命の水を受ける ヨハネによる福音書4:5-42 大斎節第3主日 2023.03.12
今日の聖書日課福音書は、主イエスとサマリア地方の女の人が出会い、言葉を交わし合ってる箇所が取り上げられています。今日の聖書日課福音書の箇所は聖餐式の中で拝読する箇所としてはかなり長い部分であり、また多くの内容が含まれています。今日はその中から特にこのサマリアの女が主イエスと出会って自分を取り戻していく様子に焦点を当てて振り返り、私たちもこの福音書から主イエスの導きを受けて生きるように歩ませていただきたいと思います。
主イエスと弟子たちの一行は、旅の途中でサマリア地方を通りました。サマリアのシカルという町に来られた時、主イエスは旅に疲れ、町の井戸のそばに座って休んでおられました。時は丁度昼頃です。
そこに、この地方の町に住むサマリアの女が水を汲みにやってきました。当時の人たちは、今の私たちのように水道設備が整った中で生活をしているわけではありませんでした。水汲みは、女の人たちにとって当たり前の日々の働きでした。でも、水汲みは朝か夕方の仕事であり、普通はこのように日中に水汲みをすることはないはずなのです。このような時刻に水汲みをするこの人には、そうしなくてはならない事情なり思いがあるのです。もしかしたら、この女性は、他の人たちを避けて、誰にも会わないで済むように、このような日中の時間をねらって水を汲みに来たのかも知れません。
その当時、ユダヤ人とサマリア人は交際がありませんでした。その分裂を産み出したイスラエルの歴史を簡単に振り返ってみましょう。
イスラエルは紀元前1020年の頃、それまでの部族連合から王国となり、紀元前1000年に即位したダビデの時代にその王国はエルサレムを中心にした統一した国になりました。ダビデの子であり後継者であったソロモンが死ぬと、紀元前922年にイスラエル王国は南北(北イスラエルと南ユダの国)に分裂してしまいます。その時に、北イスラエルでは南ユダ国のエルサレム神殿に対抗する形でゲリジム山を聖なる場所に定めて独自の礼拝をするようになっていきます。それから200年後の紀元前722年に、北イスラエル国はアッシリア帝国に占領され滅ぼされてしまいます、そして、多くのイスラエル人が捕虜となってニネベに連行されていきますが、アッシリアの王は、サマリア地方に他民族の人々を入植させ、その地で他民族の人の結婚するように強制されるものもあって、サマリア地方の人々は生粋のユダヤ人から激しく嫌われるようになります。ユダヤ人はサマリア人を軽蔑し、サマリア人のゲリジム山での礼拝を認めず、彼らを異端視するようになりました。サマリア地方はイスラエル全体のほぼ中央部であり、このように国を分断して国力をそぐことは支配する外国の王たちの策略でもあったのです。イスラエル中央部のサマリアの人々と、南部のユダヤ地方の人々は、いわば近親憎悪とも言える関係になっていました。
主イエスは水を汲みに来たサマリアの女性に、静かに声をおかけになりました。「水を飲ませてください。」
サマリアの女は驚き戸惑って主イエスに尋ねます。「どうしてユダヤ人であるあなたが、サマリアの女である私に水を飲ませてくださいなどと頼むのですか。」
こうして主イエスとサマリアの女の間に会話が始まります。その中で主イエスは言われました。「あなたと話している私が誰であるかを知っていたら、あなたの方から私に生きた水を求め、私はあなたにそれを与えるでしょう。」
サマリアの女はこの言葉を聞いてもその意味が分からず、初めのうち二人の会話はすれ違い、イエスに応じるこの女性の言葉は的はずれでした。でも、二人の会話を通して主イエスの言葉は次第にこの女の心の奥深い思いと触れ合っうようになります。
このサマリアの女は、過去に5人の夫を持ち、今は夫とは呼べない男と連れ添う身でした。主イエスには、そのような女の人が自分に向けられる周りの人の視線や罵りの言葉を避けるために、昼日中にこっそりと水を汲みに来る思いが痛いほど分かったのでしょう。
主イエスは更に言葉を続けます。「こうしたサマリアの女であるあなたも私たちユダヤ人も、何の区別も差別もなく心を一つにしてありのままの自分を神にお捧げして礼拝をする時が来ている。今がその時なのだ。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」と、主イエスはこのサマリアの女に言うのです。そして「今あなたの目の前でこうして話しているこの私が救い主なのだ」と言っておられます。
こうしてこのサマリアの女は「生きた水」である主イエスと出会い、本当のありのままの自分に気付き、自分を取り戻し、喜びと感謝を持って神を礼拝する者へと変えられていくのです。
私たちも、誰もが皆、このサマリアの女のように、心の内に飢え乾く所があります。自分を人目につかないようにそっとその渇きを満たしたくなるし、渇きを潤したいと思ってしまいます。でも、私たちが自分の力だけで自分を癒そう、満足させようとした時、多くの場合ますます独りよがりになったり、自分の本当の気持ちとはかけ離れた事までしてしまい、ますます神の御心から離れ、他の人とのズレや壁を厚くしてしまうのです。このサマリアの女も、ユダヤ人からはサマリア人として差別され、同じサマリア人からはまともに生きられない女として蔑まれ、いつの間にかまともに人と目を合わせて会話することもなく生きるようになっていたことでしょう。こうした生活の中で心を固くして独りで自分を守る他なかった人が、主イエスに出会い、主イエスとの対話によって、疑いと頑なな心が解きほぐされ、癒されて、自分の本心に触れ、次第に自分を回復していくのです。
このサマリアの女が自分を取り戻して生きていくためには、主イエスによって受け容れられることが必要でした。同じサマリア人からさえ汚れた女として除け者にされてしまうようなこの人から、主イエスは水を飲もうとしました。この女は主イエスに声をかけられた時、戸惑いの中にも、自分を認めてくださったこのお方に心を動かされたに違いありません。そしてそればかりではなく、主イエスがこの人の全てを知っておられ、しかも自分でも隠しておきたい過去があるにもかかわらず、主イエスはそのことをもよくご存知の上でこの人を蔑むことなく、「あなたと共に一つの神に礼拝する時が今来ている」とまで言ってくださるのです。このようにして主イエスによって自分が生きていることを受け容れられ、慈しまれて、初めてこのサマリアの女は自分を取り戻して生きることが出来るようになっていきます。
イスラエルの民とサマリアの人々が互いに相手を敵視して心を頑なにする状況の中で、主イエスは双方の人々が共に神を礼拝することへと導いておられます。主イエスがこの女の人に「生きる水」を与えようと言われた水は、乾ききって頑なになった人の心を溶かして育む命の水であると言えるでしょう。
今日の聖書日課福音書で、主イエスは、私たちもこのサマリアの女と同じように、主イエスのお与え下さる交わりの中に生かされ、主イエスとの対話の中で御言葉に導かれて生きるように招いておられます。
このサマリアの女性は、はじめのうちは他の人々に会うことを避けていましたが、主イエスと出会って、水瓶をそこに置いたまま町の人々の中に入って行って、自分に命の水を与えてくださった主イエスのことを人々に伝えるようになりました。そして、多くの人が彼女の語ったことによって主イエスを信じるようになりました。自分が主イエスによって救われていることを人々の前で証することによって、サマリアのシカルの町には主イエスを救い主と信じる人々がたくさん生まれています。シカルの町の人々は、この女性が生まれ変わった体験を聞くことをきっかけにして、更に実際に主イエスと出会い、伝えられて信じる段階から実際に主イエスに出会って信じる事へとその信仰を確かなものにしていきます。そして、正統な礼拝は、エルサレム神殿かゲリジム山の聖所かと言う次元を超えて、つまり民族の違いを超えて、すべての人がどこにいても主イエスの名によって心を一つにして礼拝をすることへと導かれていきます。
私たちも、今、主イエスを記念するこの礼拝に招かれ集っています。主イエスのみ言葉と聖餐を通して育まれ、導かれ、心の奥底から新しくされて、喜んで人々に主イエスを証していく者へと育まれていきましょう。