」と言っています。ヨハネは自分が何者であるのかをしっかりと理解して、その使命に徹しているのです。

 このような洗礼者ヨハネと主イエスの関係について、今日の福音書は第18節で次のように表現しています。

 「彼(洗礼者ヨハネ)は光ではなく、光について証しをするために来た」。

 福音記者ヨハネは、主イエスを「光」に例え、洗礼者ヨハネは光そのものではなく、光である主イエスを指し示し、またその光を映し出すことに徹した人であることを伝えます。洗礼者ヨハネ自身は光源(発光体)ではなく、あくまでも光である主イエスを指し示し、ヨハネはその光に照らされてこそ、自分が生きる意味があるというのです。

 この事を、主イエスを太陽に、洗礼者ヨハネを明けの明星である金星に例えてみると、その意味がよりハッキリと理解できるのではないでしょうか。

 惑星はそれ自身が光を放っているわけではありません。金星は太陽の光を受けて金星としての姿をはっきりと示されます。金星は太陽の光に照らされてこそ、金星の美しさが現れ出るのです。ことに、今の季節に、金星は明けの明星としてひときわ明るく輝いていますが、金星は太陽の光を受けて夜明けの星となり、やがて太陽が昇るとその姿は見えなくなります。この金星のように、洗礼者ヨハネは救い主イエスを人々に示すことに徹して生きる事で、洗礼者ヨハネがこの世に生まれて生かされた意味が輝きました。

 洗礼者ヨハネに限らず、私たちも救い主イエスによって生かされている者です。洗礼者ヨハネが自分の使命に徹して、光であるイエス・キリストを証して生きたように、私たちもそれぞれに与えられている自分の命を主イエスの愛に照らし出されて、自分が何者であるかの理解を深めながら御心を生きることはとても大切なことでると思います。

 先に例に挙げた太陽と惑星の関係で言えば、私たち一人ひとりは、主イエスを太陽としてその光によって照らし出され、その光を反射する惑星として位置付けられます。私たちは自分自身が光源になることはありません。私たちは光の源ではありませんが、神は私たち人間を神の似姿に創ってくださいました。神は私たちを真の光である主イエスを映し出す惑星のように輝く存在として創ってくださったのです。私たちが神の光である救い主イエスを迎え入れて神の輝きを映し出す時、私たちは人として最も美しく輝くことに導かれるでしょう。私たちが神の光の前に曇りの無い存在となって神の御前に進み出る時、私たちは神のみ栄えのために最も役立つことが出来るでしょう。

 私たちがこの神の恵みを正面から受ける事を避けるなら、私たちは神の光を映し出して輝くことが出来なくなり、命を失う者であることをよく心に留めておきたいと思います。

 旧約聖書創世記第3章に、はじめの人間であるアダムとエバが神との約束を破って知恵の木の実を食べてしまった時の物語があります。アダムもエバも、罪を犯した自分に気付いたとき、神の顔を避けてエデンの園の木の間に隠れました。

 私たちも、もし神の御心に背を向けたりそこから隠れようとするなら、闇の中にある者、つまり御心から離れた者であり、主イエスの光を受ける事が出来なくなり、自分の居場所を確かめることも自分を見つめ直す事も出来なくなり、自分が歩むべき方向を失うことになるでしょう。

 洗礼者ヨハネは、公然と毅然と光である主イエスを指し示して証しました。私たちはこの主日に洗礼者ヨハネに促されて光である救い主イエスに心を向け、救い主イエスを真っ直ぐに迎え入れる準備が出来ているかどうかを確認するのです。

 「彼は証をするために来た。光について証をするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである(1:7)」とあるように、洗礼者ヨハネは私たちを信仰へと導きます。この導きを得て、私たちは光である主イエスによって心の隅々までを照らされて、光である主イエスによって信仰を強められ、主イエス・キリストを私たちの内に迎え入れ、感謝と喜びをもって生きる道を歩んで参りましょう。

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2023年12月13日

「やってみる」(愛恩便り2016年9月)

「やってみる」

「おまえは少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。」(マタイによる福音書第2520節)


 上記の聖書の言葉は、イエスのなさったたとえ話の中の言葉です。

 主人が、僕(しもべ)たちに、それぞれの力に応じて主人の財産を預けて旅に出ます。やがて主人は戻ってくると、僕たちに預けていた財産の清算をします。

 僕たちは、順に主人の前に進み出て言うのです。

 「ご主人様、ご覧ください。わたしは、あなたから預かったタラントンをもとに、これだけもうけました。」

 そのときに、主人が僕に向かって言ったのがこの言葉です。「おまえは少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。」

 しかし、僕の一人は、主人から預かった財産を減らすことを恐れて、土の中に埋めたままにしていました。その僕の申し出を受けた主人はこう言って叱ります。

 「怠け者の悪い僕だ。・・・さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、他の者に与えよ。」

 わたしは、この箇所を読むといつも思うことがあります。もしこの僕が主人から預かった財産を減らしてしまうようなことがあったとしても 、主人はその僕を叱ったり罰したりはしなかっただろう、と。

 主人が叱ったのは、その僕が儲けなかったからではなく、せっかく与えられたチャンスと自分の能力を埋めたままにしておいたからではないでしょうか。ちなみに、タラントンという言葉はタレント(才能)の語源になっています。

 わたしたちの体力も、気力も、精神力も、その他の能力も技術も、使えばそれだけ力となり、良い経験になって、ますます自分と周りの人々のために役立てることができます。スポーツ選手や楽器の演奏者が練習を繰り返して鍛錬するのも、そうすることで自分の能力や技術が更にレベルアップすることを知っているからでしょう。

 子どもたちもそうです。失敗することや叱られることを恐れずにチャレンジすることで、それだけ経験は広がり、深まり、更に次のことに向かう意欲も高まるでしょう。

 子どもにとって、成功体験ばかりではなく失敗の体験も、実際に自分でやってみた経験は、すべてが次の行動のステップになります。

 子どもたちが、幼稚園で過ごすのも、十人十色の経験がお互いに新しい刺激になり、新しい経験を共有して育ち合うことができるからです。わたしたち大人がすることは、子どもたちが伸び伸びとたくさん遊んで良い経験ができるようにその環境を造り、こどもたちが「やってみる」ことを支援することです。

 9月になりました。秋は幼稚園でたくさんの行事もあります。子どもたちがいろいろなことに挑戦し、各自のタラントンを大きくしていくことができますように。

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2023年12月11日

「主の道を整える」 マルコによる福音書第1章1~8節     降臨節第2主日 2023.12.10

「主の道を整える」  マルコによる福音書第1章1~8節      B年降臨節第2主日  2023.12.10


 降臨節第2主日の聖書日課福音書は、マルコによる福音書の始めの箇所から、救い主イエスの先駆けとして現れた洗礼者ヨハネを紹介し、救い主を迎える私たちにそれに相応しい準備をするように促しています。

 今日の聖書日課福音書から、先ず「福音」という言葉に着目してみましょう。

 私たちが何か特別に嬉しいことを経験した時、その嬉しさを他の人々に伝えて分け合いたくなります。福音記者マルコにとって救い主イエスを伝えることこそ喜びであり、その喜びのメッセージを「福音」と言います。

 マルコによる福音書は、主イエスによってもたらされた「福音」の初めはどのようであったのかということからこの福音書を始めています。

 福音記者マルコは、神の子イエス・キリストの生涯の始めに、その先駆け(道備え)として洗礼者ヨハネが現れたことを、イザヤ書40章3節の言葉を引用して紹介しています。

 「荒れ野で叫ぶ者の声する。

 『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

 福音記者マルコは、洗礼者ヨハネこそ荒れ野で叫ぶ声であり、その声は、直ぐ後からおいでになる救い主イエスを迎える道筋を真っ直ぐにせよと呼びかけていることを伝えています。

 福音記者マルコはここでイザヤ書の言葉の引用していますが、その意図をイザヤ書の記された時代背景を振り返って考えてみましょう。

 イザヤ書は66章から成る大きな書ですが、元々イザヤ書は時代背景の異なる3つの部分から構成されていると考えられています。その大きな区切りになるのが、イザヤ書第39章までと第40章はじめとの間です。一般的に、聖書学者たちは、イザヤ書第1章~39章までを第1イザヤの書、第40章~55章までを第2イザヤの書、それ以降を第3イザヤの書と分類しています。今日の旧約聖書日課は、第2イザヤの初めの箇所の言葉です。

 今日の聖書日課福音書の中でマルコは、第2イザヤの始めの言葉を引用しています。

 第2イザヤの時代背景には、バビロン捕囚の出来事が関わっています。

 バビロン捕囚とは、イスラエルの国が紀元前587年にバビロニア軍によって滅ぼされ、多くのユダヤ人が捕虜となって、遠く1000㎞の道のりをバビロンの地(古代よりメソポタミア文明として栄えていた地)まで連行されていった出来事です。捕囚の民は、連行されていった異国の地で発展した文明に圧倒され、自分たちの弱さと小ささを痛感します。一方、パレスチナに残されたイスラエルの民は、エルサレム神殿を破壊されて自分たちの信仰と生活の拠り所を失った上に、多くの有能な仲間を捕虜として奪われてしまい、立ち上がる気力もなくして約半世紀を過ごします。

 ところが、紀元前562年にバビロニアの王ネブカデネザルが死んだ後、バビロニア帝国は急速に衰退し、捕囚から50年近く経った紀元前539年に、新しく力を付けてきたペルシャとの戦いに敗れて滅んでしまうのです。ペルシャの王キュロスは、占領地の住民に寛容な政策をとり、バビロンで捕囚の身となっていた多くの人々にも寛大であり、捕虜たちは自分の国に戻る事を許されるのです。これによって、多くの民がバビロンから先祖の地に戻ることを許されました。捕虜になっていた多くのイスラエルの民はパレスチナに戻って来ます。それから30年あまりの時を経て紀元前516にエルサレム神殿再建が始まるのです。

 第2イザヤは、このようなバビロン捕囚時代の後期からバビロニア帝国の滅亡と解放、そしてパレスチナへの帰還という時代を生きた預言者で、イスラエルの民に神の言葉を伝え、その民に神の御心に立ち戻るように説いた預言者でした。イザヤ書第40章は、この第2イザヤの書の始まりの部分であり、バビロニア帝国の衰退とイスラエルの民の解放を見通して希望を与えた言葉者であると考えられています。

 先ほども触れたとおり、バビロン捕囚時代にユダヤ周辺に残っていた民は、国が滅び、仲間は捕虜となって遠い異国の地に連行され、神殿は破壊されて荒れ放題のまま時を過ごすうちに、神などいないと思う気持ちが芽生え、すっかり無気力になっていました。

 イザヤは、そのような民に希望を告げるのです。

 今日の旧約聖書日課のはじめの言葉イザヤ書40章1節、2節です。

 「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。

 エルサレムの心に語りかけ彼女に呼びかけよ。

 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。

 罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」

 それに続けて、福音記者マルコはイザヤ書第40章3節の言葉を用いて、救い主が出現する時は間近に迫っており、主に選ばれた民は救い主によって罪の束縛から解放されることを伝えます。

 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」

 この言葉は元々、戦いに出ていた王が敵を破って戻ってくる前に、その勝利を告げる使者が真っ先に戻って来て、我が王の勝利を告げ知らせ、王を喜び迎える準備をするように伝える言葉であったと言われています。そしてイザヤは、そのようなイメージをイスラエルの民がバビロンでの捕囚から解放されて戻ってくる姿と重ね合わせて、人々に救い主を迎える備えをするように告げ知らせたのです。

 そして、福音記者マルコは、その言葉を用いて、救い主の到来の時は迫っておりその備えをするようにと訴えます。

 古代の人々にとって、凱旋の王を迎える準備とは、道を整えて曲がりくねったところは真っ直ぐにし、狭く通りにくい所は拡げ、凹凸のあるところは平らにして、勝利の王を喜び迎えることでした。王が戦いに出ることは、民の運命を左右します。もし戦いに出ていった王とその軍隊が敗れれば、民もろとも他の国や民族に支配されることになってしまいます。王の敗北は、その民が捕囚となってバビロンに引き立てられていったように、その民が他の民族に隷属することに繋がっていました。

 それはイザヤの時代に限ったことではなく、主イエスのお生まれになる頃の時代も同じでした。その頃、イスラエルはローマ帝国に占領されてその属領となり、イスラエルの民は重税や兵役を課せられていました。神から賜った地を占領されたイスラエルの人々の願いは、民族の政治的な独立を回復し、自分たちをローマの支配から解放する新しい救世主の出現を待ち望んでいました。

 しかし、マルコがこの福音書を通して伝えようとする福音(喜びの知らせ)は、人々に政治的な独立を与える王についてのメッセージではありませんでした。

 福音記者マルコは次の言葉で喜びの知らせを語り始めています。

 「神の子、イエス・キリストの福音の初め。」

 そして、神の子到来の先駆けとして、洗礼者ヨハネが現れた事からこの福音を説き始めます。

 人々は洗礼者ヨハネの勧めに従って、罪の赦しを得るための洗礼を受けることによって、救いへと導かれていくのです。マルコは、人々に救いをもたらす神の子は、政治的な独立を勝ち取るために働く王ではなく、人の中に食い入る罪を最終的に赦して命へと導く王であり、祭司であり、預言者であり、僕(しもべ)であることを伝えます。マルコは、そのお方を迎え入れるために、まず自分の罪を認めその汚れを洗い清めるために洗礼を受けるように勧めることから福音を説き起こします。

 福音記者マルコが私たちに訴えるその準備とは、自分が罪人であることを認めて罪を告白し、心を真っ直ぐに救い主に向けて、罪の赦しに与ることが出来るようにすることです。来たるべき救い主イエスが、罪とその結果である死を滅ぼし、私たちを愛し抜き、支え、導いてくださいます。その福音の初めは、まず私たちが心を正して救い主を迎えるために、その道筋を真っ直ぐにすることであると、福音記者マルコは私たちを促します。

 心からの喜びに満たされて主イエスをお迎えできるよう、自分を整え、心を神に向かって真っ直ぐに開き、その恵みを受けることができますように。

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2023年12月08日

「夏休み」を過ごす (愛恩便り2016年8月)

「夏休み」を過ごす

 わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。(テモテへの手紙Ⅱ 2:1)

 夏休みをいかがお過ごしでしょうか。今号では、あくまでも園長個人の思いではありますが、長い夏休み期間を過ごすにあたり、ご家庭で是非心がけていただきたいことをいくつか申し上げたいと思います。

 先ず、是非子どもの自尊感情(自己肯定感)がしっかり育つように、子どもの言動を受け止めて支持する関わりを心掛けてください。人は誰も自分を超えた大きな力によってこの世界に生かされており、こうして生かされていることそのものが尊く素晴らしいことです。私たちも、喜びと感謝を基本に生きていけるよう、お互いを尊重して生きる態度を身に付けていきたいものです。

 子どもの自己肯定感を育むことは、決して子どもの言いなりになって甘やかすことではなく、間違ったことを容認することでもありません。自分は神によってこの世に命を与えられた取り替えることのできない存在であり、その自分をしっかり表現することは大切なことである、という思いを持てるようになることが自己肯定という言葉の内実です。そして、このような思いは、大切な人に受け容れられ肯定されている実感を土台にして育つのです。時には、子どもの誤りを指摘したり叱ったりしなければならないこともありますが、その時も子どもの人格を否定したり傷つけたりするのではなく、その課題を乗り越えることで、子どもの可能性が更に広がることを願って関わるべきでしょう。

 第2に、上記のことと深く関わりますが、子どもがいろいろなことに自分でチャレンジする機会を与えていただきたいと思います。その「いろいろなこと」の中身は、奇抜なことや特殊なことではなく、例えば、日々の衣服の着脱、ヒモ結び、トイレの始末などに、なるべく手を貸さずに見守り、子どもが自分で取り組んだことを認めて励ますように心掛けてください。こうしたことは、子どもが生きていくことの土台になるのです。

 第3に、日々体を動かして遊ぶ時間を持ちましょう。文部科学省では、4年ほど前に「幼児期運動指針」を示して、幼少期の子どもに毎日60分以上体を動かす機会を与えるように促しています。近年、私たちの生活は自分で体を動かす機会がめっきり少なくなり、電子機器での遊びは幼少期の子どもたちの運動不足と他者と心をかよわせる機会を奪い、心身の健全な発達を脅かす大きな原因になっています。各ご家庭におかれましては、子どもたちが夏休みの間も様々な運動遊びをとおして体の各部位を自然にたくさん動かし、心身の発育に良い刺激を与える夏を過ごす工夫をしてください。

 もう一つ、起床から就寝までの生活を整え、子どもたちの排泄リズムを整えてください。ことに排便は一日の食事や睡眠の時間と深い関わりがあります。早寝早起きの生活習慣を保ち、毎日の食事の時間を定め、規則正しい生活を心掛け、その中で朝食後あるいは夕食後の決まった時間に排便する習慣を身に付けられるように願っています。夏は、子どもが自分で衣服の着脱を管理しやすく、一人でトイレで排尿、排便が出来るようにする絶好の季節です。よい習慣が身につくように心がけましょう。

 良い夏休みが過ごせますように。また、夏期預かり保育を有効に活用してください。


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2023年12月07日

言葉をかけること (愛恩便り2016年7月)

言葉をかけること

その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。(エフェソの信徒への手紙 4:29 ) 


 日々、子どもたちにどのような言葉をかけているでしょうか。

 例えば、子どもが小さな失敗をしてしまった場合、「そんな失敗を繰り返すなんて、ダメね!」という人もいれば、「よく頑張っているね。大丈夫、今にできるようになるから!」という人もいるでしょう。言葉を与える事は、大きな大理石の彫刻作品を創る作業にも似ています。同じ原石であってもやがて出来上がる作品は全く違うものになるように、私たち大人の言葉かけは、子どもの人格形成にも大きな影響を与えています。

 私の友だちが、中学校時代に教師の一言に深く傷付いた経験を話してくれたことがあります。美術の授業中、彼は一所懸命にその課題に取り組んでいましたが、机の間を巡視していた教師が彼の所に来ると、彼はいきなり「あなた、何やってるの、もっとマジメにやりなさいよ!」と言われたというのです。自分なりに真剣に取り組んでいたにもかかわらずそのような言葉を受けた彼は、それ以来、美術の授業もその先生のこともすっかり嫌いになってしまいました。

 彼がショックを受けたのも当然です。自分なりに心を込めて描いていた作品を否定されることは、彼自身が否定されることと同じだったのです。

 私たちは、ことに子どもと関わる時、子どもの成長の流れに沿って子どもを受け止め、よい方向付けを与える言葉かけをすることが大切です。

 トイレットトレーニングでの小さな一例です。

 1歳半から2歳の頃、子どもはよくパンツにオシッコをしてしまった後で「オシッコ、出た」と教える時期があります。そのようなとき、「すぐによく教えたね。」と言葉をかけることが大切です。また、「オシッコ出るよ」と言った時は、例えトイレに間に合わなくても、「よく言えたね。自分でオシッコの出る時が分かるようになってきたね」と子どもの小さな成長を肯定的に認め、その方向付けを与える言葉をかけるように心掛けましょう。私たち大人がかける言葉の質と方向性は、子どもが生きる意欲や自信を獲得していく上で大きな影響を与えるのです。

 例えば、いつも「○○しなくちゃダメでしょう!」、「どうしてそんなバカな事するの!」と、心に刻みつけられていけば、子どもの心がどのように方向つけられていくのかは容易に想像できるでしょう。

 言葉かけは、人が他者にどのような思いをもって関わっているかということと深く関係しています。私たちは、責任のある大人として子どもたちに適切な言葉をかけるスキル(技術)を身につけていくことも必要です。日頃から子どもにどのような言葉を使って関わっているのかを振り返り、自分を整えていくことも大切なことになってくるのです。

 私たちの基本的な生き方が、言葉になって表現されます。子どもたちの心の成長を支える言葉かけに心がけ参りましょう。

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2023年12月04日

心を動かす (愛恩便り2016年6月)

心を動かす

   「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒言行録第3章6節)

 標題の「心を動かす」という言葉は、保育の現場でしきりに用いられています。でも、私の心にはこの言葉がなかなか馴染みませんでした。なぜなら、私には「人の心を、物を右から左へ移動するように動かすことなどできない」と思えるからです。そして、「まして他人の心を操作してはいけないし、もし、できたとしてもそうすることは相手に失礼なことであり、不遜なことだ」とも考えるからです。それにもかかわらず、保育の中で、「心を動かす」などという言葉が盛んに用いられるのは、私たち人間の経験の原点に、この「心が動く」ということが欠かせないことだからなのではないでしょうか。

 古代ギリシャには、ソクラテス、プラトンをはじめとして、後世に大きな影響を与えた哲学者たちがたくさんいますが、彼らには「驚きは、知ることの始まり」だったのです。これを違う言葉で言えば、それは自分から意図的に心を操作するということではなく、ある物事に強く心を動かされたり興味を持ったりすることが、その物事を更に探求したり思索を深めていくことの前提である、ということなのではないでしょうか。

 そうであれば、子どもが夢中に遊ぶことや何かに感動して心が沸き立つことは、その後も意欲的に生きていくための大切な要因となると言えるでしょう。

心に感動がなければ、工作も器楽演奏もただの作業になってしまうでしょうし、体を動かす喜びがなければ体操は億劫な労働になってしまうでしょう。また、心の動きを文字や言葉にして表現しようという思いがなければ、文字や豊かな言葉を習得しようとする意欲も高まらないでしょう。

 私は、「心を動かす」という言葉は、そのように子どもたちが何かに興味を持って行動へと促されていろいろとチャレンジしてみたくなる前提としての驚きや感動のことを意味しているのだと思えるようになりました。

 やがて、小学生になると教科の勉強が始まりますが、勉強の前提となる物事への興味や関心、またそれに取り組んでいく中で新しい発見やその感動、つまり「心を動かす」ことがなかったら、せっかくの勉強もあまり実感のない机上の知識を積み上げることにしかならないでしょう。それではあまりにもったいないと思います。

 幼児期は子どもがその後の生きる意欲を培う大切な時でもあり、それは言葉を替えればたくさん「心を動かす」時期でもあります。このように考えてみると、幼少期にたくさん遊び込むことの大切さが分かりますし、心を動かされたこと、つまり感動したことを素直に表現できるようになることの大切さも分かってきます。

 子どもたちが熱中して遊び込み、心に深い感動を経験してくれるようにと願っています。そしてそのことを素直に表現できるように支援することにも心がけていきたいと思います。子どもと共に生きるわたしたち大人が、子どもたちの心の動きを共有する大切な存在であることを再認識して、子どもたちの感動をたくさん引き出し、分かち合えるように努めていきたいと思います。

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