羊の門 主イエス ヨハネによる福音書第10章1-10 A年 復活節第4主日 2023.04.30
今日の主日は、「良い羊飼いの主日」と呼ばれている主日です。
パレスチナは水や緑が少ないところですので、安全に羊を守り育てることは苦労の多い仕事でした。羊飼いはいつも羊と寝起きを共にし、自分の羊を野の獣から守ります。羊飼いは荒れ野の所々に羊を管理するための囲いを作っていました。特定の人のものではなく羊飼いたちが共有する囲いです。ごろごろした石を積み上げて造られた囲いです。夕方になると、羊飼いたちは自分の羊をその囲いの中に導き入れて夜を過ごします。時には幾人かの羊飼いが同じ囲いに羊を入れることもあり、自分の羊も他の人の羊も一緒に過ごします。羊飼いは一緒に羊の番をし、あるいは交代で眠ることもできました。
夜が明けると、羊飼いは囲いの門のところで声を上げます。すると、羊たちは自分の飼い主の声を聞き分けて、飼い主の所に集まります。羊飼いは一人で100匹程の羊を飼っていましたが、その一頭一頭に名前を付けて、それぞれの性格も健康状態も知りぬき、時にはそれぞれにつけた羊の名を呼んで羊たちを呼び集めました。羊は自分の飼い主の声を聞き分け、飼い主に従っていきます。羊は自分の飼い主の声を聞き分け、他の羊飼いに着いていくことはありません。羊飼いは先頭に立って、新しい日もまた自分の羊を水や青草のあるところへと導きます。
主イエスは、パレスチナの人々にとって極めて身近な「羊飼いと羊」の生活を例えにしてお話しをなさったのでした。
羊が守られるのは囲いの中だけのことではありません。羊は自分の飼い主の声を知り、他の飼い主との声の違いを聞き分けて、自分の羊飼いの声に導かれて初めて若草の野辺へと出ていくことが出来、そこでも羊飼いの見守りが必要になります。
私たちもそうした羊のように、私たちを導いて豊かに養ってくださるお方に守られ導かれいます。私たちはその羊飼いである主イエスに自分を委ねて、その導きと養いを受けて生かされています。良い羊飼いである主イエスは、私たち一人ひとりの心の内側までを知っていてくださり、私たちの名を呼んで、私たちを導いてくださっています。
「死海写本」についてご存知でしょうか。「死海写本」は、1947年にパレスチナで発見された古い巻物があり、その発見をきっかけにこの地方で調査発見された2000年近く前の歴史資料であり、20世紀に発見された最大の歴史的遺物と言われています。この巻物の中には、聖書の写本や、聖書の解説、またユダヤ教の規則集などが含まれており、最初の発見をきっかけに、幾つかの箇所から羊皮紙やパピルスに記されたそれらの写本が発見されました。
この写本発見のきっかけになったのは、ある羊飼いの少年でした。この少年は迷いだして見失った自分の羊を探して荒涼とした「クムランの洞窟」と言われるあたりに来ていました。その辺りは、昔、洗礼者ヨハネのグループが俗世界を離れて修養の生活をしていた場所だと考えられています。羊飼いの少年は、そのような荒野の洞穴に自分の羊が迷い込んでいないかと捜し回りました。「死海文書」の一つはこの少年によって洞窟の中から偶然に発見されたのです。今ではこの地方にもチラホラと観光客が訪れるようですが、そこは何人かで訪ねても不気味さを覚える荒れ野です。最初に「死海写本」を発見した少年も、おそらく人気(ひとけ)のない荒れ野で、大自然の創り出す不気味さに圧倒されながら、迷い出た一匹の羊を捜し歩いたことでしょう。僅かな水と食料を腰に下げて、薄暗い洞窟を覗いては羊の名を呼び、自分の声だけがこだまする荒れ野を歩き回ったことと思います。このように自分の羊に責任を持ち自分の羊を大切にする「良い羊飼い」と、主イエスが自分への信仰を告白する人々を命を掛けて神の国へと導く「良い羊飼い」の姿が重なります。
こうした状況を背景に主イエスは「私は羊の門である」と言っておられます。
また、今日の聖書日課福音書の箇所の文脈を見てみると、直前の第9章には主イエスが生まれつき目の見えない人の目を開いて癒した物語があります。この物語は主イエスに目を開かれた人がユダヤ教の指導者たちによって神殿から追放されたところで終わっています。しかもその物語の中で、ユダヤ教の指導者たちは、生まれつき目が見えなかったこの人に「神の前で正直に答えなさい。私たちはあの者(イエス)が罪ある者だと知っているのだ。」と言っていたのに対して、この目を開かれた人は「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と言って、自分の目を開き癒やしてくださった主イエスに対する自分の思いをしっかりと表明しており、それがきっかけになってこの人は神殿を追放されてしまいます。
今日の聖書日課福音書の箇所は、この物語を受けて、誰が本当の羊飼い(救い主)であり、私たちは誰の声を聞いて導かれるべきなのかを伝えているのです。
生まれつき目が見えなかった人が主イエスによって目を開かれ、主イエスの御声を聞き分けることが出来るようになって、強盗や偽羊飼いのようなファリサイ派の人たちに対しても恐れることなく、自分の主イエスに対する信仰を表明しました。
そして、福音記者ヨハネは、私たちのことをも、まことの羊飼いである主イエスに聞き従うように招くのです。
主イエスはご自身を「羊の門」に例えられ、更に「良い羊飼い」に例えておられますが、福音記者ヨハネは、こうした流れによって、弱く貧しい人々を食い物にするファリサイ派たちを野獣に例え、主イエスこそ羊たちを憩わせる囲いの門であり、また、主イエスこそ自分の命を掛けて自分の羊を守る真の羊飼いであることを伝えています。
ヨハネによる福音書がまとめられるようになった時代は、クリスチャンにとっては厳しさが増してくる時代でした。主イエスが天に上げられてから50数年経た頃、当時のユダヤ教の担い手たちが開いたヤムニア会議で、ユダヤ教の指導者たちは日々の祈り(18祈願)の中に「ナザレ派(イエスをメシアとして告白する者ども)は呪われよ」という祈りが加えるようになり、イエスを救い主と信じて告白する人々はユダヤ社会の異端とされ、各地の会堂から追放されるようになったのです。これによってその当時イスラエルを支配していたローマ帝国からもクリスチャンは非合法宗教と見なされるようになり、ローマ帝国挙げての大迫害が起こる要因にもなっていったのです。
しかし、当時のクリスチャンはこうした状況をただ悲観的に捕らえるのではなく、イエスを救い主と信じて告白する者の集まりはユダヤ教の枠を越えて広がっていくことになり、キリスト教はイスラエルという囲いの外の異国の人々にもその御心を示して広がっていくのです。
そのような時代を背景に、福音記者ヨハネは「主イエスこそ私たちの本当の羊飼いである」、「主イエスこそ本当の神への門である」、「主イエスに養われる私たちはこの方の御声に聞き従うのです」と伝えています。また、迫害を恐れて主イエスを自分の救い主であると信仰を告白出来ずにユダヤ教の枠の中に留まる人々に対しても、主イエスこそ真の羊飼い(救い主)であると強く訴えています。
羊が真の羊飼いの声を聞き分けられるようになるためには、羊は生まれた時から幾度も真の羊飼いの声を聞き、羊飼いから自分の名を呼ばれる必要があります。そのように良い羊飼いに守られ、自分の名を呼ばれながら、羊は自分が掛け替えのない大切な一匹であることを覚えるのです。
私たちも主イエスの御声を聞き分けることが出来るようになるためには、まず聖書の御言葉を幾度も幾度もしっかりと自分の心に迎え入れ、主イエスを通して愛されていることを知り、それに基づいて偽牧者の声との違いをしっかり聞き分けられるようになることが求められるのです。
自分の羊のためには命をも捧げて下さった真の羊飼い主イエスが自分の羊飼いであることを思い起こし、その御声を求めて従って参りましょう。また、十字架の上の苦しみを通してさえ私たちを愛しぬいて下さった主イエスこそ私たちを本当に生かし神の国に至る門であることをしっかりと心に留めることができますように。
「良い羊飼いの主日」である今日、私たちの羊飼いである主イエスの御声にに導かれる思いを新たにし、良き羊飼い主イエスに従う歩みを強められますように。