復活であり命であるイエス ヨハネによる福音書11:17-44 大斎節第5主日 2023.03.26
今日の聖書日課福音書より、ヨハネによる福音書第11章25節の言葉を思い起こしましょう。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
私は、新約聖書の4つの福音書の中で、ヨハネによる福音書が一番分かり難いと思うのですが、その理由が幾つか考えられます。
その一つは、他の3福音書が主イエスの教えと行いをその出来事の順に伝えているのに対して、ヨハネによる福音書は、例えばイエスがなさったしるし(奇跡)を記しながらそれにまつわるファリサイ派との論争やそれを通してイエスがどのような意味での神の子なのかということを明らかにする言葉などが続いており、ストーリーの展開よりもその議論の部分が多いことが挙げられます。
また、もう一つその理由を挙げるとすれば、主イエスが語ってる言葉が、例えば「水」、「光」、「パン」など、主イエスがそのモノについて語っているうちにそれが比喩的、象徴的に用いられるようになり、その解釈をふくめて、内容を理解することに手間取る場合も多いからなのではないでしょう。
ある聖書学者は、この神話を私たちの生活の脈絡の中に絶えず再解釈していかねばならないと言います。
聖餐式聖書日課A年の福音書は、大斎節第2主日から第5主日まで、ヨハネによる福音書から、主イエスと出会って主イエスを救い主として受け容れてその信仰を公にするに至った人たちが取り上げられてきました。
振り返ってみると、大斎節第2主日はユダヤ教の教師で議員のニコデモ、第3主日は水を汲みに来たサマリアの女、第4主日は生まれつきの盲人、そして今日は兄弟ラザロの復活に与ったマルタとマリアの物語です。
私たちは、今日の福音書「ラザロの甦り」からメッセージを受けるに当たり、心に留めておきたいことがあります。その一つはここで主イエスが言っておられる「死んでも生きる」とか「いつまでも死なない」ということは、生物としての細胞が死なない事を意味しているのではないということ、もう一つは主イエスを信じることは肉体の不老不死を約束されているのではないということです。
私は、今日の聖書日課福音書の箇所(ことに冒頭に思い起こした11:25の箇所)を読むと、いつも思い出す小さな文章があります。それは今から30年近く前にある教会の機関誌に掲載されていた若いお母さん信徒の文章で、要旨は次のようなことです。
ある時、子どもが母親に不安そうに尋ねました。「ねえ、お母さん。私たちはイエスさまを信じているから死なないのでしょう?そうしたらおばあちゃんも死なないの?」子どもの唐突な質問に、母親が戸惑っていると子どもは話を続けます。お祖母ちゃんは年老いた上に病気になり、しかも体に痛みが走り、小さな子ども(孫)の目から見てもお祖母ちゃんの体が日に日に弱っていくのが分かります。この子どもにはお祖母ちゃんがとても可哀想に思えます。このお祖母ちゃんがこのまま生き続けるのだとしたら、主イエスが「私を信じる者は決して死ぬことはない」と言っていることは、喜びではなく拷問でしかないように思えるのです。その一方、お祖母ちゃんが死ぬことは神から見放されることなのかとこの少女は悩みました。我が子がこのようなことを話してくれたことをきっかけに、その母親は、お祖母ちゃんはやがて神さまに迎えていただくことになり、痛みからも解放されて平安に迎えていただけることを話し、親子で心を通わせることが出来たということでした。
この事例から考えてみると分かるように、マルタとマリアが「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と言っていることは、人の体がどんなによぼよぼになってもいつまでも生理学的に生き続けるべきだなどと言うことではありません。そうではなく、ラザロがこの世に生きた事全てが主イエスに受け容れられ、ラザロが主イエスをとおして神の御前に永遠に生きるということです。
マルタとマリアには、自分の兄弟ラザロが臨終の時に主イエスがその場に居合わせなかったことはどんなに心細く辛く悲しかったことでしょう。それは、ラザロを看取ったマルタとマリアにとってばかりではなく、主イエスが共にいないまま死んでいくラザロにとっても同じでした。
ヨハネによる福音書第11章1節には、ラザロは何か病気であったと記されています。当時、病気は本人なり先祖なりが犯した罪の結果が体に現れていることと考えられていました。そうであれば、ラザロの死は永遠の滅びを意味します。
今日の聖書日課福音書は、主イエスのいない世界がいかに簡単に死に支配されてしまうか、しかも4日も経てば死の臭いが放たれ、ラザロは永久にその存在が失われることになることを伝えています。
今日の福音書の中で、マルタとマリアがラザロの死を嘆き悲しむ様を見て、主イエスは「心に憤りを覚え(11:33)」たと記しています。主イエスは、ラザロのこの世での生涯が終わったことを憤っておられるのではありません。そうではなく、死がラザロと主イエスとの関わりをも過去のモノにしてしまうかのように人々に思わせていること、人々がイエスとラザロの関係もそこで途切れてしまったがのように考えてラザロを墓に納めてそれで終わりにしていること、そして人々をそのように向かわせる死の支配のことを主イエスは憤っておられるのでしょう。
先主日、私たちは主イエスが生まれつき目の見えなかった人の目を開かれた物語から、主イエスが「この人の目が生まれつき見えなかったのは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人の現れるためである(9:3)」と言ってその人を癒やした箇所から学びました。このラザロの場合も同じで、主イエスは墓に納められたラザロを通して神のみ業を現す働きをなさるのです。
神の大きな愛の前では死は無力であるはずです。それなのに、死は人々に神の愛を忘れさせ、人々は神の愛が死に対して無力であるかのように思い込んでいる様子がラザロを取り巻く人々には覗えます。
私たちも自分が神から愛されていることを忘れ、神に愛されている自分を見失っているとしたら、たとえ生物としての命は生きていても神から与えられた掛け替えのない人としての命を生きているとは言えないでしょう。主イエスが憤っておられるのは、人を滅びへと向かわせる罪に対してであり、また死の前に無力になってただ嘆くしかない人々の不信仰に対してであったと言えます。
主イエスはラザロの墓の前で大声で叫びました。
「ラザロ、出てきなさい(11:43)」。
すると、ラザロが墓から出てきました。ラザロは死の中に留め置かれるのではなく、主イエスによって新しく生かされています。ラザロの生涯は、墓に納められて終止符を打ったのではありません。ラザロは主イエスに覚えられ、愛され、祝されて、罪と死の定めから解き放たれて主イエスによって生かされています。
主イエスは、「わたしは復活であり、命である(11:25)」と言っておられます。この言葉は「わたしは、たとえラザロが(あるいは誰であれ信じる者が)肉体的には死ぬとしても、その人を永遠に生かす力である」という意味です。そして、福音記者ヨハネは、「主イエスが、この世の人間を愛し抜いてくださり、この主イエスが神の愛の中に私たちを包み込んでくださって、私たちがこの世に生きた証を不滅のものにしてくださる」ということを伝えて、その信仰へと私たちを招いておられます。
主イエスは、十字架の上にご自身を献げて、罪の内に死ぬほかなかった私たちを愛し抜いてくださいました。私たちは、主イエスの愛によって、死の先にまでなお神と結ばれて生きる恵みいただきました。その確かなしるしとして主イエスは甦り、私たちの先駆けとなってくださいました。
私たちが自分中心に生きれば、私たちの命はこの世での死によって終わります。しかし、主イエスに生かされる命-つまり私たちをどこまでも愛し抜いてくださる神の力によって生かされる命-は、この世の死で終わりません。死を越えて墓の中からさえ私たちを立ち上がらせ、私たちは滅びることなく生かされるのです。
主イエスは、主イエスによって現された神の愛に導かれ、主イエスが示してくださった復活の命をいただくことが出来るよう、信仰の道を-わたしたちが主イエスの愛にしっかりと結ばれて生かされている確信を-より深く堅固にすることが出来るよう主イエスに導かれて、歩んで参りましょう。
そして、ご自身が甦って死の先の道を示してくださった主イエスのご復活の日を、喜びと感謝をもって迎えられるよう、私たちの信仰を確かなものとしていくことができますように。