2023年04月30日

羊の門イエス  ヨハネによる福音書第10章1-10 

 羊の門 主イエス  ヨハネによる福音書第10章1-10   A年 復活節第4主日   2023.04.30

 今日の主日は、「良い羊飼いの主日」と呼ばれている主日です。

 パレスチナは水や緑が少ないところですので、安全に羊を守り育てることは苦労の多い仕事でした。羊飼いはいつも羊と寝起きを共にし、自分の羊を野の獣から守ります。羊飼いは荒れ野の所々に羊を管理するための囲いを作っていました。特定の人のものではなく羊飼いたちが共有する囲いです。ごろごろした石を積み上げて造られた囲いです。夕方になると、羊飼いたちは自分の羊をその囲いの中に導き入れて夜を過ごします。時には幾人かの羊飼いが同じ囲いに羊を入れることもあり、自分の羊も他の人の羊も一緒に過ごします。羊飼いは一緒に羊の番をし、あるいは交代で眠ることもできました。

 夜が明けると、羊飼いは囲いの門のところで声を上げます。すると、羊たちは自分の飼い主の声を聞き分けて、飼い主の所に集まります。羊飼いは一人で100匹程の羊を飼っていましたが、その一頭一頭に名前を付けて、それぞれの性格も健康状態も知りぬき、時にはそれぞれにつけた羊の名を呼んで羊たちを呼び集めました。羊は自分の飼い主の声を聞き分け、飼い主に従っていきます。羊は自分の飼い主の声を聞き分け、他の羊飼いに着いていくことはありません。羊飼いは先頭に立って、新しい日もまた自分の羊を水や青草のあるところへと導きます。

 主イエスは、パレスチナの人々にとって極めて身近な「羊飼いと羊」の生活を例えにしてお話しをなさったのでした。

 羊が守られるのは囲いの中だけのことではありません。羊は自分の飼い主の声を知り、他の飼い主との声の違いを聞き分けて、自分の羊飼いの声に導かれて初めて若草の野辺へと出ていくことが出来、そこでも羊飼いの見守りが必要になります。

 私たちもそうした羊のように、私たちを導いて豊かに養ってくださるお方に守られ導かれいます。私たちはその羊飼いである主イエスに自分を委ねて、その導きと養いを受けて生かされています。良い羊飼いである主イエスは、私たち一人ひとりの心の内側までを知っていてくださり、私たちの名を呼んで、私たちを導いてくださっています。

 「死海写本」についてご存知でしょうか。「死海写本」は、1947年にパレスチナで発見された古い巻物があり、その発見をきっかけにこの地方で調査発見された2000年近く前の歴史資料であり、20世紀に発見された最大の歴史的遺物と言われています。この巻物の中には、聖書の写本や、聖書の解説、またユダヤ教の規則集などが含まれており、最初の発見をきっかけに、幾つかの箇所から羊皮紙やパピルスに記されたそれらの写本が発見されました。

 この写本発見のきっかけになったのは、ある羊飼いの少年でした。この少年は迷いだして見失った自分の羊を探して荒涼とした「クムランの洞窟」と言われるあたりに来ていました。その辺りは、昔、洗礼者ヨハネのグループが俗世界を離れて修養の生活をしていた場所だと考えられています。羊飼いの少年は、そのような荒野の洞穴に自分の羊が迷い込んでいないかと捜し回りました。「死海文書」の一つはこの少年によって洞窟の中から偶然に発見されたのです。今ではこの地方にもチラホラと観光客が訪れるようですが、そこは何人かで訪ねても不気味さを覚える荒れ野です。最初に「死海写本」を発見した少年も、おそらく人気(ひとけ)のない荒れ野で、大自然の創り出す不気味さに圧倒されながら、迷い出た一匹の羊を捜し歩いたことでしょう。僅かな水と食料を腰に下げて、薄暗い洞窟を覗いては羊の名を呼び、自分の声だけがこだまする荒れ野を歩き回ったことと思います。このように自分の羊に責任を持ち自分の羊を大切にする「良い羊飼い」と、主イエスが自分への信仰を告白する人々を命を掛けて神の国へと導く「良い羊飼い」の姿が重なります。

 こうした状況を背景に主イエスは「私は羊の門である」と言っておられます。

 また、今日の聖書日課福音書の箇所の文脈を見てみると、直前の第9章には主イエスが生まれつき目の見えない人の目を開いて癒した物語があります。この物語は主イエスに目を開かれた人がユダヤ教の指導者たちによって神殿から追放されたところで終わっています。しかもその物語の中で、ユダヤ教の指導者たちは、生まれつき目が見えなかったこの人に「神の前で正直に答えなさい。私たちはあの者(イエス)が罪ある者だと知っているのだ。」と言っていたのに対して、この目を開かれた人は「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と言って、自分の目を開き癒やしてくださった主イエスに対する自分の思いをしっかりと表明しており、それがきっかけになってこの人は神殿を追放されてしまいます。

 今日の聖書日課福音書の箇所は、この物語を受けて、誰が本当の羊飼い(救い主)であり、私たちは誰の声を聞いて導かれるべきなのかを伝えているのです。

 生まれつき目が見えなかった人が主イエスによって目を開かれ、主イエスの御声を聞き分けることが出来るようになって、強盗や偽羊飼いのようなファリサイ派の人たちに対しても恐れることなく、自分の主イエスに対する信仰を表明しました。

 そして、福音記者ヨハネは、私たちのことをも、まことの羊飼いである主イエスに聞き従うように招くのです。

 主イエスはご自身を「羊の門」に例えられ、更に「良い羊飼い」に例えておられますが、福音記者ヨハネは、こうした流れによって、弱く貧しい人々を食い物にするファリサイ派たちを野獣に例え、主イエスこそ羊たちを憩わせる囲いの門であり、また、主イエスこそ自分の命を掛けて自分の羊を守る真の羊飼いであることを伝えています。

 ヨハネによる福音書がまとめられるようになった時代は、クリスチャンにとっては厳しさが増してくる時代でした。主イエスが天に上げられてから50数年経た頃、当時のユダヤ教の担い手たちが開いたヤムニア会議で、ユダヤ教の指導者たちは日々の祈り(18祈願)の中に「ナザレ派(イエスをメシアとして告白する者ども)は呪われよ」という祈りが加えるようになり、イエスを救い主と信じて告白する人々はユダヤ社会の異端とされ、各地の会堂から追放されるようになったのです。これによってその当時イスラエルを支配していたローマ帝国からもクリスチャンは非合法宗教と見なされるようになり、ローマ帝国挙げての大迫害が起こる要因にもなっていったのです。

 しかし、当時のクリスチャンはこうした状況をただ悲観的に捕らえるのではなく、イエスを救い主と信じて告白する者の集まりはユダヤ教の枠を越えて広がっていくことになり、キリスト教はイスラエルという囲いの外の異国の人々にもその御心を示して広がっていくのです。

 そのような時代を背景に、福音記者ヨハネは「主イエスこそ私たちの本当の羊飼いである」、「主イエスこそ本当の神への門である」、「主イエスに養われる私たちはこの方の御声に聞き従うのです」と伝えています。また、迫害を恐れて主イエスを自分の救い主であると信仰を告白出来ずにユダヤ教の枠の中に留まる人々に対しても、主イエスこそ真の羊飼い(救い主)であると強く訴えています。

 羊が真の羊飼いの声を聞き分けられるようになるためには、羊は生まれた時から幾度も真の羊飼いの声を聞き、羊飼いから自分の名を呼ばれる必要があります。そのように良い羊飼いに守られ、自分の名を呼ばれながら、羊は自分が掛け替えのない大切な一匹であることを覚えるのです。

 私たちも主イエスの御声を聞き分けることが出来るようになるためには、まず聖書の御言葉を幾度も幾度もしっかりと自分の心に迎え入れ、主イエスを通して愛されていることを知り、それに基づいて偽牧者の声との違いをしっかり聞き分けられるようになることが求められるのです。

 自分の羊のためには命をも捧げて下さった真の羊飼い主イエスが自分の羊飼いであることを思い起こし、その御声を求めて従って参りましょう。また、十字架の上の苦しみを通してさえ私たちを愛しぬいて下さった主イエスこそ私たちを本当に生かし神の国に至る門であることをしっかりと心に留めることができますように。

 「良い羊飼いの主日」である今日、私たちの羊飼いである主イエスの御声にに導かれる思いを新たにし、良き羊飼い主イエスに従う歩みを強められますように。

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2023年04月26日

タイツリソウ 2023年4月26日

2023年4月26日(水)
 今朝、かけ放しにしていたラジオから
「今日の花はケマンソウです。ケマンソウの花言葉は ”あなたについて行きます” です」 
 と聞こえてきた。
 ケマンソウ? 聞き慣れない花の名前に、それはどんな花なのだろうと思っていると、
放送は、「ケマンソウ」は「タイツリソウ」とも言われ・・・、と続いた。
 「ああ、あの花のこと!懐かしいな。」と思い、私のパソコンの古いデータを探してみた。
 「あった、あった。」
 データの記録は2002.04.12となっている。
 この花は、宿根草で、前橋聖マッテア教会の庭に毎年咲いていた。
 この花の「花言葉」が ”あなたについて行きます” なら、私はこの花を個人的には「ペトロ草」と呼ぶことにしよう。

 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」
 イエスが答えられた。「わたしの行き所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」
 ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」
 イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(ヨハネによる福音書13:36~38)

 自分の力でイエスについて行けないペトロも、復活の主イエスに赦され、愛され、その恵みの中で、イエスから「わたしの羊を飼いなさい(同21:15,17)」、「わたしの羊の世話をしなさい(同21:16)」と言っていただけるのである。
 裏切りもした。「あんな奴のことなんか知らない」とも言った。それでも、いや、そんな人間だからこそ、イエスは人を愛さないわけにはいかない。この恵みの中でペトロは、そしてペトロに自分を重ねる私たちは「あなたについて行きます」と言えるのだと思う。



タイツリソウ02.04.12 (1).JPG   タイツリソウ02.04.12 (2).JPG
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2023年04月23日

エマオへの道で  ルカによる福音書第24章13-35

エマオへの道で  ルカによる福音書第241335   A年 復活節第3主日   2023.04.23

 主イエスが十字架で死んで墓に納められた日は金曜日。その翌日は安息日。その安息日が開けた週の初めの日、幾人かの女性たちは主イエスの墓に向かいましたが、婦人たちは、そこで天使から主イエスの復活を告げられました。

 「イエスは生きておられる。」

 彼女たちはそのことを弟子たちに伝えます。ペトロとヨハネもイエスの墓が空であることを確認しました。その日のうちに「イエスは生きておられる」という噂はエルサレム中に広がり始めていました。

 しかし、弟子たちには「イエスが生きておられる」ということは、まだ噂話にしか思えませんでした。クレオパともう一人の弟子は、エルサレムを去りエマオに向かって歩き始めていました。エマオはエルサレムから西へ1112㎞程のところです。この二人の弟子がエルサレムを発ったのは、夕暮れのエマオの様子から逆算して、午後2時頃であったのではないでしょうか。

 エマオへ向かう二人は歩きながら互いに「この一切の出来事について」語り合っていました。彼らには、イエスが過去の人になり始めています。

 この二人には、彼らの望みが主イエスの十字架で絶たれてしまったかのように思えました。この二人だけでなく他の弟子たちも皆、主イエスがエルサレムに上ることで「神の国を実現する働き」は完成すると期待していたのに、その全てが十字架で終わってしまったとしか思えませんでした。

 それぞれの弟子が一心に主イエスに望みをかけていました。ある弟子は漁をしていたガリラヤ湖畔に舟、網、家族を残し、「人間をとる漁師」になろうとして、また他の弟子は収税所で人々に蔑まれながら税金取りをしている時に思いもかけず主イエスに声をかけられて立ち上がり従ってきました。その結果は、自分たちの期待は適わず、主イエスの十字架で終わったと考えました。弟子たちはみな落胆していますが、エルサレムでは街中に「イエスは生きておられる」という噂が飛び交っています。

 クレオパともう一人の弟子は、こうしたイエスの噂を敢えて振り切るかのように、エルサレムを去りエマオに向かって歩き始めました。彼らはイエスについて語り合い、論じ合いながら歩きます。すると、そこにいつの間にか誰かが近づき、合流し、二人の話に入ってきました。

 「歩きながらやりとりしているその話は何のことですか。(24:17)

 二人は、そのお方が甦った主イエスだとは気付かず、その人にイエスについてことにこの数日エルサレムで起こったこと(24:18)を説明しながら歩いていきます。

 今日、私たちは、この物語から、歩きながら語り合う二人の弟子と主イエスの「話す人と教えられる人」の主客の転換について注目してみましょう。

 エマオに向かって歩き出したイエスの弟子であるクレオパともう一人は、主イエスについて語り合い、論じ合っています。この二人は、そこに同行してきた主イエスに「何のことを話しているのか」と尋ねられて、自分たちが期待していた教師であるイエスについて、19節から24節まで、かなり詳しく説明しています。

 それに対して、25節からは主イエスがこの二人に教え始め、26節で「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と前置きなさり、「モーセと全ての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された(24:27)」のです。

 クレオパともう一人は、自分たちに語っておれれるのが主イエスご自身であるとは気付かないままに、イエスの十字架と復活は旧約聖書に記された神の救いが成し遂げられた出来事ではないか、と力強く教えられました。

 そして、夕食の席では、主イエスご自身が「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて(24:31)」この二人に渡しておられます。ここに主イエスが最後の晩餐で制定された「主の食卓」の出来事が起こっており、二人の弟子は目が開かれています。

 彼らは語り合います。「道で話しておられるとき、また道で聖書を説明して下さったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか(24:33)。」

 二人の弟子が十字架に死んだイエスのことを思い、考え、語り合うところに、主イエスご自身がいつの間にか合流しておられます。その主イエスは、二人の弟子に、同伴し、教え、やがてこの二人を導き、養うお方となり、主客が入れ替わっていきます。

 このことに気付くとき、この物語のクレオパともう一人の弟子が甦りの主イエスが生きておられることに気付く姿は、私たち自身の信仰生活の姿と重なってくることが分かるのです。

 私たちも、信仰のはじめには、この二人の弟子のように「イエスは生きておられる」というメッセージに混乱して、信じられず、そのメッセージを拒みたくなることもあったのではないでしょうか。実は私たちも、今でも、主イエスの復活について、戸惑い、信じられず、主イエスについて色々と論じてみても、「イエスは生きておられる」というメッセージに尻込みすることもあるのではないでしょうか。

 そして、結局の所、イエスの愛は十字架の上で終わってしまったとしか考えられず、いつまでも物分かりが悪く、心が鈍いままであり、主イエスの十字架が栄光のしるしだとは理解出来ずに過ごしているのではないでしょうか。

 私たちは、聖書の言葉を思い巡らせ語り合っても、初めのうちはまだそこに主イエスが同行していてくださることには気付かないかもしれません。でも、私たちが聖書の言葉に耳を傾け、心を開いて互いに語り合い論じ合う時、復活の主イエスに出会う準備が私たちの中に少しずつ出来てくるのです。そして、そのような私たちのところに、主イエスはいつの間にか私たちと共に歩き、教え導いてくださっているのです。

 二人の弟子は後になって、そこに同行していたお方が主イエスだったと分かり、2432節では「道々、聖書を解き明かしながらお話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と語り合っています。

 私たちも、聖書を通して主イエスのお話し下さることを聴こうとする思いへと導かれ、神の御心を聖書の中に求め、そのことを語り合い、そこに共にいてくださる主イエスに出会いたいのです。

 31節では、食卓で二人の弟子の目が開けて復活の主イエスを認めた時には主イエスのお姿はまた見えなくなったことを記していますが、神は私たちをいつまでも主イエスと出会ったあの時の状態に留めてくださるわけではありません。もし私たちが、主イエスのお姿を特定の考えやイメージの中に留めて、そこからしか主イエスを見ないのであれば、私たちは私たちの思いを越えて大きくお働きになる主イエスをすぐに見失うことになるでしょう。

 それでも、私たちは今日の聖書日課福音書から、主イエスの御言葉の内に、そして、主イエスが主催してくださるこの聖餐式の内に、主イエスが私たちと共にいてくださることを示されています。

 私たちは、エマオに向かう二人の弟子と同じように、主イエスを思い、語り合い、論じ合う中から主イエスご自身の導きを受ける時が来ることを待ち望みながら信仰生活を歩んで参りたいと思います。

 私たちが主イエスについて思い巡らせ、語り合い、論じ合うながら歩み続ける時、復活の主イエスはその道のどこかで私たちに同行し、更に私たちを教え導いて下さるようになり、いつの間にか私たちの心を燃え立たせて下さいます。

 既に主イエスはいつの間にか私たちと共に信仰の道を歩んで下さり、私たちの心を燃え立たせ、主イエスとの交わりのうちに私たちを生かして下さいます。 私たちは復活の主イエスに共に歩んでいただいていることを信じて、それぞれの信仰の歩みを進めていくことができますように。

 (3) 2023年 4月 23日( A年) 復活節 第3主日 説教小野寺司祭 - YouTube

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2023年04月18日

遊び込むこと (あいりんだより2011年10月号)

遊びこむこと

 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。 (創世記 1:3,4 ) 

 上に記した聖書の言葉は、天地創造の第1日目の言葉です。このようにして始まった天地創造の働きは、第6日まで続き、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と結ばれ、第7の日は安息日となるのです。

 わたしはこの箇所を読むと、神はこの世界を楽しみながらお造りになったに違いないと思うのです。そして、わたしたちも(特に子どもたちは)日々楽しみながら遊びこむことの必要とその大切さを思うのです。

 子どもたちは遊びこむことで、自分の世界を拡げていきます。それはこれから生きていく上での自分の可能性を拡げていくことにもつながっていると言っても過言ではありません。

 遊びこむことで自分の世界が拡がることについて、少し別の面から述べてみたいと思います。ある作家が次のように言っていました。「小説の筆を進めていくと、作中の人物が動き出します。わたしはそれを描写するように筆を進め、自分が立てた最初の構想を超えた作品ができ上がります。」

 子どもも、遊び始めるときに、頭に初めからはっきりとすべての見通しを立てているわけではありません。多くの場合、遊びは漠然と始まり、「ああでもない、こうでもない」と感じながら、でも楽しんでそれを形にしていく中で、次第に自分の心にピタリとした世界を造り上げていくのです。時には独りで、また時には友だちと一緒にお互いに刺激し合い、心の中に出来上がってくるイメージを形にしながら、満足のいく世界がいつの間にか自然に出来上がってくるのです。

 実際、今わたしもこうしてこの文章をつくりながら、「うーん、もっと良い表現はないかな、何となく心にピッタリしないなー、」等と独り言を言っています。そして、満足のいく表現を探しながら、文章が出来上がることを目指しています。わたしにとって、この『あいりんだより』の文章をしっかりと表現することは、子どもたちが遊び込んで自分を表現することに似ています。わたしは誰かの受け売りではなく、時には心に収まる表現にならずにうめきながらもこの文章を仕上げていくことが、皆さんに読んでいただくに値する仕事になり、それはまた自分自身のためだとも思っています。これと同じように、子どもにとって「遊びこむ」経験が、より深く自分を表現する力を育みます。遊びこむことは、自分の心にあるいろいろなイメージを外に表す機会となり、また実際に子どもは遊びを通して自分の内的世界を表現することによって、自分で自分を理解する力を養い、更に適切な表現をすることで自分を他の人と分かち合うことを学ぶのです。

 砂遊び、絵画や粘土での造形遊び、ままごとなどなど、たっぷりと時間を確保してその中で遊びこむことは、子どもの心の成長にとって欠かせないことなのです。

 そして、子どもがこのように遊びこむ時になくてはならないのが、子どもを守る大人の存在です。子どもは邪魔されず安心して自分を表現することで成長するのですから、その時間と場所をしっかりと保証する必要があります。その時空の中で更に大切なのが、子どもをしっかりと見守る大人の眼差しです。子どもだけでなくわたしたち大人も、自分を超えた確かで大きな存在に見守られ、失敗も成功も受け止めてもらうことによって、人は人として生きていくことができるのです。そして、この眼差しの質が子どもの遊びが豊かになるかどうか、深まるかどうかに関係しているのです。

 わたしたちは神の眼差しを受けて育まれています。その眼差しを子どもたちに向けて、子どもが十分に遊びこめるように関わり支えて行きたいと思います。

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2023年04月16日

キリストの平和  ヨハネによる福音書第20章19-31  復活節第2主日

キリストの平和  ヨハネによる福音書第201931   A年 復活節第2主日   2023.4.09


 復活節第2主日を迎えました。

 今日の聖書日課福音書は、主イエスが復活なさった日も暮れようとする頃の出来事が記されています。

 弟子たちは、主イエスが復活したという知らせを受けた日の夕方になっても、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて、重苦しい思いを抱えたまま、部屋に閉じこもっていました。弟子たちは、ユダヤ教の指導者、権力者たちが主イエスを十字架につけた勢いに乗ってその弟子や仲間たちのことも捕らえに来るのではないかと恐れています。イエスを納めた墓が空であったことについても、当局者たちが「イエスの弟子たちが遺体を持ち出して、その復活の噂を立てている」と考え、イエスと同じ罪状を口実にし、加えて墓に納められた遺体を持ち出して神を冒涜する者、騒乱を起こす者として自分たちを捕らえに来ることは十分に考えられることであり、弟子たちの不安や心配は一層つのりました。

 主イエスの遺体が墓にないことは主イエスが復活したしるしですが、イエスを否定して復活を信ない者たちにとって遺体がないことは墓を荒らす者がその遺体を運び出したと考えるのはごく一般的な推理であったと言えるでしょう。

 この日の夕方、主イエスは、部屋の戸に鍵をかけて閉じこもている弟子たちに復活のお姿を現し、彼らの真ん中に立って、「あなたがたに、平和があるように」と言われました。直訳すれた「平和、汝らに(エイレーネー ヒューミン)」です。ヘブライ語では「シャローム アレヘム」と言います。

 「あなたがたに平和があるように」。

 主イエスは、この言葉をこの場面(今日の聖書日課福音書の中)だけでも、幾度も繰り返しておられます。

 主イエスの言う「平和」とは、ただ争いや戦いがないという意味ではありません。「平和」とは、主なる神の支配が完全に行き渡っていること、神の御心がそこに満ち溢れていること、神と私たちの関係が少しも損なわれることなく十分であることを意味しています。主イエスは弟子たちに、主なる神とあなた方の関係は少しも損なわれることなく十全である、と言っておられるのです。

 主イエスが十字架につけられた時、弟子たちは自分たちが望みをかけていた主イエスとの関係は、自分たちがイエスを裏切ったことで全てが崩れ去り全てが終わり、全てを失ってしまったと考えました。弟子たちは、安息日の土曜日もその翌日の日曜日も、部屋の中に閉じこもり、重苦しく息苦しい部屋の中で過ごしていました。

 主イエスはそこに入って来られ「あなたがたに平和があるように」と言ってくださいました。

 何という驚きでしょう。主イエスのこの言葉、「平和、汝らに」は、部屋の中に閉じこもりうずくまっていた弟子たちのすべてを覆します。

 振り返ってみれば、弟子たちはこれまでガリラヤからずっと主イエスと共に過ごす中で、「あなたは生ける神の子」と主イエスに対する信仰を言い表したこともあり、また、主イエスがご自分の受難について語り始めた時には「この人と一緒に死のうではないか」と語り合い、主イエスに向かって「死んでもあなたについて行きます」とも言いました。でも、主イエスがゲッセマネで捕らえられる時、弟子たちは捕縛されるイエスをそこに置き去りにして逃げ出しました。また、ペトロはこっそり入り込んだ大祭司の館で、その家の者から「あなたもあの男の弟子だろう」と問い詰められれば、「違う」、「知らない」とイエスを三度否定し、主イエスの言葉の通り鶏が鳴いたのでした。そして主イエスはその日のうちに十字架につけられました。

 主イエスの十字架は、この世の罪、人間の罪、そして弟子たちの罪を顕わにしました。神の御心から離れてしまった人間の罪の姿が、主イエスの十字架に現れ出ました。でも、それと同時に、この十字架を通して、神の完全な愛の姿も現れ出ていたのです。

 ほとんどの人がその十字架から溢れ出していた神の愛とその勝利を見過ごしてし金曜日が終わりました。それから3日経った日も夕方になった頃、復活した主イエスは弟子たちの所にそのお姿を現されました。ただ閉じこもっているほかなかった弟子たちの真ん中に立って、主イエスは「あなたがたに平和があるように」と宣言してくださいました。

 十字架と復活を通して主イエスが成し遂げ示してくださった神の愛が、今、ここに、弟子たちに示されています。

 弟子たちは号泣したことでしょう。そして心の底から喜びが生まれます。弟子たちに再び生きる力が湧き上がってきます。主イエスの復活の力は弟子たちを再び立ち上がらせる力になります。

 この宣言を受けた弟子たちは、まだまだ、弱く臆病ではありますが、神の平和のために具体的に動き働き始めるのです。

 主イエスの名によって集う私たちにも、復活の主イエスは「平和があなたがたに」と宣言してくださっています。

 この宣言によって、弟子たちは、自分たちが赦され、愛されていることを受け容れることが出来ました。十字架の出来事の中に隠し絵のように入り込んでいた神の愛を、今ここではっきりと認識し、実感し、十字架の出来事の意味が弟子たちの心の中にしっかりと根付き、弟子たちの中に神の愛が動き始めます。

 弟子たちは身に余る神の愛を受けて感謝し、神の愛に生かされている喜びが溢れたことでしょう。

 弟子たちは、神の愛の前にいつまでも尻込みしたり神の愛から隠れることは、神の溢れるばかりの愛を無駄にすることであり、それは主イエスの十字架の死を無駄にすることであることを悟ります。そして、感謝をもって、十字架を通して示された神の愛を感謝して、神の愛の恵みを人々に分かち合わずにはおれない思いに溢れます。やがて彼らは聖霊に満たされて、部屋を飛び出して世界への宣教へと歩み出していきます。

 ヨハネによる福音書によれば、復活の姿を弟子たちに現した主イエスは、弟子たちに「聖霊を受けなさい」と言って息を吹きかけておられます。

 息を吹き込むことは、初めて人間が作られた時に、神が土の塵で形作られた人間に神が息を吹き入れたことを連想させます。主イエスが弟子たちに息を吹きかけていることは、罪に死んだ人間が主イエスによって再び新しい人に作り変えられていることを表します。

 私たちは、パウロの表現を用いれがば、アダムと共に罪に死んだ者でしたがイエス・キリストと共に新しい人に生まれ変わって生かされています。主イエスは、復活のお姿を現して「あなた方に平和があるように」と宣言してくださったばかりでなく、ご自身の復活の息を吹き込んで私たちを新たに生きる者としてくださいました。

 私たちは復活の主イエスによって死の先にまで生かされています。今日、私たち一人ひとりが父と子と聖霊なる神との十分な関係の中に生かされていることを確認しました。私たちは、感謝して、喜んで、トマスの信仰告白の言葉に合わせて、「わたしの主、わたしの神」と復活の主イエスへによって与えられた神の恵みに対する信仰を表明し、主の平和の働きに与ることが出来ますように。
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2023年04月13日

礼拝説教の動画(YouTube)配信案内 

東松山聖ルカ教会では、
主日礼拝(聖餐式)の説教部分を切り取って YouTube配信 しております。
(教役者の勤務の都合などの事情で配信していない日もあります。)

 これまでに配信されだ主日礼拝の説教動画は、以下のURLよりご覧頂くことが出来ます。





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2023年04月12日

子どもの成長の段階(聖母子像を思いつつ)   (あいりんだより2011年9月号)

子どもの成長の段階(聖母子像を思いつつ)

  キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。 (コロサイの信徒への手紙3:15) 

 この夏休み、教職員はいくつかの研修会に出席し、わたしたちの日頃の働きを振り返り、また実践の資料をつくって研修する時を持ちました。その中で、わたしが再確認したことを一つ記すことから始めましょう。

 それは、障害児支援に関わる医師の講演の一こまでした。プロジェクターに映し出されたスクリーンには、三角形が一つ。そしてその三角形の内側には底辺に平行する2本の横線があります。それは子どもが何を土台にして成長の段階を上っていくのかを示す図で、わたしたち保育に携わる者にとっては馴染みの図でした。

 その三角形の一番下の層に記された言葉は、誰もが考えるとおり、「他者(多くの場合は母親)との信頼関係の構築」です。具体的には子どもが視線を交わし合い、その愛着関係の中で子どもが「心地よさ」と「楽しさ」をどれだけたくさん経験するか、つまり愛を受けられるかが、その後の心身の発育の基盤になるということです。子育ての基盤は、まず乳幼児期に子どもが母親を中心とした周りの人からどれほど多くの愛情を受けたかということなのです。

 真ん中の層は「人が好き、人に好かれる」です。底辺のエネルギーをもとに、自他への興味関心が生まれ、自分から他者に対して積極的な働きかけができる意欲や情緒が育ちます。そのような面での育ちの良い子どもは、当然周りからも関心をもたれる(他者から好かれる)人に育つ、と言うのです。

 そして、その上に「知力」とありました。

 この講演を聴いていて、わたしはかつて学んだことを思い出しました。それは、「早期の文字学習は効果があるか」ということです。文字学習の前提も、文字の読み書き訓練を早期に始めると効果が上がるとは限らず、まず、子どもが自分も他人も含めて、他者とどれだけ愛情深い関係を創り上げられるかということの方が大切なのです。追跡調査によると、学齢前に特別な文字習得訓練をしなくても、9歳までには文章理解や作文構成能力の差はなくなり、それ以降は、かえって文字学習開始の遅い子どもの方が読解力や作文表現力が上回ってくるという研究結果が報告されていました。道具としての文字を学ぶより、豊かな情操を育むことの方が大切であることを示す研究結果です。

 子どもの成長の基盤は、乳幼児期にどれだけ親(をはじめとする周りの人々)から愛されて質の高い「快」経験を積んでいるかということにあり、この底辺の広さと深さがその後の心身の成長の原動力となり、やがて学習意欲も高まり、知性を得る土台にもなると言えるのです。

 さて、キリスト教保育の原点は、人はみな神から命を受けた尊い存在であり一人ひとりの命が豊かに育まれるように関わり合うことにあります。それは、健常児であれ障害児であれ、かわりありません。そうであれば、キリスト教保育の原点は象徴的には母マリアが幼子イエスを抱く「聖母子像」にあるとも言えます。愛とは、良い関心をもって相手に関わることです。

 どうぞ、各ご家庭でも先を急ぎすぎずに子どもたちにゆったりと関わり、神さまがそこに共にいてくださる姿が現れ出るように努めてください。幼稚園でも教職員と子どもたちで心を通い合わせ、成長の土台となる自他への信頼感や意欲を育む保育に努めて参りたいと思います。そのようにしてこそ、しっかりとした土台の上に本物の自分を建て上げていけるのですから。

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2023年04月11日

「空の墓 -イエスの復活-」のこと  2023.04.10

「空の墓 -イエスの復活-」のこと 

 昨日(2023.04.09)は復活日だった。それぞれの教会で主イエス・キリストの復活を祝う礼拝が行われたことと思う。

 聖餐式聖書日課(A年)は、復活日にはヨハネによる福音書第20章1-10節が配当(旧祈祷書(1959年改定祈祷書)ではこの箇所が固定)されている。

 この聖書日課箇所では、マグダラのマリア、ペトロともう一人の若い弟子(ヨハネであろう)が、イエスの墓を訪ねて、墓が空であったことを確認したところで終わっている。しかも、ヨハネによる福音書第20章9節には、「イエスは必ず死者の中から復活することになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」と記されており、私にとって、この箇所から復活日の説教をすることはとても重荷であった。

 この箇所に向き合って「空虚な墓」ということを中心に据えて説教をしたことがあったのだろうかと自分を振り返ってみると、聖職として35年以上復活日の説教をしているのに、その確かな記憶はなく、思い出すことが出来なかった。

 思い出したのは、私が神学生だった時の定期試験の問題のことだった。

 おそらく、2年生の「教理学」の前期試験の問題の中にだったと思うが、語句や人物を「簡単に説明しなさい」という小問題があり、何が出題されたか覚えていないのだが、例えば、カルケドン公会議とかマルキオンとか6つぐらいの語句があって、解答用紙に2.3行でその項目の要点を記す問題があった。私は、出題されている項目の中に「空虚な墓」があったことを、なぜか印象深く覚えている。

 「T先生の教理学の問題の中に〈空虚の墓〉!? 新約聖書のしけんじゃないだろう!」と思った。

 採点されて戻ってきた私のこの解答部分には三角が記してあったこともハッキリと覚えている。その後、これまでの自分を振り返ってみると、私は復活日の説教の準備をするときに「空虚な墓」の箇所について深く向き合うことを避けてきたような気がする。「空の墓」をテーマにして復活日の喜びを語ることはとても難しいことのように思えたのである。

 定年を迎えても、復活日は来る。今年は聖書日課福音書がヨハネによる福音書から「空虚な墓」の箇所。説教の準備をする段階で色々思い巡らせていると、「空虚な墓」について35年越しの宿題が残っているような気がしてきて、しかもその思いは次第に強くなってくる。

 でも、復活日に教会に集う人々に,この箇所からどのように福音を取り次げばよいのか、この箇所から自分自身がどのような喜びのメッセージを受けているのか、筆は進まず、ある程度説教原稿が整ったのは深夜(というより当日)の午前2時をまわった頃だった。

 復活日の礼拝でこの箇所を朗読し説教壇に立つと、いつにない緊張感に襲われた。まるで、神学生の説教実習で説教壇に立ったときのような思いだった。震えたり声に詰まりながらとにかく語りきった。

 説教が終わると、自分の中に湧いてきたのは、まだ復活への確信の持てない自分がいつか復活のイエスに出会うこと、あるいは主イエスに迎えられることへの希望を持って歩み続けさせていただくことへの感謝と喜びであった。涙が出そうになった。それに続いて洗礼式と聖餐式の司式をさせていただく中でも感謝と喜びが時々大波のように押し寄せてきた。

 私は、ふとT先生は「空虚な墓について説明しなさい」という設問に対してこの説教(解答)にどのようなコメントをくださるのだろうかと思った。

(1) 2023年 4月 9日( A年) 復活日説教 ヨハネによる福音書 第20章 1節-10節(11節-18節) - YouTube

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2023年04月09日

空の墓のメッセージ   ヨハネによる福音書第20章1-10    復活日

空の墓のメッセージ     ヨハネによる福音書第201-10    復活日   2023.4.9

 主イエスは3日前の金曜日に、人々の罪を一身に引き受けて十字架の上で死に、葬られました。この十字架の出来事は、十字架を取り巻くそれぞれの人に衝撃を与えました。アリマタヤ出身のヨセフは、主イエスが十字架にお架かりになった出来事に心を打たれ、ピラトのところへ行きイエスの遺体引き取りを申し出たのでした。そして、ユダヤ議会の議員でありファリサイ派のニコデモと共に、自分の所有する新しい墓にイエスの遺体を納めたのでした。

 死はその人が生きたことの意味が問われる厳粛な出来事です。人は自分の死の経験とその先のことをこの世界で分かち合うことは出来ません。もし私たちが自分の「死」について考え、学び、知ろうとするのなら、他の人の生と死から学び、それをもとに思いを深めることしかありません。私たちは他の人の生と死から、自分の一生にも終わりがあることを教えられ、終わりある自分の一生を無駄にすることなく、他の誰にも取り替えることの出来ない貴重な人生を生きるように促されるのです。

 主イエスは十字架の死によって、この世の罪をご自身に引き受けてくださり、死は終わりではなく新しい命に生まれ変わる道であることを示してくださいました。

 主イエスを慕ってガリラヤからエルサレムまで同行してきた婦人たちは、安息日の明けるのを待ちかねて、朝早く、イエスが葬られた墓に向かいました。婦人たちはイエスを失った悲しみを、せめてもう一度イエスの遺体に油を塗って癒したかったのでしょう。今この婦人たちに出来ることは、イエスの亡骸をもう一度丁寧に納めなおすことでした。

 この三日前、安息日の迫る金曜日の夕方にアリマタヤのヨセフとニコデモが取り急ぎイエスの遺体を墓に納めたので、婦人たちはもう一度丁寧にイエスの遺体に香油を塗って納め直し、主イエスに別れを告げようと考えていたのでしょう。

 ところが、女性たちが墓に着いてみると、入り口の大きな石は脇に転げ、墓の入り口がぽっかりと空いています。マグダラのマリアは驚いて弟子たちのところに走りました。

 知らせを受けたペトロと「イエスの愛しておられたもうひとりの弟子」(これはヨハネであると考えられます)は、墓に走りました。若いヨハネは先に墓に着いて女性たちが見たとおりの入り口の状況を確認し、後から走ってくるペトロを待ちます。ペトロは一目散に墓の中に走り込みました。そして、ペトロは、イエスの遺体を包んでいた布がまるで抜け殻のようにそこに置かれているのを見たのでした。ペトロに続いて墓の中に入ったヨハネもそこにイエスの遺体は無くただ亜麻布が置いてあるだけであったことを確認したのでした。

 ヨハネによる福音書は第209節で次のように付け加えます。 

 「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」。

 二人の弟子が空の墓を見て、どのような思いで他の弟子たちのところに戻っていったのでしょう。ペトロもヨハネも、この出来事を主イエスが復活なさったこととは考えられず、どのように理解したら良いのかも分からず、一体誰が先生の遺体を持ち出したりするのだなどとあれこれ推測していたのではないでしょうか。

 私は、この数日、今日の説教の準備をしていると、イエスの遺体のなくなった墓に立つペトロとヨハネの姿は、主イエスの復活の日を迎える私たちの姿と重なってくるように感じていました。

 私たちは、いま聖書から主イエスの墓が空であることを告げ知らされています。主イエスの復活の知らせに喜んで叫びたい程であるはずなのに、実は、内心、ペトロやヨハネと同じように、イエスの墓が空であるという知らせに戸惑い、疑い、尻込みしているのではないでしょうか。あるいは、初代教会からの伝統に従って、本当はその意味も掴めない中で、戸惑う弟子たちと同じ姿でいるのではないかという思いも浮かんできました。その思いは、最初に「墓が空になっている」と伝えられた弟子たちの戸惑いや恐れと重なってきます。

 主イエスは生前に幾度も弟子たちに受難と復活の予告をなさいました。ペトロもヨハネも自分の目で墓が空になった様子を見ているのに、それが主イエスの復活のしるしだとは思えず、また主イエスが予告なさったことがここに実現しているとも思えませんでした。

 福音記者ヨハネはそのことを「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」と記しています。

 弟子たちは、この後、一日中、ユダヤ人を恐れて、戸には鍵をかけて部屋の中に閉じこもっています。弟子たちはマグダラのマリアからイエスの納められた墓が空になっていたことだけでなく、弟子たちが戻っていった後に、墓の入り口で復活のイエスにお会いしたことも弟子たちに伝えたはずです。それでも弟子たちはその日ずっと朝から夕方まで、ユダヤの権力者たちを恐れて部屋に閉じこもっていました。主イエスが甦ったという知らせは既に弟子たちに届いていたはずなのに、弟子たちはまだイエスの復活を受け容れられませんでした。

 このような弟子たちの姿は、主イエスの復活を受け容れられず、信じますと言い切れずにグラつく私たちと重なってくるのではないでしょうか。

 さて、それではこのように主イエスの復活を信じられない弟子たちが、復活の信仰を確かにされていったのはなぜなのでしょう。そして、主イエスの復活を信じられず納得いかない私たちはどうすべきなのでしょう。

 その答えは聖書の中にあります。

 今日の聖書日課福音書で取り上げられているヨハネによる福音書の限らずどの福音書でも、最初に主イエスの墓が空だったことを見つけて御告げを受けた女性たちやイエスの弟子たちは、喜びに満たされるのではなく、恐れおののきまた不安になりました。そのような弟子たちが、その後、様々に甦った主イエスとの出会いを経験していくのです。

 主イエスの墓が空になっていたこの日も暮れようとする頃、ずっと部屋に閉じこもっていた弟子たちは、その部屋に入ってきた復活の主イエスに出会って赦しと招きの宣言を受けました。また、イエスを失って落胆してイエスについて論じ合いながらエルサレムを去る弟子二人はエマオに向かって歩く道でいつの間にか寄り添う復活のイエスに教えを受けて心を燃やしました。また、弟子たちは、主イエスが弟子たちに命じたパンとぶどう酒を分け合って祈る礼拝の中に幾度も主イエスが共におられることを経験しました。また、パウロに至っては、イエスを救い主であると信じる者を迫害し、捕らえて牢に投げ込む働きへとダマスコへ向かう途上で復活のイエスに撃たれ熱心なキリストの宣教者に回心しました。弱くイエスについての理解も乏しかった弟子たちもそれぞれに復活の主イエスと出会い、主イエスの復活の力を得て、世界中に宣教の働きに向かっていき、殆どの弟子たちは殉教の死を遂げています。

 そして、私たちも、今は信仰が不確かであり主イエスについての理解が乏しいとしても、復活の主イエスに出会って信仰を養われ強められた弟子たちに自分を重ね合わせて、それぞれの生活の中で復活の主イエスと出会い、自分の信仰の有り様と出会い、その自分が復活の主イエスに導かれて、過去の古い自分に死んでキリストと共に新しい命に生きていくことへと導かれるのです。

 「復活する」という言葉は、原語のギリシャ語ではaνιstηµι(アニステーミ)という言葉で「再び、上に(アナ)と、起き上がる」という意味から成る言葉です。

 神の御心を生き抜いて十字架に死んだイエスが再び起き上がり、御国が来ますように、御心が天に行われるとおりこの世界でも行われますようにと、私たちの先頭に立って生きてくださり、神の御心を生きようとする私たちを招き導いてくださいます。弟子たちが主イエスの復活のメッセージを受けた時、まだ信じられずに戸惑う時にも、甦りの主イエスは弟子たちを再び立ち上がらせ、新たに生まれ変わって生きるように招き続いてくださいました。

 私たちが、主イエスの復活をまだ理解できなくても、信じられなくても、受け容れられなくても、主イエス・キリストは既に死者の中から復活し、眠りについた人々の甦りの初穂となってくださったのです。

 例え、私たちの信仰がまだ確かではなくても、主イエスは既に甦って、私たちを御心を行う歩みへと導き続けていてくださり、いつか私たち一人ひとりが復活の主イエスと出会う時を用意していてくださり、私たちをその感謝と喜びに満たしてくださいます。私たちの方からは、今は甦りの主イエスについてほんの少ししか理解できなくても、主イエスは私たちのことは全て知っておられ、私たちもハッキリと主イエスのことを知ることに導かれて生きるのです。

 復活の主イエス・キリストが、私たちを生かし導いていてくださることを信じ、日々、主イエス・キリストの復活の力の中に新しくされて歩むことへと導かれて参りましょう。やがて復活の主イエス・キリストと顔と顔を合わせて出会う時を信じて、死を打ち破って復活した主イエス・キリストと出会う希望の中に生かされ導かれて参りましょう。

 主イエス・キリストのご復活を感謝し、共にその復活の主イエスと出会う希望と喜びを確認しましょう。

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2023年04月02日

イエスの十字架  マタイによる福音書27:1-54   復活前主日

イエスの十字架     マタイによる福音書27:1-54   復活前主日     2023.04.02


https://www.youtube.com/watch?v=1vaIKwkjUlA


  今日の聖書日課福音書から、マタイによる福音書の第2746節をもう一度読んでみましょう。

 「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。」

 この言葉は、主イエスが十字架の上で叫んだ言葉です。

 主イエスの十字架を理解するために、私たちは予め次の二つの言葉の意味を確認しておきたいと思います。

 一つは「愛」です。これまでに幾度も申し上げているとおり、この言葉は積極的かつ肯定的に相手に関わり続けるという意味で、「好き」という感情を表す言葉ではありません。愛の反対語を挙げるとすれば、「恨み」とか「憎しみ」というより「無関心」とか「無関係」という言葉の方が近いでしょう。

 もう一つは「罪」です。「罪」とは「関係の断絶」を意味しています。例えばコンセントが外れていれば冷蔵庫でも扇風機でも用をなさないように、私たちが神との関係が切れていることが「罪」の状態にあるということです。私たち人間は生物として存在するだけでは「生きている」とは言えません。私たちが生理的には生きていても、神との関係が破れてしまい、神から与えられた命がその人として生きていないことが「罪」の中にある、ということです。

 私たちは、今日、この「愛」と「罪」という言葉の意味を心に刻み込んで、十字架の主イエスを見上げてみましょう。

 聖餐式聖書日課A年の福音書は、マタイによる福音書を中心に取り上げられていますが、マタイによる福音書の大きなテーマの一つは「主イエスが私たちと共にいてくださる」ということです。

 マタイによる福音書は、イエス誕生の物語の中で「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である。(1:23)」と記しており、また、同じマタイによる福音書の最後の場面では、甦った主イエスが弟子たちに「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(28:20)」と言っておられます。

 このように、マタイによる福音書は、その始めと終わりに「共にいる神の子」を示して、その中身は主イエスが罪人と共に生きてその人々を神の御許に連れ戻す様々な行いと教えに満ちていると言えるでしょう。

 神は主イエスを通して神が私たちと共にいて下さることを示して下さいましたが、もし私たちが自分の力を頼みとして他者と共にいようとするなら、どの程度にできるのでしょうか。もし、「私はいつでも他の人と共にいることが出来ます」と言えるとすれば、その人は場の状況を読めずに相手がその人を迷惑がっていることに気付いていないだけのことなのかもしれません。

 ペトロは主イエスが十字架にお架かりになる前の晩に、受難の予告をなさる主イエスに向かって「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」とまで言い、他の弟子たちも皆同じように言いました。

 しかし、弟子たちは、イエスが捕らえられた時、イエスを残して逃げ去りました。また、ペトロは主イエスが取り調べられている大祭司の館に入り込みますが、その庭で「お前もあのイエスと一緒にいた。あの連中の仲間だろう」と問い詰められると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしてイエスを「知らない」と言ったのでした。この箇所は、ペトロ個人のことに限らず、ペトロの物語を通して私たち人間がいかに神の御心から離れやすく、人が神と共にまた他者と共に生きることがいかに難しいのかを描き出していると言えます。

 そのような世界で、主イエスは人々を愛して関わり続け、その結果神を冒涜する者とされ、最後には権力者に扇動された民衆たちからも罵られながら、十字架に磔にされて死んでいきます。誰の目から見ても、貧しい人や悲しむ人と共に生きてきたイエスの一生がこのように終わることは納得いきません。そのイエスが十字架の上に身を曝されて息を引き取ろうとしています。このイエスのお姿が、神がイエスと共にいてくださる姿であるとは誰にも思えませんでした。神は、十字架の主イエスにはまるで無関心であるかのように、何もお答えになりません。神はこの主イエスを全く愛していないかのように、沈黙しておられます。

 イエスは叫びました。「エリ、エリ、レマサバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」。

 自分の方からは神の御心を貫き通して生きてきたのに、十字架の上で苦しむイエスに対して神の方からは何の応答もありません。こちらからは全身全霊で神とつながろうとして叫ぶのに、神からはつながりを感じさせるものは何ひとつありません。そんな中で、主イエスはなお神に向かって叫びます。神に見捨てられているようにしか見えない中で、主イエスはその絶望をなお神に向けて叫びます。何の見返りも求めず神と人を愛し続けたイエスが、十字架の上からさえ、なお人々を愛し神とつながり続けている姿がここに見えてきます。

 この言葉は、詩編第22編の冒頭の言葉です。罪人の側に回り神に見捨てられた者としての叫びの中に、神から見捨てられてもなおから離れずに罪人を神に結ぼうとする救い主の姿がここに浮かび上がります。

 私たちはよく「無償の奉仕」とか「見返りを求めない愛」ということを口にしますが、どこかで見返りを求めたり期待したりしてしまいます。たとえそれが物やお金ではなくても、「相手に喜んでもらえた」とか「お礼を言ってもらえた」とか「神は認めてくれている」とか、何らかの見返りを求めたくなります。でも、主イエスは十字架の上から、沈黙して何もお答えにならない神に、自分のぎりぎり最期の言葉を向けています。そして主イエスは何の見返りも受けることなく、そのまま息を引き取りました。

 こうして、主イエスは、全く罪のないにも関わらず、罪人として扱われ、罪人が味わうべき罵りと神との断絶を我が身に負って死んでくださいました。主イエスは罪の極みにある人が味わう苦しみと絶望をさえご自身の身にお引き受けになり、罪の極みにある人と同じ姿を取り、罪の極みにある人とも共にいてくださることを、十字架の上から示してくださいました。

 もし、私たちが他の人の罪など自分には関係無いと言えば、そこに罪が生まれ、神とも人とも断絶が深まります。かといって、罪がないのに罪人の側に立てば、本来罪なき人でも罪人のように扱われ、その罪の償いとしての罰を受けることになります。この窮地の選択の中で、主イエスは罪人の側に立ち、罪人の一人になって、その極みである十字架に付けられたのでした。

 群衆は叫びます。「神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りよ。」

 祭司長や律法学者たちも長老たちと一緒に十字架のイエスを罵ります。

 「他人は救ったのに自分は救えない。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。」

 人々をあっと驚かせて人々の気持ちを自分に向けさせることは、神の子の業ではなく魔術師やサタンの業です。

 主イエスが宣教の始めに荒れ野で40日をお過ごしになった時にも、サタンは「お前が神の子なら・・・」と言ってイエスを誘惑しました。主イエスは十字架の上からもこのサタンの誘惑を退け、神に向かって叫ぶことに徹して、罪人の側に廻り、神に捨てられた絶望の思いまでを罪人と共にしてくださいました。

 このイエスの中に、罪人から少しも離れずに罪人の宿命を共にして、罪人がそのまま滅びることを望まずに罪人と共に居続ける神の子の姿が少しずつ見えてくるのです。

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

 この主イエスの叫は、救い主が罪人である私たちに代わって上げた叫びであり、罪人である私たちと一緒に上げてくださった叫びです。私たちは神に見捨てられるはずの罪人でしたが、主イエスは私たちと共に死んでくださり、死の先にまで共にいてくださり、私たちは主イエスに伴われて甦らせていただく者とされています。

 神が何もお答えにならず沈黙しておられるのは、神が私たちを見放したり見捨てたりしているからではありません。私たちが神にさえ見捨てられたと思って絶望する時にも、主イエスは私たちと共にいて下さり、私たちの絶望よりももっと深く呻き叫んでくださいます。私たちが絶望する時にも、その絶望の中でなお神に向かって叫び祈りながら御心を離れることなく生きるように、主イエスは私たちを支えていて下さいます。私たちは、主イエスの十字架に、だまし絵や隠し絵のような中に「主が共にいてくださる」しるしを見出したいのです。

 パウロは言いました。「十字架の言葉は滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です(Ⅰコリ1:18)。」

 次の主日に、私たちは主イエスの甦りを記念して、感謝の礼拝を致します。その礼拝の中で私たちは、主イエスが罪ある人々のためにご自分の命まで全てをお献げになった先に、甦られたことを感謝しその喜びに与ります。

 主イエスの十字架の死が、私たち一人ひとりの罪を赦し、どこまでも私たちと共にいてくださるしるしであることをしっかりと覚え、イエス・キリストの甦りを祝う日を感謝と喜びをもって迎えることが出来るようにこの聖週を過ごして参りましょう。

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