「神のものは神に」 マタイによる福音書22:15~21 (A年特定24) 2023.10.21
(1) 2023年10月22日 聖霊降臨後第21主日説教 小野寺司祭 - YouTube
今日の聖書日課福音書から、マタイによる福音書第22章21節の御言葉をもう一度確認してみましょう。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
今日の聖書日課福音書の箇所は、主イエスがユダヤ教の指導者であるエルサレム神殿の祭司長や律法の専門家と激しい論争をしている中にあります。この論争を通して神殿指導者たちの問題点が明らかにされ、自分たちの罪が浮き彫りにされてきます。彼らは、自分たちにとって都合の悪い主イエスを殺すことへと動き出していきます。
今日の聖書日課福音書の箇所では、ファリサイ派たちが、主イエスを言葉の罠にかけ、主イエスを否定し、神殿から追放しようと企んでいます。
ファリサイ派の指導者たちは、自分たちの手下の者を主イエスの所に遣わし、こう尋ねさせたのでした。
「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。」
指導者たちがこのように尋ねさせた背景には、その当時のイスラエルにおける税金についての事情がありました。
イスラエルの国は、当時、ローマ帝国に占領されており、ローマ皇帝に税を納めるべきかどうかということは、イスラエルの中でも各立場によって意見の異なる重要な問題だったのです。
その当時、占領者のローマに納める税を取り立てる仕事の多くはヘロデ派の者が請け負っていました。ヘロデ王家に属する者たちは、ローマ政府に加担してその保護の元に、ヘロデ家による政治を再び起こすことを下心にして、ローマに税を納めることを良しとしていました。ヘロデ家とへロデ派は、徴税の仕事を請け負うことの引き換えにローマの保護を受け、その守りの中で入札によってできるだけ高額の税を集められる徴税人を雇い、民衆から不当に税金を取り立て、その上前を自分のものとすることが許されていました。
一方、ファリサイ派は律法に厳格に生きることを大切にしており、ローマ皇帝を神格化する占領者に仕えることは、十戒の第一、第二に戒めに違反すると考えました。ファリサイ派はローマによるユダヤ教への介入や干渉を嫌い、納税については快く思わず、彼らはローマの手先になっているヘロデ派を憎み、両者は犬猿の仲であったのです。
その両者が、今、イエスを追放しようと言う一点で互いに力を合わせようとしています。彼らは、手下を遣わして「ローマ皇帝に税を納めるのは律法に適っているでしょうか」と主イエスに問いかけています。
この質問にはファリサイ派たちの下心があります。
もし主イエスが「皇帝に税を納めてはならない」と答えたら、ヘロデ派の者はすぐにそのことをローマの役人に伝えて、イエスはローマ皇帝に背く者だと訴えて捕えさせるでしょう。逆に、主イエスが「皇帝に税を納めなさい」と言えば、ファリサイ派は主イエスのことをイスラエルを裏切り神殿を冒涜する者として批判するでしょう。
この時、主イエスはデナリオン貨幣を持ってこさせ、彼らに「これは誰の肖像と銘か」と問い返しました。このデナリオン貨幣には月桂樹の冠をかぶった皇帝ティベリウス像が刻まれており、その裏側には「神なる皇帝」という銘があり、貨幣の中にもローマ皇帝の政治的、宗教的な権威を示していました。ファリサイ派たちは、その貨幣を用いることは像を拝むことと同じことと考え、このローマの貨幣に日常生活でも触ることを嫌っていたと伝えられています。
このデナリオン銀貨は、当時ローマが支配する地域一帯に広く流通していましたが、イスラエルではファリサイ派や熱心党などの人々にとって、この貨幣を神殿で用いることは許さず、神殿では献げ物をする時には高額の手数料を取ってイスラエルの貨幣に両替させていたのでした。
ファリサイ派は、主イエスに「これは誰の肖像と銘か」と問われ、「皇帝のものです」と答えました。すると、主イエスは「では皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。この言葉を聞くと、主イエスに詰め寄っていたファリサイ派やヘロデ派の者は、驚き、主イエスを残して立ち去っていきました。
私たちは、この場面を、主イエスが彼らの質問に上手く身をかわした話であるかのように読んではいないでしょうか。でも、この主イエスの言葉はただそれだけの意味に留まる言葉ではないのです。
この場面で主イエスが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言っておられることは、それでは「他ならぬあなたは誰のもので、誰に返されるべき者なのか」と問うておられることでもあるのです。この厳しい問いがあるからこそ、ファリサイ派もヘロデ派も、真理を脇に置いて主イエスを言葉の罠に掛けようとしてる自分を顕わにされ、主イエスの前から引き下がっていくのです。「神のものを神に返す」という事は、神の御心に自分を照らされ、謙遜に自分を振り返り、自分中心に生きる自分を砕かれて、自分を通して神の御心が現れ出るように、そのために自分を用いていただこうとすることによって、初めて可能になるのです。
それでは私たちはどうでしょう。私たちは誰に返されるべきでしょう。
私たちの祈祷書の、「洗礼式」を思い起こしましょう。私たちは、水と霊による生まれ変わりの洗礼を受け、その後に額に十字のしるしを刻まれます。つまり、私たちはキリストのお姿を身に受けているのです。日本聖公会の礼拝では、洗礼式の時に父と子と聖霊の御名による「水の洗い」の後に、次の言葉によって額に十字のしるしを受ける儀式が続きます。
「あなたに十字架の形を記します。これはキリストのしるし、あなたが神の民に加えられ、永遠にキリストのものとなり、主の忠実な僕として、罪とこの世の悪の力に向かって戦うことを表します」。
私たちは、神のものであり神に捧げられる者です。
ローマの貨幣に限らず、各国のコインにはその国を象徴的に示す人物の像と銘が刻まれており、例え道ばたに落ちだコインでもその像と銘にによってどこの国のコインであるか分かります。同じように私たちは一人ひとりが父と子と聖霊の御名が刻まれ、十字の像を見に帯でいます。
そのような存在である私たちは、主イエスの御言葉によって、自分の生き様を照らされて、神の愛の中で神の御心に立ち返るよう導かれています。そのようにして私たちは私たち自身が「聖霊を宿す神の宮」となるように育まれていくのです。
私たちは、今日の聖書日課福音書から、一人ひとりは、誰もが自分の人生は他ならぬ自分のものであると同時に、神に選ばれ神に献げられて、神に用いられる器であることを教えられています。
十字架の徴を刻まれた私たちは、神に属する者であり、その自分を神の御心を現す器として用いていただけますように。