2023年10月01日

「考え直して」 マタイによる福音書21:28~32

「考え直して」  マタイによる福音書212832   (A年特定21) 2023.10.01


(1) 2023年10月1日(A年) 聖霊降臨後第18主日 説教小野寺司祭 - YouTube (この日の説教の動画)


 主イエスは、十字架にお架かりになった金曜日の直前の火曜日に、エルサレム神殿の境内でユダヤ教の指導者たちと激しい論争をなさいました。

 今日の聖書日課福音書の直前の段落の始めには、次のように記されています。第2118節です。 

 「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちが近寄ってきて言った。何の権威によってこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか。」

 ユダヤ教の指導者たちは、エルサレム神殿の境内で教えを述べ始めた主イエスに、「お前は誰の許可を得て、何の名によって、何の権威によって教えているのか」と詰め寄ってきました。主イエスがその祭司長や民の長老たちを厳しく批判する脈絡の中に今日の聖書日課福音書の「二人の息子」の例えが置かれています。

 ある人が二人の息子に、それぞれに「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と声をかけました。その一人は「いやです」と答えましたが後で考え直して出かけました。もう一人は「はい、お父さん」と答えましたが出かけませんでした。

 主イエスは、この短い例え話によって、神の招きに応える罪人たちと神殿や律法に仕えながらも神の御心を行うと言うにはほど遠いユダヤ教の指導者たちを対比して、ユダヤ教の指導者たちを厳しく批判しておられるのです。

 今日は、この聖書日課福音書の例え話の中から一つの言葉(単語)を採り上げて、主イエスからの養いと導きを受けたいと思います。

 その一つの言葉とは、「考え直して」と訳されている言葉です。

 第2129節をもう一度拾い上げてみましょう。

 「兄は、『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。」

 この「考え直す」という言葉の原語はメタメロマイという言葉で、「心を入れ替える、取り替える」という意味から出た言葉です。

 父親からぶどう園で働くように言われても、「自分にはその意志がない、自分はそれに相応しくない、自分にはその資格がない」と思い考えて、その息子は父の求めに応じませんでしたが、後で「考え直して」ぶどう園に出かけて行きます。

 もう一人の息子は「はい、お父さん」と答えましたが、出かけませんでした。この息子について、主イエスは32節でこう言って批判しておられます。

 「ヨハネが来て(洗礼者ヨハネが出現して)、義の道(神と正しい関係を結ぶ悔い改めの道)を示したのに、あなたがた(イスラエルの指導者たち)は彼(洗礼者ヨハネ)を信じず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたがたはそれを見ても、後で考え直して(先駆けの洗礼者ヨハネ)を信じようとしなかった。」

 当時、徴税人や娼婦などは「罪人」と呼ばれていましたが、それらの人々は主イエスと出会い、その愛に触れて、自分を見つめ直す勇気を与えられました。そして、神の御心に従って、これまでの自分を振り返り、自分がどのように生きることが神と自分に相応しいのかを「考え直す」ことが出来るようになりました。

 罪人と決めつけられていた彼らは、救い主の先駆けとして現れた洗礼者ヨハネの招きや救い主イエスの教えや行いに触れ、悪霊を追い出していただき、病を浄めていただき、「考え直して」本当の自分に立ち帰ることができました。彼らは、そのようにして自分に迫る神の言葉を、一度は尻込みしたり拒否しても、「考え直して」主なる神の招きに応え、ぶどう園の働きに、つまり神のお考えの実りをもたらす働きに、促されていくのです。それは、天の喜びになります。

 この「考え直して(メタメロマイ)」という言葉は、福音書ではこのマタイによる福音書の中だけにあり、ここで採り上げた2箇所の他にあと一箇所だけで用いられています。そのもう一つの箇所は第273節の中にあります。

 そこには「その頃、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして」とありますが、この中の「後悔し」と訳されている言葉が「考え直す(メタメロマイ)」です。

 イスカリオテのユダは、イエスを裏切ってイエスをイスラエルの権力者たちに売り渡しましたが、ユダはイエスに死刑の判決が下ったことを知って後悔し、考え直しています。でも、ユダは考え直してはいるのですが、その時に何に基づいて考え直すべきなのかその基本的な信仰が曖昧なままであり、自分が立ち帰るべき原点を見失ったまま、銀貨30枚を神殿に投げ込んで首をくくることへと追い込まれていってしまいました。

 イスカリオテのユダは、洗礼者ヨハネが義の道を示したことを知っており、徴税人や娼婦たちが悔い改めてイエスの御許に立ち帰る姿を実際に自分の目で見ていたはずです。でも、ユダは主イエスに自分を委ねることができず、自分の犯してしまった過ちを考え直す機会を得ながらも、主イエスが身をもって示す神の愛に立ち帰ることができず、その結果、永遠に神の御心から離れてしまったと言えるでしょう。

 私たちも自分の思いや行いの過ちに気付いて「考え直す」ことがあります。初めから完璧な信仰を持っている人などいません。主の御心に自分を照らし、自分の心の貧しさや弱さに気付き、そこに働いてくださる神の愛を恵みとして受け止めるところに感謝が生まれます。そして、ぶどう園に招かれて働く喜びが生まれます。そのように神の愛の中で「考え直す」ことが信仰の成長へとつながっていくのです。

 主イエスは、当時の権力者たちが律法の枠組みから落ちこぼれた人々を罪人と呼んで蔑み自らは少しも「考え直す」ことのない姿を見て、厳しく彼らを問いただしています。

 私たちは、神殿の指導者たちのようにユダヤの律法やエルサレムの神殿制度を鎧にして頑なに「考え直す」ことを拒む者ではありません。また、イスカリオテのユダのように「考え直す」ことの拠り所(原点)を失ってさ迷う者でもありません。

 私たちは「考え直す」ときに、立ち帰って自分の全てを明け渡して委ねる対象を知って、そのお方を信じて受け入れています。その相手こそ主イエスです。

 私たちは、それぞれの心に主イエスご自身とそのみ言葉を深く迎え入れて自分を照らし出され、その自分が主イエスを通して神に受け入れられていることを信じ、主なる神さまと豊かに心を通わせる信仰生活へと導かれて参りましょう。

 私たちが神を選んだのではなく、神が私たちを愛し選び出してくださいました。私たちはこの神の選びと導きの中で「考え直し」、恐れなく主なる神の御許に進み出るように招かれています。

 今日は、これから洗礼式を行います。自分を委ねて信じる対象が主イエス・キリストであることを受け入れ、信じて、召し出された者の群れに新しい仲間が加わる喜びを分け合い、共に信仰の道を歩んで参りましょう。

 
posted by 聖ルカ住人 at 15:47| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする