2023年10月09日

平和のために (愛恩便り 2015年6月)

平和のために

  平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイによる福音書第5章9節)  


 国語辞典(『広辞苑』)を引いてみると、「平和」とは「①やすらかにやわらぐこと。おだやかで変わりのないこと。②戦争がなくて世が安穏であること。」と記されています。

 誰もが、「平和」とはとても大切な言葉であると思うでしょう。わたしもそう思います。

 ただし、聖書で使われる「平和」とは、単に「おだやかで変わりがない」状態を意味するのではなく、「神さまのお考え(み心)のとおりであること」を意味していることを、つまり神さまの意思の実現であることを、踏まえておく必要があるでしょう。そして、「平和」は与えられた状態のことではなく、わたしたちが努力してつくり出していくことで実現するという一面があることもしっかりと心に刻んでおく必要があるでしょう。

 子どもの健やかな成長にも平和が必要ですし、平和なしに子どもの健やかな育ちはあり得ないとも言えるのです。

 家庭や幼稚園などの子どもを取り巻く環境を子どもの育みのために相応しく整えることも、平和を実現するための身近な大切な働きです。わたしたちは、誰もが神さまから命を与えられ受け継いでいます。命の継承は、平和の中で、安定して安心して行われなければなりません。そのために、わたしたちが、神さまのお考え(御心:みこころ)に相応しく子どもが育つように祈り願いながら働きます。

 家庭が明るく円満であるように努めたり、家族が適切な栄養をとりながら楽しく食事ができるように料理をしたり、清潔で整った環境の中で暮らせるように掃除や洗濯をしたりすることも、何気ない平凡なことのように見えるけれど、実は平和を実現していくための大切な働きであると言えるのではないでしょうか。

 わたしたち人間は、この世に命を受けた時から、いや、胎内に宿ったときから、優しく柔らかな笑顔と声によるたくさんの働きかけを受けながら、つまり平和を体で感じ取りながら、少しずつそだつのです。そのように育って、平和の感性を養って、平和を実現するための働き人に育っていくのでしょう。

 こうした個人の成長における平和も、日頃暮らしている街の平和も、戦争のない世界をつくり出す平和も、その根底には、この世界とわたしたち一人ひとりを愛して生かそうとする神の熱い思いがあるのです。

 そうした神の熱い思いを覚えて、わたしたちはそれぞれに日々の具体的な働きをとおして神の平和を実現するために生きています。子どもたちの伸びやかな成長は、平和が実現する最も具体な例です。逆に言うと、子どもが伸びやかで健やかであるかどうかは、その世界が平和であるかどうかの指標でもあります。

 幼い者、弱い者、小さい者が大切にされ、喜びの中に生きられる平和な世界をつくるために生きることを喜びにすることができますように。

posted by 聖ルカ住人 at 10:06| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「角の親石」  マタイによる福音書21:33~43 

「角の親石」    マタイによる福音書213343   (A年特定22)   2023.10.08


 今日の聖書日課福音書から導きを受けるために、はじめに少しぶどう園について思い起こしてみましょう。

 イスラエルの人々は、旧約聖書の時代から自分たちをしばしば神に造られた「ぶどう園」や「ぶどう園の働き人」に例えてきました。そのことは今日の聖書日課福音書だけでなく旧約聖書日課イザヤ書第5章などにもにも見られるとおりです。

 収穫したぶどうは、その多くがぶどう酒を造るために用いられ、また干しぶどうにされました。特にぶどう酒の場合は、収穫したぶどうの実を搾ってそのまま置いておけばそのぶどう液はひとりでに発酵してきます。昔の人々はこのようにしてぶどう酒が出来ることをぶどう液の成分の化学反応による発酵の観点から理解したのではなく、搾ったぶどう液に霊が宿ることとして理解していました。英語で酒を(おもに蒸留酒を意味するようですが)スピリットということにもその様な一面が現れているのかもしれません。

 ぶどうは、果物の中でも特に発酵しやすい性質があります。しかも、その絞り汁は神の霊を宿す性質のあると考えられた当時のことを思い巡らせてみると、旧約時代の預言者たちがイスラエルを「ぶどう園」に、またイスラエルの民を「ぶどう園の働き人」に例えて教えを説いたことにも見られるように、ぶどう園やそこで働くことが、神の国や神の民について考える上での格好の教材になったことが想像されます。

 預言者イザヤは、今日の旧約聖書日課イザヤ書第5章の始めの部分で、次のように神の言葉を取り次いでいます。

 「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために。そのぶどう畑の愛の歌を。

 わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。」

 このようなぶどう園の様子を思いつつ、今日の聖書日課福音書に記された主イエスの例え話を簡単に振り返ってみましょう。

 主人は、ぶどう園を整えてそれを農夫たちに任せて旅に出ていきました。

 そのぶどう園は、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを建てています。よく整備されたぶどう園だったはずです。

 ぶどう園を任された農夫たちはそのぶどう園の持ち主ではなく、あくまでも主人のぶどう園に雇われた農夫だったはずです。収穫の時期が近づいた頃、主人はその収穫を受け取るために自分の僕を農夫たちの所に遣わしました。ところがぶどう園の農夫たちは、主人の僕を捕まえて袋叩きにし、また他の僕は石打にして殺してしまいます。そこで主人は、前よりも多くの僕をぶどう園に遣わしますが、ぶどう園の農夫たちはその僕たちのこともまた同じ目に遭わせてしまいます。とうとう、主人は自分の息子なら敬ってくれるだろうと、自分の一人息子をぶどう園に遣わしました。ところが、農夫たちはその息子を見て、「この一人息子を殺してしまえばぶどう園は我々が相続することになる。さあ、こいつを殺してしまおう」と話し合い、その一人息子を捕らえてぶどう園の外に放り出して殺してしまうのです。

 主イエスはこの話をイスラエルの祭司長や長老たちを相手にて、彼らを厳しく批判する話として語られました。その日は、主イエスがエルサレムに来ていわゆる宮きよめをなさった日曜日の直後の火曜日で、その4日の後の金曜日には十字架につけられることになります。

 主イエスが神殿の境内で教えを述べ始めると、ユダヤ教の指導者たちは「何の権威でこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか」と詰め寄ってきます。主イエスはイスラエルの指導者たちを厳しく批判してこの例え話をなさるのです。

 その当時、イスラエルの人々は宗教的にも政治的にもエルサレム神殿を中心にして民族の一致と団結を計ろうとしており、その権力を握っていたのが神殿の祭司長であり、また民の長老や律法の専門家たちでした。しかし、彼らは神殿の権威の上にあぐらをかき、自分たちの利益を求めたり、律法を自分たちの都合の良いように解釈してその地位を守ることに腐心し、弱い立場の人や貧しい人々のことなど顧みようとはしませんでした。

 旧約聖書時代の預言者たちは、そうした権力者に対して神の言葉を取り次ぎました。ある預言者は神殿の指導者たちを糾弾する言葉を放ち、他の預言者はイスラエルの指導者や民衆に向かって神の御心に立ち戻るように勧める言葉を、また他の預言者は彼らに悔い改めを促す言葉を語りました。しかし、神殿で権力をふるう指導者たちや律法の教師たちは、預言者の言葉を聞かずに拒否し、預言者たちを弾圧し迫害を加え、沢山の預言者たちが殺されていったのでした。 そして、ぶどう園の主人の一人息子である主イエスをも拒み、ぶどう園をを我が物であるかのようにして、主イエスをエルサレム神殿の外の十字架の上に殺して捨て去り、彼らはユダヤ教の権威が自分たちの手中にあるかのように振る舞い続けたのでした。

 このように、神のひとり子である主イエスは十字架の上に殺されますが、神の国の実現を目指す働きはそこで終わるわけではありません。

 この論争の火曜日から4日目に、主イエスの働きは雇われ農夫らによって拒否され、十字架の上に捨てられることになりますが、その働きの中に神の救いを見た人々によって受け継がれるのです。十字架に示された主なる神の愛は、ぶどう園のイスラエルの指導者たちが捨てた主イエスを角の親石として信仰者の群れをつくりだし、教会として成長していきます。

 主イエスはそのことを詩編第11822節の言葉を用いて話しておられるのです。

 「家を建てる者の捨てた石、これが角の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える(21:42)」。

 ユダヤ教の指導者たちは、神の御心を自分たちの権力の中に抱え込み、預言者たちの言葉を聞かず、主イエスによって示された神の愛を拒否し、イスラエルの民は神の御心との間に大きな断絶をつくってしまいました。それでも、主なる神は主イエスの十字架の出来事を通して、主なる神の御心をイスラエル民族の枠を越えて世界中に拡げてくださいました。この歴史を教会では「救済史」と言います。

 そして、この「救済史」は、世界を把握する上での大切な視点であると同時に私たち一人ひとりの歴史にも深く関係しているのです。

 今日の福音書の最後の部分で主イエスはこう言っておられます。

 「だから、言っておくが、神の国の福音はあなたたちから取り上げられ、そ れにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」

 ここで主イエスが言っておられる「民族」とは、主なる神の御心を行いその実を結ぶ人々の集まりである「神の民」のことです。私たちの教会も、主の御心に相応しい実を結ぶよう求められ、促されています。こうして教会に招かれている私たち一人ひとりも、またこの礼拝堂も、主が用意してくださったぶどう園であることを確認しましょう。そして、私たち一人ひとりも主なる神によって支えられ生かされることへと導かれた歴史があるのです。主イエスは私たち一人ひとりを支える角の親石となって、私たちの人生を支えていてくださいます。

 私たちは、神が用意して下さったぶどう園の働き人として、御心に相応しい実を結び、その実を主のご用のために納めることを私たちの喜びにしたいと思います。

 主イエスがイスラエルの人々に示した働きは、人の欲と罪のためにぶどう園の外に捨てられてしまったかのように見えても、ひとり子主イエスの働きは平和と愛に満ちた世界を作りだすための「角の親石」となりました。そして、私たちのぶどう園での働きを支えていて下さいます。神ご自身が人の罪のために傷み苦しみながらも、なおその先に御心を行う人を起こし、その人たちのための「角の親石」となって下さっています。主なる神は、あらゆる困難や挫折の先に、それに勝る喜びと平和を与えてくださるために、その礎となって今も働き、私たちをその働き人として用いて下さいます。私たちは、神の愛を受け、御心の実を結び、その実を主の御前に喜んでお献げできるよう、主イエスを私たちの内なる「角の親石」としてしっかりと据えることができますように。

posted by 聖ルカ住人 at 09:58| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする