2023年10月29日

古い契約を超越する愛 マタイによる福音書22:34~46 A年特定25 2023.10.29

古い契約を超越する愛  マタイによる福音書223446 2023.10.29

(1) 2023年10月29日聖霊降臨後第22主日 - YouTube


 私たちは、主なる神がお造りくださったこの世界の長い歴史の中で、ほんの僅かな時を生きています。この世界は私たちが生まれる遙か昔から存在し、またやがて私たちがこの世界にいなくなっても、その遙か先にまでこの世界は存在していくでしょう。そのことを思う時、自分の存在を遙かに超えて働く神に自分を覚えていただき、祝福された者でありたいという信仰が生まれます。

 ことにイスラエルの民の場合、その思いはとても強く、民族として命が繋がれていくことを大切な事と考えていました。

 イスラエルの民にはエジプトで奴隷になっていた時代があります。「自分たちがなぜ異国人に支配されて苦しまなければならないのか。先祖たちがエジプトから抜け出す事ができたのはなぜなのか」を考えると、人の力では動かせない大きな力が何かの目的をもって初めから終わりまで働いていると考えざるを得ませんでした。

 モーセの時代に、奴隷状態にあったエジプトから奇跡的に脱出したイスラエルの民は、その出来事に働いた不思議な力を「主なる神」の働きであると信じます。彼らは、幾度も神を疑い、神に背きますが、度重なる奇跡の経験を通して、自分たちは「神に選ばれた特別な民族」であると自覚するようになっていきます。

 そして、イスラエルの民は自分たちを守り導く神といつも正しい関係を保つことの必要性、重要性を思い、神から十戒を賜り、その十戒を中心とした律法の体系の中に生きるようになります。神との契約である律法をしっかり守り、神との関係を正しく保って生きることが、永遠から永遠にまでお働きになる神とつながることで、自分も永遠の命に与ることができると考えるようになっていったのでしょう。

 それがイスラエルの民にとって「神に選ばれた民」として生きるということでした。

 しかし、時代と共に、この「選民意識(自分たちは神に選ばれた者であるという自己認識)」は、神に選ばれた者の特権を享受する事に移り変わり、その枠の外にある人々を差別することにつながっていきます。

 今日の聖書日課福音書で、ファリサイ派の律法の専門家は主イエスに次のように尋ねています。

 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」

 ユダヤ教の先生(ラビ)によれば、律法の掟は613であり、その613のうちの365が「してはならない」という禁止命令、248が「しなければならない」という実行命令でした。禁止命令の項目数「365」が一年間を示す数字ですが、実行命令の項目数「248」は人体の骨の総数であると考えられていました。まさに人の骨格が人の体を支えているように、律の掟がイスラエル民族の骨格を支え、1年の全ての日365日をしっかりと生きることを目論んで、掟の条項がこの数になって律法が構成されていたと想像されます。

 ファリサイ派の人が主イエスに「律法の中でどの掟が最も重要でしょうか」と質問をしていますが、その質問には35節に記されているとおり「イエスを試そう」という意図が隠されいました。

 因みに、この「試す」という言葉は、主イエスが宣教の始めに荒れ野で40日40夜断食して過ごしたときに悪魔がやってきてイエスを試そうとした場面で「試す、誘惑する」と用いられている言葉と同じ言葉であり、この場面でもファリサイ派は、イエスが答える言葉からイエスの落ち度や矛盾を探し出そうとする下心をもって主イエスに質問したのでしょう。

 この質問に対して、主イエスは、二つのことをお答えになりました。

 その一つ目は37節の「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」という事、二つ目は39節の「隣人を自分のように愛しなさい。」という事であり、更に「律法全体と預言者(旧約聖書の全体)は、この二つの掟に基づいている。」と言っておられます。

 この「基づいている」という言葉は、聖書協会共同訳では「この二つの戒めに、律法全体と預言者とがかかっている」と訳されています。この言葉は元々は「吊す、ぶら下がる」という意味であり、613の掟は皆「神を愛すること」と「自分を愛するように隣人を愛すること」にぶら下がっているようなイメージで捕らえてみると興味深いかと思います。

 主イエスは、神を愛する事と人を愛する事の二つが「律法全体と預言者」であると言っておられますが、この二つのことが旧約聖書全体の要である、と言っておられるのです。

 旧約の全体は、神の愛に基づいており、人が神の愛から離れてしまえば、仮に表面的には掟を完全に行っているようであっても、613の各律法の言葉は意味を失います。仮に表面では律法の文言を守っているように見えても、その行いが愛に裏打ちされていないのなら、神とあなたがたとの関係は十分ではないと、主イエスは質問してきたファリサイ派の人々を批判しておられるのです。

 主イエスと論争する律法の専門家たちは、律法を守っている自分を見せることに拘り、生き方も形式化し、上辺を装って保身を謀り、権力を保とうとしていたのです。

 主イエスは、そのようなユダヤ教の担い手たちに対して、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の二つの掟が神の教えであると教え、その内実を失っているユダヤ教の権力者たちを鋭く批判したのでした。

 神の愛は、民族によらず誰にでも同じように代価無く注がれています。神の愛を受け、愛をお与え下さる神を愛し、自分と同じように神に愛されている隣人を愛し、神への愛と隣人への愛を一つのこととして実行することが神の御心にお答えすることなのです。そして掟の各項目の実践は、二つの重要な掟の具体的な表現となるのです。すべてのことは律法の細かな文言に発するのではなく、全てのことが神と人々への愛に裏打ちされるべきであることを主イエスは教えておられます。

 主イエスは、こうしてすべての人が、永遠から永遠へと働く神と一つとされることを願い、人々に関わり続けてくださいました。

 このような理解に基づいて今日の聖書日課福音書の後半(41節以下)を読めば、その意味することも自ずと明らかになってきます。

 当時、イスラエルの人々は、救い主(キリスト)はダビデの末裔として現れると考えていました。でも、主イエスはご自身が単に血筋の上でダビデ家の子孫であるということに留まるお方ではありません。言葉を換えれば、福音書記者マタイは、主イエスは旧約聖書の内容(律法と預言)を身をもって完成するお方であり、血筋の上でのダビデの子孫であることを超える救い主(つまり民族の枠を超える救い主)であり、神の子であることを伝えているのです。

 福音記者マタイは、この出来事の終わりに「これには誰一人、言葉を返すことができず、その日からは、もはや敢えて質問する者はなかった」と記します。ユダヤ教の指導者、権力者たちは、イエスを殺すことへと具体的な相談を始めるのです。

 主イエスはこの火曜日の直後の木曜日の深夜に捕らえられ、十字架につけられることになります。人間の罪の極みがこの十字架に現れ出てきますが、この罪の極みに対して、主イエスは自分を殺害する人たちのことをも赦し抜き、主なる神との関係を少しも崩すことなく、救いの道を示し続けてくださいます。

 主イエスは、ご自分の十字架を通して、神を愛することと人を愛することを、身をもって示して下さいました。この出来事を目の当たりにした人は、このイエスこそ、神がその永遠の歴史の中でただ一度具体的に神の愛をこの世に示してくださったお方であったことを理解し、主イエスを救い主として受け容れ信じるようになりました。

 その信仰者の群れによって、神のみ業は語り継がれ、たとえ小さな私たちでもイエスを救い主として受け入れる者は、神の永遠の愛の働きに生かされる希望と喜びを得ているのです。

 私たちは、主イエスによって示された神と人への愛に生かされています。

 ことに今日は、ことにこの教会に関わりながら主にあって逝去された人々を覚えて、礼拝をしております。信仰に生きたこの教会の諸先輩方を思い起こして感謝すると共に、私たち一人ひとりも、神の愛に生かされ、神の愛にお応えして神と隣人を愛する信仰の共同体を造り上げていくことへと歩んで参りましょう。

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2023年10月24日

神さまのくださる特別賞 (愛恩便り2015年10月)

神さまのくださる特別賞

 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。(マルコによる福音書第12章44節)

 上記の聖書の言葉は、神殿で人々が献金している様子を見ておられたイエスさまが、弟子たちに教えて言われた言葉です。

 多くの人が他人に見せつけるように献金箱にお金を投げ入れる中、貧しい女の人が小さなコイン2枚を献金しました。それは彼女の持っていた全部でした。イエスは「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は乏しい中なら自分の持っているすべてを入れたのだから。」と言って弟子たちを教えました。

 さて、秋の長雨が去って、やっと秋の空が見られるようになりました。高い秋の空は、子どもたちが体を動かして元気に遊ぶ姿が似合います。

 多くの子どもたちは運動会が大好きです。でも、中には、競走してもなかなか一番にはなれないし、競技も負けばかりで、運動会はあんまり好きではないという子もいます。競走して勝てないことは悪いことでも恥ずかしいことでもないのですが、わたしたち大人でもついつい我が子を他人と較べて、一つの競技の中での勝敗に気持ちが向いてしまい、その結果に一喜一憂してしまうこともあるのではないでしょうか。

 運動会が近づく頃、わたしは毎年のように「神さまがくださる一等賞」についてお話しします。

 みんな誰でも生まれた日が違い、顔も声もそれぞれに違っていて、一人ひとりは取り替えられないのだから、体の大きな子と小さい子がいて、足の速い子がいれば遅い子がいて当然なのです。そしてその人たちが競走すれば、誰かが先にゴールに着くし誰かが後からゴールに着くのも当たり前なのです。

 神さまはその到着順で人を評価なさるのでしょうか。いいえ、そうではありません。みんな誰でも神さまにかけがえのない人としてこの世界に命を受けているのですから、神さまは一人ひとりが自分の最高のプレイが出来たら、その人みんなに特別な一等賞をくださるのです。その時に精一杯取り組むことに対して、神さまは、「祝福」という特別賞をくださいます。

 敢えて競い合う場面を設定するのは、わたしたちは他の人と競い合うことによって、自分を更に成長させることができることを知っているからです。子どもたちも、神さまから与えられた様々な力をのびのびと活き活きと表現し合って、その中で互いに成長していくことが望まれます。

 わたしたちは、他人と比較して優越感や劣等感を持ちながら生きるのではなく、子どもも大人も神さまから与えられた命を自分でしっかりと育てていく権利と責任があります。そして、親として、保育者として、教師として、子どもたちが自分の能力を自分でしっかりと伸ばしていけるように支えて関わっていくことが大切なことなのではないでしょうか。

 神さまは「あなたに与えた人生をあなたらしく存分に生きていますか?」と尋ねておられます。結果として失敗することがあっても良いし、負けることがあっても良いでしょう。

 神さまはそれぞれの人の能力を「可能性」としてプレゼントしてくださっており、その能力の「可能性」を開くには、その能力を良いことのために存分に用いることが必要なのです。スポーツ選手や音楽家が繰り返して練習するのもそのためです。

 目先の結果にこだわるのではなく、子どもたちが、神さまからいただいた体も心ものびのびと精一杯つかって、いろんな面で自分にチャレンジして可能性を開き、神さまから特別な祝福をいただくことを目指す秋にしましょう。

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2023年10月23日

「神のものは神に」  マタイによる福音書22:15~21 (A年特定24)

「神のものは神に」     マタイによる福音書221521 (A年特定24)      2023.10.21

 (1) 2023年10月22日 聖霊降臨後第21主日説教 小野寺司祭 - YouTube


 今日の聖書日課福音書から、マタイによる福音書第2221節の御言葉をもう一度確認してみましょう。

 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 

 今日の聖書日課福音書の箇所は、主イエスがユダヤ教の指導者であるエルサレム神殿の祭司長や律法の専門家と激しい論争をしている中にあります。この論争を通して神殿指導者たちの問題点が明らかにされ、自分たちの罪が浮き彫りにされてきます。彼らは、自分たちにとって都合の悪い主イエスを殺すことへと動き出していきます。

 今日の聖書日課福音書の箇所では、ファリサイ派たちが、主イエスを言葉の罠にかけ、主イエスを否定し、神殿から追放しようと企んでいます。

 ファリサイ派の指導者たちは、自分たちの手下の者を主イエスの所に遣わし、こう尋ねさせたのでした。

 「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。」

 指導者たちがこのように尋ねさせた背景には、その当時のイスラエルにおける税金についての事情がありました。

 イスラエルの国は、当時、ローマ帝国に占領されており、ローマ皇帝に税を納めるべきかどうかということは、イスラエルの中でも各立場によって意見の異なる重要な問題だったのです。

 その当時、占領者のローマに納める税を取り立てる仕事の多くはヘロデ派の者が請け負っていました。ヘロデ王家に属する者たちは、ローマ政府に加担してその保護の元に、ヘロデ家による政治を再び起こすことを下心にして、ローマに税を納めることを良しとしていました。ヘロデ家とへロデ派は、徴税の仕事を請け負うことの引き換えにローマの保護を受け、その守りの中で入札によってできるだけ高額の税を集められる徴税人を雇い、民衆から不当に税金を取り立て、その上前を自分のものとすることが許されていました。

 一方、ファリサイ派は律法に厳格に生きることを大切にしており、ローマ皇帝を神格化する占領者に仕えることは、十戒の第一、第二に戒めに違反すると考えました。ファリサイ派はローマによるユダヤ教への介入や干渉を嫌い、納税については快く思わず、彼らはローマの手先になっているヘロデ派を憎み、両者は犬猿の仲であったのです。

 その両者が、今、イエスを追放しようと言う一点で互いに力を合わせようとしています。彼らは、手下を遣わして「ローマ皇帝に税を納めるのは律法に適っているでしょうか」と主イエスに問いかけています。

 この質問にはファリサイ派たちの下心があります。

 もし主イエスが「皇帝に税を納めてはならない」と答えたら、ヘロデ派の者はすぐにそのことをローマの役人に伝えて、イエスはローマ皇帝に背く者だと訴えて捕えさせるでしょう。逆に、主イエスが「皇帝に税を納めなさい」と言えば、ファリサイ派は主イエスのことをイスラエルを裏切り神殿を冒涜する者として批判するでしょう。

 この時、主イエスはデナリオン貨幣を持ってこさせ、彼らに「これは誰の肖像と銘か」と問い返しました。このデナリオン貨幣には月桂樹の冠をかぶった皇帝ティベリウス像が刻まれており、その裏側には「神なる皇帝」という銘があり、貨幣の中にもローマ皇帝の政治的、宗教的な権威を示していました。ファリサイ派たちは、その貨幣を用いることは像を拝むことと同じことと考え、このローマの貨幣に日常生活でも触ることを嫌っていたと伝えられています。

 このデナリオン銀貨は、当時ローマが支配する地域一帯に広く流通していましたが、イスラエルではファリサイ派や熱心党などの人々にとって、この貨幣を神殿で用いることは許さず、神殿では献げ物をする時には高額の手数料を取ってイスラエルの貨幣に両替させていたのでした。

 ファリサイ派は、主イエスに「これは誰の肖像と銘か」と問われ、「皇帝のものです」と答えました。すると、主イエスは「では皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。この言葉を聞くと、主イエスに詰め寄っていたファリサイ派やヘロデ派の者は、驚き、主イエスを残して立ち去っていきました。

 私たちは、この場面を、主イエスが彼らの質問に上手く身をかわした話であるかのように読んではいないでしょうか。でも、この主イエスの言葉はただそれだけの意味に留まる言葉ではないのです。

 この場面で主イエスが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言っておられることは、それでは「他ならぬあなたは誰のもので、誰に返されるべき者なのか」と問うておられることでもあるのです。この厳しい問いがあるからこそ、ファリサイ派もヘロデ派も、真理を脇に置いて主イエスを言葉の罠に掛けようとしてる自分を顕わにされ、主イエスの前から引き下がっていくのです。「神のものを神に返す」という事は、神の御心に自分を照らされ、謙遜に自分を振り返り、自分中心に生きる自分を砕かれて、自分を通して神の御心が現れ出るように、そのために自分を用いていただこうとすることによって、初めて可能になるのです。

 それでは私たちはどうでしょう。私たちは誰に返されるべきでしょう。

 私たちの祈祷書の、「洗礼式」を思い起こしましょう。私たちは、水と霊による生まれ変わりの洗礼を受け、その後に額に十字のしるしを刻まれます。つまり、私たちはキリストのお姿を身に受けているのです。日本聖公会の礼拝では、洗礼式の時に父と子と聖霊の御名による「水の洗い」の後に、次の言葉によって額に十字のしるしを受ける儀式が続きます。

 「あなたに十字架の形を記します。これはキリストのしるし、あなたが神の民に加えられ、永遠にキリストのものとなり、主の忠実な僕として、罪とこの世の悪の力に向かって戦うことを表します」。

 私たちは、神のものであり神に捧げられる者です。

 ローマの貨幣に限らず、各国のコインにはその国を象徴的に示す人物の像と銘が刻まれており、例え道ばたに落ちだコインでもその像と銘にによってどこの国のコインであるか分かります。同じように私たちは一人ひとりが父と子と聖霊の御名が刻まれ、十字の像を見に帯でいます。

 そのような存在である私たちは、主イエスの御言葉によって、自分の生き様を照らされて、神の愛の中で神の御心に立ち返るよう導かれています。そのようにして私たちは私たち自身が「聖霊を宿す神の宮」となるように育まれていくのです。

 私たちは、今日の聖書日課福音書から、一人ひとりは、誰もが自分の人生は他ならぬ自分のものであると同時に、神に選ばれ神に献げられて、神に用いられる器であることを教えられています。

 十字架の徴を刻まれた私たちは、神に属する者であり、その自分を神の御心を現す器として用いていただけますように。

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2023年10月13日

たくさん体を動かそう (愛恩便り2015年9月)

たくさん体を動かそう

聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。 ( エフェソの信徒への手紙 第1章18節 )   


 3年ほど前、文部科学省は「幼児期運動指針」を通知しました。

 それによると、現代の社会は、生活全体が便利になって体を動かす機会が少なくなり、子どもが身体を動かすことを軽視し、その結果、子どもの体力低下につながっている、と言います。このような幼少期の現状は、その後の児童期、青年期に運動やスポーツに親しむ力や意欲を減退させています。それだけではなく、運動不足は、本来なら幼少期に遊びをとおして培われる対人関係を築く力も育たないことなどの問題も引き起こす可能性があります。このように、現代社会の運動不足は子どもの体だけではなく心の発達にも重大な影響を及ぼすことになりかねないと、「幼児期運動指針」は子どもの将来を案じています。

 子どもが十分に体を動かして遊ぶことは、心肺機能や骨の形成にも大切なことであり、たとえば転んだときにも大怪我にならない耐性のある筋力や身のこなしを体得すること、普段から良い姿勢を保つことなど、健康の基盤づくりのためにも大切なことです。更には、子どもたちが鉄棒や縄跳びなどで「できた!」という体験をし、課題に向かう意欲や忍耐の態度を育てるためにも、体を動かして遊ぶことが必要です。

 体を動かして遊ぶことは、個人の身体・精神的な成長を促すことは言うまでもありませんが、「集団経験」ということでも大切な働きをしています。子どもは、その遊びをとおして、他の子どもたちとコミュニケーションを図り、自分を主張したり相手を理解したりすることや、チームで一つになって協力したり他者のために貢献したりすることも学んでいくのです。

 幼児期に体を動かして遊ぶことは、やがて学童期にはいると、ルールのある運動、スポーツに向かうことになります。運動は、素早い方向転換や身のこなし、状況判断、予測や協調など、脳の多くの領域を使用して刺激しながら、調和のとれた運動制御機能や判断力、知的能力を発達させる働きをします。

 幼い頃から特定の種目だけの運動訓練をした子どもと、特定の種目に限らず屋外でたくさん遊んだ子どもの運動能力の伸び方を追跡調査したところ、小学校高学年になる頃から両者の運動技術の差はなくなり、その後はかえって屋外でたくさん遊んだ子どもの方が運動能力全般で力を伸ばしているという結果が出ているそうです。

 また、本題からはそれますが、子どもが早期に文字学習を行なっても、小学校一年生の終わり頃には、早期文字学習を行なわなかった子どもとの間にその学力差はなくなり、小学校3年生になる頃には、早期の文字学習を行なわなかった子どもの方が、読解力、作文表現力などの点でかえって好結果を収めるようになるという研究結果も報告されています。幼少期には、子どもは、たくさん体を動かして遊び、そこで他者と言葉を交わし合い、心を豊かに通わせ合うことが、身体、精神、知的発育のための基盤づくりになる、と言えるでしょう。たくさん体を動かしましょう。

 ちなみに、文部科学省は「幼児は様々な遊びを中心に、毎日、合計60分以上、楽しく体を動かすことが大切です。」と言っています。

わたしたち大人が安全を確保し、温かな眼差しをおくり、そこで子どもたちがのびのびとたくさん体を動かして遊びこむ日々の積み重ねが、子どもの心身を健やかに育てる基本なのです。子どもたちの様々なまだ目には見えない可能性を開いていくためにも、子どもたちがたくさん体を動かして色々な事に挑戦して遊ぶ機会を持てるよう心掛けたいと思います。体を使ってたくさん遊ぶことは、子どもたちの心身が成長するための糧であると共に、経験の幅を拡げながら他者と共に生きていく上で必要不可欠のことなのです。

 (文部科学省の「幼児期運動指針」より多くの部分を引用しました。)


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2023年10月11日

光を受けて (愛恩便り 2015年8月)

光を受けて          

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

神は光を見て、良しとされた。(創世記1:3-4)


 「早寝早起き朝ご飯」。この言葉は、平成18年に文部科学省が提唱した国民の健康維持増進運動のためのキャッチフレーズです。この言葉には、規則正しい生活の中で、適切な運動、十分な休養・睡眠、調和のとれた食事をとることが健康の維持と増進のための大切な要件であることがうたわれています。

 わたしは、各ご家庭でこうした基本的な生活習慣を大切にしつつ、子どもたちがこの夏休みの間にたくさん自然と交わり、その経験をご家族で豊かに共有することが出来るように願っています。

 今号では、「光」のことを、特に陽の光が人の生活リズムをつくって健康を増進するうえでとても大切であることを、記したいと思います。

一日は24時間ですが、人の体内時計の周期はそれと同じではなく、もし人が陽の当たらない一定の条件の中で過ごし続けていると、人の眠りたい時間帯と活動したい時間帯の間にはズレを起こしはじめ、食事、睡眠、排泄などをはじめとする体内のリズムも次第に乱れてしまうのです。そして、こうした人の生活リズムの乱れを修正するのにとても大切や役割を果たしているのが陽の光なのです。

 特に、朝の光を受けると、人の脳はセロトニンという脳内ホルモンが活発に分泌されてスッキリと覚醒し、体内のリズムがリセットされ、物事に取り組む意欲や集中力も高まります。その一方、人は夜になるとメラトニンというホルモンが分泌されて眠くなるのですが、このメラトニンはセロトニンを材料にしてつくられるので、よい睡眠をとるためには日中に陽の光を受けてよく体を動かすことが大切になります。

 つまり、わたしたちは、朝の光を受けて、体を動かして活動する時間を設けることで、夜にはメラトニンがたっぷりと合成されて質の良い睡眠をとることが出来るのです。このように、わたしたちの心身の健康は、早寝早起きをして適切な食事と運動によって増進されていくのです。

 長い夏休みを過ごします。

 聖書には、神さまがこの世界を「光あれ」から始めて丁寧にお造りになり、これを「良し」として祝福されたことが記されています。わたしたちが陽の光を受けて自然と遊ぶことは、神さまの思いと触れ合うことにつながります。夏休みの間も、毎日少しずつでも陽の光を浴びて、できることならたくさんの自然と触れ合うことができますように。そのためにも、ぜひ各ご家庭で「早寝早起き朝ご飯」を励行してたくさん遊び、9月に元気に顔を合わせることが出来るように祈っています。

 また、幼稚園では夏期の預かり保育も行っています。ご家庭の都合の限らず、子どもたちの生活を規則正しいものとして維持し、友だちとの活動経験を積み重ねていくためにも長期休暇中の預かり保育をぜひご活用ください。

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共に育つ (愛恩便り 2015年7月)

共に育つ

  

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民                               

主に養われる羊の群れ。(詩編 第100章3節)


 例えば、砂場遊びをするにしても、入園当初の子どもたちは、あまり他児との関係をもたずに、それぞれが独りで同じような遊びをしていました。いわゆる「並行遊び」の段階です。この時期の子どもたちは、友だちに関心を示して同じ場所で遊ぶのですが、まだお互いに役割を分担するような段階には至っていません。ですから、一つしかない遊具を二人が使いたくなると、その遊具を引っ張り合って、取られてしまった子どもはそこで泣き出すということもしばしば見られました。

 しかし、2,3ヵ月経つうちに、子どもたちは、少しずつ、友だちと関係を結びはじめます。他の子どもが使っている遊具を使いたくなったら、「貸して」と言ったり、「使っていい?」と尋ねたり、少しずつ相手を配慮するようにもなってくるのです。

 子どもたちは、遊びを通してそのような対人関係の技術(スキル)を体得していきますが、それだけではなく、子どもたちは自分の経験の幅を広げることにより他者を理解する力をも身に付けているのです。

 自分が使っていた遊具をいきなり横取りされて、戸惑ったり腹が立ったり悲しくなったこと。「貸してくれる?」と尋ねられて「うん」と答えたら、相手が喜んで「ありがとう」と言ってくれたこと。こちらから「貸して」と言ったのに「だめ」と言われて残念だったり、気持ちよく「良いよ」と言ってくれて嬉しかったり、等々の経験を子どもたちは重ねています。

 子どもが友だちと遊び、そこで経験することの一つひとつが子どもの心の幅を拡げます。そして、経験の幅が拡がっていくことは、他の子どもの様子や気持ちを理解して適切に関わる力を育てることにつながります。

 わたしたちは神の民です。上に記したことは、人が主なる神に導かれ養われることの具体例の一つであると言えます。わたしたちは子どもに関わる者として、子どもたちも神の民として生き、テレビ画面や液晶画面に向かって独りで遊ぶことでは得られないたくさんの経験を積み、優しさやたくましさを育み、社会性を身につけていくことを願っています。

 子どもたちが、幼稚園でもご家庭でも、仲間とたくさんの良い経験を重ね、主なる神さまに養っていただくことができますように。

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2023年10月09日

平和のために (愛恩便り 2015年6月)

平和のために

  平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイによる福音書第5章9節)  


 国語辞典(『広辞苑』)を引いてみると、「平和」とは「①やすらかにやわらぐこと。おだやかで変わりのないこと。②戦争がなくて世が安穏であること。」と記されています。

 誰もが、「平和」とはとても大切な言葉であると思うでしょう。わたしもそう思います。

 ただし、聖書で使われる「平和」とは、単に「おだやかで変わりがない」状態を意味するのではなく、「神さまのお考え(み心)のとおりであること」を意味していることを、つまり神さまの意思の実現であることを、踏まえておく必要があるでしょう。そして、「平和」は与えられた状態のことではなく、わたしたちが努力してつくり出していくことで実現するという一面があることもしっかりと心に刻んでおく必要があるでしょう。

 子どもの健やかな成長にも平和が必要ですし、平和なしに子どもの健やかな育ちはあり得ないとも言えるのです。

 家庭や幼稚園などの子どもを取り巻く環境を子どもの育みのために相応しく整えることも、平和を実現するための身近な大切な働きです。わたしたちは、誰もが神さまから命を与えられ受け継いでいます。命の継承は、平和の中で、安定して安心して行われなければなりません。そのために、わたしたちが、神さまのお考え(御心:みこころ)に相応しく子どもが育つように祈り願いながら働きます。

 家庭が明るく円満であるように努めたり、家族が適切な栄養をとりながら楽しく食事ができるように料理をしたり、清潔で整った環境の中で暮らせるように掃除や洗濯をしたりすることも、何気ない平凡なことのように見えるけれど、実は平和を実現していくための大切な働きであると言えるのではないでしょうか。

 わたしたち人間は、この世に命を受けた時から、いや、胎内に宿ったときから、優しく柔らかな笑顔と声によるたくさんの働きかけを受けながら、つまり平和を体で感じ取りながら、少しずつそだつのです。そのように育って、平和の感性を養って、平和を実現するための働き人に育っていくのでしょう。

 こうした個人の成長における平和も、日頃暮らしている街の平和も、戦争のない世界をつくり出す平和も、その根底には、この世界とわたしたち一人ひとりを愛して生かそうとする神の熱い思いがあるのです。

 そうした神の熱い思いを覚えて、わたしたちはそれぞれに日々の具体的な働きをとおして神の平和を実現するために生きています。子どもたちの伸びやかな成長は、平和が実現する最も具体な例です。逆に言うと、子どもが伸びやかで健やかであるかどうかは、その世界が平和であるかどうかの指標でもあります。

 幼い者、弱い者、小さい者が大切にされ、喜びの中に生きられる平和な世界をつくるために生きることを喜びにすることができますように。

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「角の親石」  マタイによる福音書21:33~43 

「角の親石」    マタイによる福音書213343   (A年特定22)   2023.10.08


 今日の聖書日課福音書から導きを受けるために、はじめに少しぶどう園について思い起こしてみましょう。

 イスラエルの人々は、旧約聖書の時代から自分たちをしばしば神に造られた「ぶどう園」や「ぶどう園の働き人」に例えてきました。そのことは今日の聖書日課福音書だけでなく旧約聖書日課イザヤ書第5章などにもにも見られるとおりです。

 収穫したぶどうは、その多くがぶどう酒を造るために用いられ、また干しぶどうにされました。特にぶどう酒の場合は、収穫したぶどうの実を搾ってそのまま置いておけばそのぶどう液はひとりでに発酵してきます。昔の人々はこのようにしてぶどう酒が出来ることをぶどう液の成分の化学反応による発酵の観点から理解したのではなく、搾ったぶどう液に霊が宿ることとして理解していました。英語で酒を(おもに蒸留酒を意味するようですが)スピリットということにもその様な一面が現れているのかもしれません。

 ぶどうは、果物の中でも特に発酵しやすい性質があります。しかも、その絞り汁は神の霊を宿す性質のあると考えられた当時のことを思い巡らせてみると、旧約時代の預言者たちがイスラエルを「ぶどう園」に、またイスラエルの民を「ぶどう園の働き人」に例えて教えを説いたことにも見られるように、ぶどう園やそこで働くことが、神の国や神の民について考える上での格好の教材になったことが想像されます。

 預言者イザヤは、今日の旧約聖書日課イザヤ書第5章の始めの部分で、次のように神の言葉を取り次いでいます。

 「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために。そのぶどう畑の愛の歌を。

 わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。」

 このようなぶどう園の様子を思いつつ、今日の聖書日課福音書に記された主イエスの例え話を簡単に振り返ってみましょう。

 主人は、ぶどう園を整えてそれを農夫たちに任せて旅に出ていきました。

 そのぶどう園は、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを建てています。よく整備されたぶどう園だったはずです。

 ぶどう園を任された農夫たちはそのぶどう園の持ち主ではなく、あくまでも主人のぶどう園に雇われた農夫だったはずです。収穫の時期が近づいた頃、主人はその収穫を受け取るために自分の僕を農夫たちの所に遣わしました。ところがぶどう園の農夫たちは、主人の僕を捕まえて袋叩きにし、また他の僕は石打にして殺してしまいます。そこで主人は、前よりも多くの僕をぶどう園に遣わしますが、ぶどう園の農夫たちはその僕たちのこともまた同じ目に遭わせてしまいます。とうとう、主人は自分の息子なら敬ってくれるだろうと、自分の一人息子をぶどう園に遣わしました。ところが、農夫たちはその息子を見て、「この一人息子を殺してしまえばぶどう園は我々が相続することになる。さあ、こいつを殺してしまおう」と話し合い、その一人息子を捕らえてぶどう園の外に放り出して殺してしまうのです。

 主イエスはこの話をイスラエルの祭司長や長老たちを相手にて、彼らを厳しく批判する話として語られました。その日は、主イエスがエルサレムに来ていわゆる宮きよめをなさった日曜日の直後の火曜日で、その4日の後の金曜日には十字架につけられることになります。

 主イエスが神殿の境内で教えを述べ始めると、ユダヤ教の指導者たちは「何の権威でこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか」と詰め寄ってきます。主イエスはイスラエルの指導者たちを厳しく批判してこの例え話をなさるのです。

 その当時、イスラエルの人々は宗教的にも政治的にもエルサレム神殿を中心にして民族の一致と団結を計ろうとしており、その権力を握っていたのが神殿の祭司長であり、また民の長老や律法の専門家たちでした。しかし、彼らは神殿の権威の上にあぐらをかき、自分たちの利益を求めたり、律法を自分たちの都合の良いように解釈してその地位を守ることに腐心し、弱い立場の人や貧しい人々のことなど顧みようとはしませんでした。

 旧約聖書時代の預言者たちは、そうした権力者に対して神の言葉を取り次ぎました。ある預言者は神殿の指導者たちを糾弾する言葉を放ち、他の預言者はイスラエルの指導者や民衆に向かって神の御心に立ち戻るように勧める言葉を、また他の預言者は彼らに悔い改めを促す言葉を語りました。しかし、神殿で権力をふるう指導者たちや律法の教師たちは、預言者の言葉を聞かずに拒否し、預言者たちを弾圧し迫害を加え、沢山の預言者たちが殺されていったのでした。 そして、ぶどう園の主人の一人息子である主イエスをも拒み、ぶどう園をを我が物であるかのようにして、主イエスをエルサレム神殿の外の十字架の上に殺して捨て去り、彼らはユダヤ教の権威が自分たちの手中にあるかのように振る舞い続けたのでした。

 このように、神のひとり子である主イエスは十字架の上に殺されますが、神の国の実現を目指す働きはそこで終わるわけではありません。

 この論争の火曜日から4日目に、主イエスの働きは雇われ農夫らによって拒否され、十字架の上に捨てられることになりますが、その働きの中に神の救いを見た人々によって受け継がれるのです。十字架に示された主なる神の愛は、ぶどう園のイスラエルの指導者たちが捨てた主イエスを角の親石として信仰者の群れをつくりだし、教会として成長していきます。

 主イエスはそのことを詩編第11822節の言葉を用いて話しておられるのです。

 「家を建てる者の捨てた石、これが角の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える(21:42)」。

 ユダヤ教の指導者たちは、神の御心を自分たちの権力の中に抱え込み、預言者たちの言葉を聞かず、主イエスによって示された神の愛を拒否し、イスラエルの民は神の御心との間に大きな断絶をつくってしまいました。それでも、主なる神は主イエスの十字架の出来事を通して、主なる神の御心をイスラエル民族の枠を越えて世界中に拡げてくださいました。この歴史を教会では「救済史」と言います。

 そして、この「救済史」は、世界を把握する上での大切な視点であると同時に私たち一人ひとりの歴史にも深く関係しているのです。

 今日の福音書の最後の部分で主イエスはこう言っておられます。

 「だから、言っておくが、神の国の福音はあなたたちから取り上げられ、そ れにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」

 ここで主イエスが言っておられる「民族」とは、主なる神の御心を行いその実を結ぶ人々の集まりである「神の民」のことです。私たちの教会も、主の御心に相応しい実を結ぶよう求められ、促されています。こうして教会に招かれている私たち一人ひとりも、またこの礼拝堂も、主が用意してくださったぶどう園であることを確認しましょう。そして、私たち一人ひとりも主なる神によって支えられ生かされることへと導かれた歴史があるのです。主イエスは私たち一人ひとりを支える角の親石となって、私たちの人生を支えていてくださいます。

 私たちは、神が用意して下さったぶどう園の働き人として、御心に相応しい実を結び、その実を主のご用のために納めることを私たちの喜びにしたいと思います。

 主イエスがイスラエルの人々に示した働きは、人の欲と罪のためにぶどう園の外に捨てられてしまったかのように見えても、ひとり子主イエスの働きは平和と愛に満ちた世界を作りだすための「角の親石」となりました。そして、私たちのぶどう園での働きを支えていて下さいます。神ご自身が人の罪のために傷み苦しみながらも、なおその先に御心を行う人を起こし、その人たちのための「角の親石」となって下さっています。主なる神は、あらゆる困難や挫折の先に、それに勝る喜びと平和を与えてくださるために、その礎となって今も働き、私たちをその働き人として用いて下さいます。私たちは、神の愛を受け、御心の実を結び、その実を主の御前に喜んでお献げできるよう、主イエスを私たちの内なる「角の親石」としてしっかりと据えることができますように。

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2023年10月01日

「考え直して」 マタイによる福音書21:28~32

「考え直して」  マタイによる福音書212832   (A年特定21) 2023.10.01


(1) 2023年10月1日(A年) 聖霊降臨後第18主日 説教小野寺司祭 - YouTube (この日の説教の動画)


 主イエスは、十字架にお架かりになった金曜日の直前の火曜日に、エルサレム神殿の境内でユダヤ教の指導者たちと激しい論争をなさいました。

 今日の聖書日課福音書の直前の段落の始めには、次のように記されています。第2118節です。 

 「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちが近寄ってきて言った。何の権威によってこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか。」

 ユダヤ教の指導者たちは、エルサレム神殿の境内で教えを述べ始めた主イエスに、「お前は誰の許可を得て、何の名によって、何の権威によって教えているのか」と詰め寄ってきました。主イエスがその祭司長や民の長老たちを厳しく批判する脈絡の中に今日の聖書日課福音書の「二人の息子」の例えが置かれています。

 ある人が二人の息子に、それぞれに「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と声をかけました。その一人は「いやです」と答えましたが後で考え直して出かけました。もう一人は「はい、お父さん」と答えましたが出かけませんでした。

 主イエスは、この短い例え話によって、神の招きに応える罪人たちと神殿や律法に仕えながらも神の御心を行うと言うにはほど遠いユダヤ教の指導者たちを対比して、ユダヤ教の指導者たちを厳しく批判しておられるのです。

 今日は、この聖書日課福音書の例え話の中から一つの言葉(単語)を採り上げて、主イエスからの養いと導きを受けたいと思います。

 その一つの言葉とは、「考え直して」と訳されている言葉です。

 第2129節をもう一度拾い上げてみましょう。

 「兄は、『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。」

 この「考え直す」という言葉の原語はメタメロマイという言葉で、「心を入れ替える、取り替える」という意味から出た言葉です。

 父親からぶどう園で働くように言われても、「自分にはその意志がない、自分はそれに相応しくない、自分にはその資格がない」と思い考えて、その息子は父の求めに応じませんでしたが、後で「考え直して」ぶどう園に出かけて行きます。

 もう一人の息子は「はい、お父さん」と答えましたが、出かけませんでした。この息子について、主イエスは32節でこう言って批判しておられます。

 「ヨハネが来て(洗礼者ヨハネが出現して)、義の道(神と正しい関係を結ぶ悔い改めの道)を示したのに、あなたがた(イスラエルの指導者たち)は彼(洗礼者ヨハネ)を信じず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたがたはそれを見ても、後で考え直して(先駆けの洗礼者ヨハネ)を信じようとしなかった。」

 当時、徴税人や娼婦などは「罪人」と呼ばれていましたが、それらの人々は主イエスと出会い、その愛に触れて、自分を見つめ直す勇気を与えられました。そして、神の御心に従って、これまでの自分を振り返り、自分がどのように生きることが神と自分に相応しいのかを「考え直す」ことが出来るようになりました。

 罪人と決めつけられていた彼らは、救い主の先駆けとして現れた洗礼者ヨハネの招きや救い主イエスの教えや行いに触れ、悪霊を追い出していただき、病を浄めていただき、「考え直して」本当の自分に立ち帰ることができました。彼らは、そのようにして自分に迫る神の言葉を、一度は尻込みしたり拒否しても、「考え直して」主なる神の招きに応え、ぶどう園の働きに、つまり神のお考えの実りをもたらす働きに、促されていくのです。それは、天の喜びになります。

 この「考え直して(メタメロマイ)」という言葉は、福音書ではこのマタイによる福音書の中だけにあり、ここで採り上げた2箇所の他にあと一箇所だけで用いられています。そのもう一つの箇所は第273節の中にあります。

 そこには「その頃、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして」とありますが、この中の「後悔し」と訳されている言葉が「考え直す(メタメロマイ)」です。

 イスカリオテのユダは、イエスを裏切ってイエスをイスラエルの権力者たちに売り渡しましたが、ユダはイエスに死刑の判決が下ったことを知って後悔し、考え直しています。でも、ユダは考え直してはいるのですが、その時に何に基づいて考え直すべきなのかその基本的な信仰が曖昧なままであり、自分が立ち帰るべき原点を見失ったまま、銀貨30枚を神殿に投げ込んで首をくくることへと追い込まれていってしまいました。

 イスカリオテのユダは、洗礼者ヨハネが義の道を示したことを知っており、徴税人や娼婦たちが悔い改めてイエスの御許に立ち帰る姿を実際に自分の目で見ていたはずです。でも、ユダは主イエスに自分を委ねることができず、自分の犯してしまった過ちを考え直す機会を得ながらも、主イエスが身をもって示す神の愛に立ち帰ることができず、その結果、永遠に神の御心から離れてしまったと言えるでしょう。

 私たちも自分の思いや行いの過ちに気付いて「考え直す」ことがあります。初めから完璧な信仰を持っている人などいません。主の御心に自分を照らし、自分の心の貧しさや弱さに気付き、そこに働いてくださる神の愛を恵みとして受け止めるところに感謝が生まれます。そして、ぶどう園に招かれて働く喜びが生まれます。そのように神の愛の中で「考え直す」ことが信仰の成長へとつながっていくのです。

 主イエスは、当時の権力者たちが律法の枠組みから落ちこぼれた人々を罪人と呼んで蔑み自らは少しも「考え直す」ことのない姿を見て、厳しく彼らを問いただしています。

 私たちは、神殿の指導者たちのようにユダヤの律法やエルサレムの神殿制度を鎧にして頑なに「考え直す」ことを拒む者ではありません。また、イスカリオテのユダのように「考え直す」ことの拠り所(原点)を失ってさ迷う者でもありません。

 私たちは「考え直す」ときに、立ち帰って自分の全てを明け渡して委ねる対象を知って、そのお方を信じて受け入れています。その相手こそ主イエスです。

 私たちは、それぞれの心に主イエスご自身とそのみ言葉を深く迎え入れて自分を照らし出され、その自分が主イエスを通して神に受け入れられていることを信じ、主なる神さまと豊かに心を通わせる信仰生活へと導かれて参りましょう。

 私たちが神を選んだのではなく、神が私たちを愛し選び出してくださいました。私たちはこの神の選びと導きの中で「考え直し」、恐れなく主なる神の御許に進み出るように招かれています。

 今日は、これから洗礼式を行います。自分を委ねて信じる対象が主イエス・キリストであることを受け入れ、信じて、召し出された者の群れに新しい仲間が加わる喜びを分け合い、共に信仰の道を歩んで参りましょう。

 
posted by 聖ルカ住人 at 15:47| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする